三 : 萌芽 - (4) “梟雄”の顔
天正二年(一五七四年)正月。年賀の挨拶で大勢の家臣が岐阜城へ登城してきた。最前線に配置されている将を除いて、信長に詣でる者が多数詰め掛けた。信忠も織田家一門の一人として来訪者の対応に追われた。
登城してくる者の表情は、皆一様に明るい。元亀年間は周囲の敵対勢力の攻撃を凌ぐのが精一杯で、とても新年を祝う気分になれなかった。特に昨年は武田信玄の西上で御家存亡の危機が差し迫っていたのもあり、父・信長も家臣達も表情は堅く険しいものだった。しかし、最大の脅威である武田信玄は世を去り、頭を悩ませていた足利義昭も追放、一時は京の目前まで迫ってきた朝倉義景も浅井長政も倒し、一年で織田家を取り巻く環境は劇的に改善された。織田家の先行きを反映するかのように表情が明るくなるのも、当然と言えば当然と言える。
ただ、そんな中でも一人だけ浮かない顔をして面会の順番を待つ男が居た。男はどこか肩身が狭そうに、体を縮こまらせている。周囲の者達もその男を目にすると一瞬バツの悪そうな顔をしてから、すぐに目線を逸らす。皆、その男の方を向かずに他の者達と雑談していた。控えの間で、その男は明らかに浮いていた。
大広間で順に来訪者と対面する信長。一段低いところで信忠が控えていた。
奏者を務める近習が、父に耳打ちする。幾つか言葉を交わして近習が下がると、父は信忠の方に向かって楽しそうに声を掛けた。
「勘九郎、次は面白い奴が来るぞ」
何十人と新年の挨拶を受けてきたが、そんな事を言われたのは今日初めてだ。心なしか、父の声も弾んでいるように感じた。
ここまでの父は、挨拶を述べた者に対して一言二言返すだけだった。それでも声を掛けられた者は体を震わさんばかりに喜んで下がって行く。父は事務的に対処しているだけで、合間には時折退屈そうに欠伸をしていた。それが、今は目を輝かせてその者が来るのを待ち侘びている様子だった。
父がここまで会いたい人物とは誰だろうか。信忠は考えてみるが、思い当たらない。そうこうしている間に、奏者の声が大広間に響く。
「松永弾正様がお見えです」
その名を耳にした瞬間、信忠は「あっ!!」となった。直後、物凄い速さで体を屈ませて入ってきた久秀は、信長の前で土下座するように平伏する。
「この度は、身の程も弁えず上様に楯突いた愚か者の某に寛大な処分を下さり、真にありがとうございます!!」
畳に額を付けながら、文字通り平身低頭の態度の久秀。唖然とする信忠とは対照的に、笑いを噛み殺す父。
さらに、久秀の熱弁は続く。
「今後は上様から受けた御厚恩に報いるべく、粉骨砕身で働く所存! 上様の行く手を阻む者は、この弾正が成敗仕ります!」
大見得を切る久秀に、近習達も茫然としている。そもそも約一月前まで敵だった人間が舌の根も乾かぬ内に何を言っているのか、と冷めた目で見る者も居る。織田家では羽柴秀吉が身分に釣り合わない大言壮語を吐いたり大袈裟な挙動をしたりして柴田勝家を筆頭とする譜代の家臣達から疎んじられていたが、今日の久秀は秀吉と同じくらい媚び諂っていた。
見え透いた追従に主君も呆れると周囲の者は思っていたが……予想に反し、楽し気に笑っていた。
「そうか。俺の為に働いてくれると申すか」
「はい! 老骨の身ながら誠心誠意尽くさせて頂きます!」
這い蹲りながら声を大にして答える久秀。その様子に満足したのか、父は機嫌良さそうに声を掛けた。
「弾正の気持ち、よく伝わった。くれぐれも体を労わり、精々励め」
「ははーっ! ありがたき幸せ!!」
平伏している久秀はさらに頭を下げ、感謝の意を体全体で表した。その一方、信忠を始めとする他の者達は主君の久秀の扱いに内心驚いていた。
上洛を果たしてからは降伏してきた者に対して、信長は“(一部を除いて)一言二言形式的な言葉を掛けるだけ”で済ませる事が多かった。年賀の挨拶も同様で、新参の者については淡泊な対応に終始した。久秀は一度味方になりながらも織田家が苦しい立場に置かれている中で反旗を翻した、言わば“裏切者”だ。『どの面下げてやって来たか!!』と痛罵されても不思議でないのに……父は、親しい譜代の臣と接する時のように優しい言葉を掛けている。尾張や美濃に居た頃ならいざ知らず、織田家が上洛を果たして以降では極めて異例の対応だった。
満足気な表情を浮かべる信長。これで対面は終了――と思っていた矢先のこと。
「弾正殿」
ここまで無言を貫いていた信忠が、声を発した。久秀は「ははっ!」と応じるも、顔を上げようとしない。信忠としては世間で“極悪人”と呼ばれる久秀がどのような人相をしているのか一目確かめたかったのだが、ずっと面を伏せたまま動こうとしない。
顔を見たいのは信忠の我が儘なので、自分から呼び掛けるしかなかった。
「……弾正殿、面を上げてくだされ」
信忠に促され、久秀はゆっくりと頭を上げる。さて、どんな悪人面をしているのか――。
半分意地悪な気持ちで待っていた信忠は、久秀の相貌を目の当たりにして思わず面喰らった。
微笑みを湛えたその顔は、正に好々爺そのもの。織田弾正忠家は美形の家系だが、久秀も負けず劣らずの美男子だったことが窺い知れる。とてもではないが、目の前に座る老人が数々の悪業を重ねてきたとは思えなかった。
「どうやら、勘九郎様のご期待に添えなかったみたいで。相済みませぬ」
そう言うなり、いたずらっぽく笑った久秀はペコリと頭を下げる。対して、完全に自分の意図を見抜かれていただけでなく先に謝られてしまい、アタフタとする信忠。一段高い所に座る父もこうした展開になるのは予想していたみたいらしく、くつくつと笑っていた。久秀の方が明らかに一枚上手だったようだ。
父から以前久秀について聞いていたのもあり、信忠の中で“久秀は相当に悪い顔をしている”と勝手な思い込みをしていた。だからこそ、いざ対面してみて驚いた。世間で“梟雄”と呼ばれ、父は“毒”と評した人物とは思えないくらい、久秀は優しい顔つきをしていた。
「弾正。そのくらいにしておけ」
困り顔の信忠に、父から助け船が出された。それを合図に居住まいを正した久秀が、信忠の方に向き直る。
「失礼致しました。……して、某に何用ですかな?」
久秀が訊ねてきた。まさか自分の顔を見たくて声を掛けてきた訳ではないですよね? という意味合いも込められていた。
ただ、信忠も特に理由が無く呼び掛けたのではない。こちらも表情を引き締め、意を決したように告げた。
「私に――茶を指導して頂けませんか?」




