一 : 黎明 - (3) 傅役
岐阜に移ってきた兄弟だったが、環境はガラリと変わった。それぞれに部屋が与えられ、小姓も付けられた。ただ、生駒屋敷に居た時と比べて、好き勝手に遊んだり何処かへ行ったりという事は出来なくなった。
城には父の側室の子も居たが、他の弟妹に会う機会が殆ど無かった。それどころか、実の弟である茶筅丸と会う機会も極端に減ってしまった。それを苦と思う事は無かったが、これまで一緒に居る事が多かっただけに少しだけ寂しくはあった。
濃姫との対面の翌日、奇妙丸の元に一人の男が訪ねてきた。
「若、お初にお目に掛かります。御屋形様より傅役を仰せ付かりました、毛利“新左”にございます」
「傅、役……?」
平伏する新左に、怪訝な表情を浮かべる奇妙丸。
毛利“新左衛門”良勝。信長の馬廻の一人で、この年に作られた馬廻衆の中でも特に秀でた者が選ばれる黒母衣衆の一人にも名を連ねる若武者だ。一般的には毛利“新介”の名で知られる。生年を示す史料が残されてないので年齢は不明だが、この時は二十代後半から三十代前半と思われる。
「……何も聞いていないのだが」
突然の事にただただ困惑する奇妙丸が率直な気持ちを口にすると、新左の方も困ったような顔をして頭をポリポリと掻く。まさか昨日の対面の時に何も言わなかったとは露とも思ってもおらず、新左も面喰らっている様子だった。
傅役とは、武家の後継ぎを育てる大事な役目で、通常ならば分別のある年配の者や家中でも特に有力な者が付くとされる。しかし、奇妙丸の見たところでは新左はかなり若く、後見役よりも第一線で働いている方がしっくり来るように感じた。
ジロジロと見ていた所為か、奇妙丸が考えていた事は新左の方にも伝わった。ふぅ、と一つ息を吐いてから観念したように話し始めた。
「……その様子ですと、本当に御屋形様から何も伺ってないみたいですので、一つ一つお伝えしていきます」
「頼む」
どういう経緯でこういう事態に至ったのかさっぱり分からない奇妙丸には、新左の口から真実を聞く以外に方法は無い。新左は仕切り直して、再び話し始める。
「若はこの織田家の嫡男であらせられます。御屋形様の跡を継ぐに相応しいよう、色々と覚えてもらわねばならない事が山のようにございます。……それはお分かりになりますよね?」
「うむ」
奇妙丸は長男で、現段階における織田家次期当主の最有力候補だ。長男が必ず嫡男になる訳ではないが、武家の棟梁に相応しい教養は身に付けておかなければならない。これまでは母・吉乃が暮らしていた生駒家の屋敷で過ごしていたが、信長の元に引き取られた以上は武家の作法を覚える必要があった。
「本来であれば、筆頭家老の林“佐渡守”様か次席家老の佐久間“右衛門尉”様が傅役をなさるべきなのでしょうが……お二方共に多忙ですので」
林“佐渡守”秀貞は永正十年(一五一三年)生まれで、五十五歳。先代の信秀の頃から織田家を支える重臣で、主に内政面を担当していた。佐久間“右衛門尉”信盛は享禄元年(一五二八年)生まれで、四十一歳。秀貞同様に信秀の代から仕え、特に撤退戦が得意な事から“退き佐久間”の異名を持つ武将として知られていた。どちらも若手主体の織田家で重きを成していた。
新左が指摘したように、急成長を続ける織田家はやるべき事を多く抱え、重臣に若君の傅役を任せる程のゆとりは無かった。ただ、他にも理由があるように新左は感じていた。
信長にも信秀からの信頼が厚かった平手政秀が傅役に付いたが、若かりし頃の信長は“うつけ”と呼ばれる程の奇行に苦慮していた政秀は、信秀の死後暫くして奇行を止めない信長を諫める為に自刃。父亡き後に唯一の理解者と思っていた傅役の死に信長はひどく悲しみ、行動を改めたとされる。一方で、弟の信行に付けられた傅役の柴田勝家が家督を巡って戦になった時に散々に信長を苦しめた事から、有力な家臣を傅役にする事で渦中に火種を蒔くのを恐れたのではないか……と新左は見ていた。
「これからは私が剣や槍、乗馬の稽古、武家の作法などをお教え致します。また、学問につきましては別の者をお招きして若に受けてもらいます」
「……それは私が嫌と言えば拒めるものか」
「無礼を承知で申し上げるならば、若に拒む道はございません」
はっきりと言い切る新左。主君の子だからと阿るつもりは全く無いらしい。
「無礼を重ねるならば、御屋形様から『俺の子だからと手加減するな』と仰せ付かっております。嫌であろうと何であろうと、若を一人前に育てていく所存」
そう話す新左の表情からは、並々ならぬ決意が滲み出ていた。その裏表のない態度に、奇妙丸は好感を抱いた。
「……相分かった。それと、試すような事を言って済まなかった。どうか、お手柔らかに頼むぞ。新左」
「ははっ!」
奇妙丸が改めて声を掛けると、新左は恭しく頭を垂れた。
自分が“織田信長の嫡男”である事実は変えられず、受け容れなければならない。母が今際の際に話した言葉を胸に、奇妙丸は自分の足で歩み出そうとしていた。




