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二 : 立志 - (15) 信玄の強さ

 武田信玄が反信長包囲網に加わった事で、劣勢だった浅井・朝倉の連合軍も息を吹き返した。

 十月には武勇に優れ長政も一目(いちもく)置いていた宮部継潤(けいじゅん)が木下藤吉郎の調略に応じて織田方に転じるなど、浅井家から離反する動きが依然続いていたが、『武田動く』の報せが近江に届くと風向きが一気に変わった。

 信長は尾張・美濃が危ういと判断し、京から岐阜へ戻った。この時に、家老級の武将も一緒に岐阜へ向かった事で近江戦線は一軍を率いる将が手薄になった隙を逃さず、長政は小谷城に匕首(あいくち)を突き付けていた虎御前山砦を急襲。ただ、織田方が必死に防戦したのもあり、損害が増えるのを嫌がった浅井方は兵を引いた。それでも、武田勢西上の動きに呼応する形で浅井勢、七月から近江に滞陣を続けてきた朝倉勢は織田方へ積極的に仕掛けようとしていた。

 織田家の主力が美濃・尾張に終結し、東から届く武田勢の動向に神経を(とが)らせる中、十一月中旬に岐阜城の奇妙丸を訪ねて来た人物が居た。

「奇妙丸様。大宝寺の沢彦和尚が参りましたが……如何(いかが)致しましょうか?」

「何、和尚が?」

 伝兵衛から来訪を伝えられ、驚く奇妙丸。

 奇妙丸が約束もせず沢彦の元を訪ねる事は何度かあったが、沢彦の方からふらっと奇妙丸の元に訪ねて来る事は一度も無かった。どうしてこの緊迫した状況で訪ねて来たのだろうか。

「……いつまでも待たせる訳にもいくまい。すぐに部屋へ通してくれ」

「承知しました」

 奇妙丸が応じると、伝兵衛は一礼してから下がっていった。

 和尚の意図は分からないが、日頃からお世話になっている人を待たせておくのは失礼に当たる。まずは会ってみる事にした。

 先に奇妙丸が部屋に入って待っていると、伝兵衛に伴われて沢彦が現れた。

「あいや、そのままそのまま」

 奇妙丸が立とうとするのを穏やかな笑顔を浮かべながら制する沢彦。

「近くまで来たので、ふと奇妙丸様の顔が浮かんでな……年寄の我が儘を許してくれ」

「いえ、とんでもないです!」

 ゆったりと腰を下ろした沢彦が自らの非礼を詫びると、奇妙丸は恐縮したように(かぶり)を振る。

 奇妙丸は七月の初陣から約二ヶ月に渡り父に同行し、武田家が西上する動きを見せてからは万一の事態に備えて常時岐阜城に詰めていた事情もあり、沢彦と半年近く会っていなかった。こういう形ではあるけれど沢彦と会えて奇妙丸は率直に嬉しかった。

「しかし、久しぶりにお城へ入りましたが、皆表情が固く城の中の雰囲気が重く張り詰めているように見受けられました。何かありましたかな?」

 何気ない風に訊ねる沢彦に、奇妙丸は苦笑を浮かべる。武田家が遠江だけでなく東濃にも侵攻した事で、岐阜城下でも避難の動きが一部で出始めている。それを沢彦が知らない筈が無いのだが、敢えて口にしたのはそれだけ城内の空気が悪いのだろう。

 ただ、奇妙丸も安易に答えるのは(はばか)られた。武田家の動向は城下にも真偽定かでない情報が風の噂で流れてきているが、織田家が掴んでいる正確な情報を外部の人間に話すのはよろしくない。沢彦は信頼の置ける人物ではあるが、軽々(かるがる)しく明かす事は出来なかった。

「さて……遅くなりましたが、此度(このたび)は初陣を果たされたと伺いました。真に、おめでとうございます」

 沢彦が(かしこ)まって祝意を述べる。奇妙丸も「ありがとうございます」と応じた。

「初陣を経験されて、どのようなお気持ちですか?」

「……身が引き締まる思いです。私の采一つで敵味方問わず多くの人々の生活に影響を及ぼすと考えたら、軽々(けいけい)に断を下してはならないな、と」

 奇妙丸の答えに沢彦は満足そうにニコリと笑った。

「拙僧の教えをしっかりと自分のものとされており、安心致しました。(いくさ)独特の雰囲気に呑まれて、目の前の敵を倒す一点だけしか考えられなくなる者も決して少なくありませんから。一軍の大将たる者、一騎駆けの猪武者のような振る舞いは(つつし)むべきです」

 普段は物静かな人でも、戦場に立つと人が変わったように荒れ狂う事も珍しくない。それは独特の雰囲気だったり敵を倒さなければならない・生き延びたいという状況から精神面で(いちじる)しく(たかぶ)った状態に陥ったりで、頭に血が上り冷静な思考を保つ事が困難になるからだ。尤も、正気(しょうき)でいたら人の命を奪う事を生業(なりわい)とする野蛮な行為など出来ないのだが。

「和尚。大将が先陣を切って敵中へ突撃するのはよろしくない事なのですか?」

 二年前の姉川の戦いでは、敵方の浅井長政が先頭に立って織田勢に切り込んだ。総大将自ら危険を(かえり)みず戦う姿勢を打ち出した事により、何倍もの織田勢相手に本陣近くまで迫った。父も家督を継いだ頃は自ら槍を手に戦ったという。

 総大将が誰よりも前に出て敵に挑んでいく姿を見せるのは味方の将兵を発奮(はっぷん)させる効果があると奇妙丸は捉えていたが、どうやら沢彦はそう考えてない様子だ。

「国人同士の戦いなら、有効でしょう。されど、今の織田家のように大軍を率いる身では危険過ぎます」

 沢彦は奇妙丸の考えを認めた上で、否定した。

 先頭に立って戦う事は、当然ながら討死する危険性も伴う。その軍の指揮を(つかさど)る人物が討たれれば、その瞬間から軍全体が機能不全に陥る。それまでどんなに大勝していたとしても、大将が討たれたらその時点で取り返しのつかない大敗なのだ。その分かりやすい例が、桶狭間の戦いで命を落とした今川義元だ。自領を今川勢に侵食されて滅亡目前まで追い詰められていた織田家は、桶狭間の奇襲で今川方の総大将・今川義元を討ち取った事で一気に全てを覆した。この時の義元も自らの身の安全を確保した上で移動しており、桶狭間の休止を除けば慎重に行軍していた。逆に言えば。たった一つの隙で全てを引っ繰り返されるのだ。

 版図を大きく広げ、数万の兵を常時動かせる実力を持つ織田家にとって、最優先すべきは総大将である信長の身の安全だ。将兵の士気を上げる目的で掛け替えのない信長の命を危険に晒すのは、流石に割に合わない。

「奇妙丸様は今後、一軍を任される身。我が身を(いと)う事を第一に考えて行動するように心掛けて下さい」

「……分かりました。肝に銘じておきます」

 沢彦の助言を、素直に受け入れる奇妙丸。この五年の間、勉学だけでなく生き方でも影響を受け、奇妙丸にとって沢彦は人生の師と言っても過言ではない存在だった。自分の考えはあるが、沢彦の言葉は耳を傾けるだけの価値を感じていた。

「伝兵衛。折角和尚が参られたから、心ばかりの茶でもてなしたい。用意してくれないか?」

 ふと奇妙丸が伝兵衛に声を掛ける。はたと気付いたという風に、伝兵衛は何か感じ取ったみたいだ。

「これは失礼しました。では、直ちに持って参ります」

 自らの至らなさを陳謝した伝兵衛は、即座に立ち上がって部屋を後にする。残されたのは、奇妙丸と沢彦の二人きりである。

 伝兵衛が気の利く者で本当に良かった。奇妙丸は心の底からそう思った。

 遠ざかっていく伝兵衛の足音が聞こえなくなるのを確認してから、奇妙丸は(ふすま)を閉める。これで外から中の様子は(うかが)えなくなった。

「……和尚。昨今の情勢について、どの程度ご存知でしょうか?」

「まぁ、遠江や東濃など風に乗って流れてくるくらいには。人の口には戸を立てられませんので」

 奇妙丸が声を潜めて質すと、沢彦も控え目に答えてくれた。沢彦は市井(しせい)の人だけでなく臨済宗の僧侶同士の情報網も持っている。この当時、大名家と近しい僧侶は外交官の一面もあったので、情報通な存在であった。

 遠江や東濃など具体的な地名を挙げた事を受け、沢彦はある程度の情報を掴んでいると奇妙丸は判断した。

「……単刀直入にお伺い致します。織田家は、武田家に勝てますか」

 決意を持って訊ねた奇妙丸に、沢彦は厳しい表情を浮かべる。

「……正直に申し上げても、よろしいのですな?」

「はい」

 確認してきた沢彦に奇妙丸は臆することなく即答する。了承を得た沢彦は重々しく口を開いた。

「されば――はっきり申し上げて、厳しいでしょう」

 覚悟はしていたが、根拠のない憶測を(もと)に話さない沢彦の言葉は奇妙丸の心にズシリと圧し掛かった。

 さらに沢彦は続ける。

「武田家は兵も強いですが、将も一騎当千の猛者が揃っております。加えて、一国の主であってもおかしくない実力を持つ武将が臣従しているのは、(ひとえ)に総大将・信玄に心酔(しんすい)しているからに他なりません」

 武田家には“武田二十四将”と呼ばれる他家にも名が知られる名将が数多く在籍しており(元亀三年時点で死去している者も含まれる)、一国を治めるだけの才幹(さいかん)を持つ将が信玄の手足の如く動くのが武田家の強みの一つだった。

 一般的に、平地が多く豊かな国の兵は弱く、山地が多く貧しい国の兵は強いのが定説とされる。武田家が治める甲斐国は農耕に適した土地が少なく、信濃国も数少ない豊饒(ほうじょう)な土地を巡って国人同士が長年争ってきた地域で、そうした環境で揉まれて精悍(せいかん)な兵が生まれる土壌だった。また、甲斐国は国内有数の馬の産地である特性から、良質な馬に乗った勇敢な武者を主体とした騎馬隊は無類の強さを誇った。雑兵(ぞうひょう)から武者に至るまで、抜かりなく強いのだ。

 信玄自身も名将ではあったが、その家臣から末端の兵まで強かったからこそ“戦国最強”と謳われ恐れられたのである。

「遠江を治める徳川家は、国人を自らの輪の中に取り込むなど上手く懐柔しました。三河・遠江の兵は決して弱くはありませんが、武田勢の侵攻を食い止める気配はありません。徳川家でこのような有様ですから、それより弱い織田家は推して知るべしでしょう」

 徳川家の強さは、何度も助けられてきた織田家が一番熟知していた。金ヶ崎の退き口では、本来なら援軍なので助けに入る必要も無いのに嵩に懸かって攻め寄せる朝倉勢を殿(しんがり)で善戦し、姉川の戦いでは倍以上の朝倉勢と互角に渡り合った上で最終的には打ち破っている。越前の兵も決して弱くはなく数で圧倒的に劣る状況でも勝てる徳川家が、武田家相手では次々と城を落とされている。その事実が、織田家を震撼(しんかん)させるだけに値する衝撃だった。

「武田家だけならば、まだ対応出来たでしょう。しかし、吉法師様は内にも外にも敵を抱えております。これでは分が悪いです」

 動員規模だけなら織田家が飛び抜けているものの、多くの勢力と敵対関係にある。北近江に浅井・朝倉、畿内の松永久秀・三好義継、摂津には三好三人衆、伊勢長島の一向一揆……今挙げた勢力に押さえの兵を割かねばならず、そうなれば自然と武田家に()てる兵の数も少なくなる。

 その上、将軍・足利義昭と信長の関係は修復不可能なくらいに悪化している。義昭は信長を(おびや)かす兵力こそ持たないが、将軍の権威は依然健在である。義昭が信長討伐の御内書を各地の大名達に送っているが、それは挙兵を決断する充分な大義名分になり得る。敵対行為に走る義昭を切りたい信長だが、没落したとは言え相手は将軍、見放せば悪者にされるのは目に見えている。信長にとって義昭は当初の神輿(みこし)から獅子身中の虫に変わっていた。

 ただでさえ“戦国最強”の呼び声高い武田家と対峙するだけでも大変なのに、各地の敵対勢力の動きを牽制しつつ、さらに義昭の動向も注視しなければならない。正に、厄介極まりない状況だった。

「では、我等はどのように武田家と相対すればよろしいのでしょうか?」

 奇妙丸が訊ねると、沢彦は腕を組んで黙り込んでしまった。余程の難題だったらしい。

 暫く沈思黙考(ちんしもっこう)していた沢彦だったが、やがて答えを導き出したのかゆっくりと語り始める。

「……信玄は野戦に絶対の自信を持っておりますので、避けるべきです。城攻めはやや苦としておりますが、それでも並の武将と比べれば劣っているという訳ではありません」

 天文十九年(一五五〇年)九月、武田晴信(後の信玄)は信濃の有力国人・村上義清(よしきよ)の居城である砥石(といし)城を攻めたものの落城させられず、退却する際には逆に村上勢の反撃を受けて多数の死傷者を出してしまった。後に“砥石崩れ”と呼ばれる大敗で、晴信は生まれて二度目の敗北とされる。また、永禄十二年十月一日には北条氏康の本拠・小田原城を包囲したが、その昔に上杉謙信が総勢十万の兵で囲んでも落とせなかった固い守りを誇る城へ我攻(がぜ)めする愚は犯さず、五日には囲みを解いて撤退している。このように、野戦に比べ城攻めでは勝ちに結び付かない事も多かったが、砥石崩れの翌年には武田家家臣で信濃国人の真田幸綱(ゆきつな)(後の幸隆(ゆきたか)、武藤喜兵衛の父)が調略で砥石城を乗っ取り、永禄十二年の相模侵攻でも小田原から甲斐へ引き揚げる途中で戦を仕掛けてきた北条勢を三増(みませ)峠で返り討ちにしており、城攻めで失敗したとしても内部の切り崩しや野戦に引きずり込むなどして勝利を収めていた。

「吉法師様がこれまで信玄に対して平身低頭の姿勢を貫いてこられたのは、御自身が戦で敵わないと自覚していたからです。もし四年前の上洛に信玄が異議を唱えていたなら、今の織田家の繁栄は無かったことでしょう」

 永禄十一年に信長が義昭を擁して上洛するに当たり、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信に対して事前に了承を得る書状を送っている。特に、国境を接している信玄には辞を低くして『義昭を正当な将軍に就かせる』事が目的であると念押ししていた。上洛戦を行う為に大半の兵が国元を離れるので、がら空きになった領地を空き巣のように武田家が攻め込んできたら非常に困るからだ。

 武田家の軍勢が周辺諸国と比べて群を抜いて強いのは、一騎当千の武将や良質な馬を揃えた騎馬隊を抱えているのもあるが、総大将の信玄が特に優れた武将である点も大きい。“風林火山”の旗指物を用いたように、『六韜(りくとう)』『三略』だけでなく『孫子』も愛読していた信玄は、戦術の引き出しが他の武将と比べて豊富だった。さらに、信濃へ版図を広げていく中で村上・小笠原などの有力国人や上杉謙信と死闘を繰り返し、この経験がさらに信玄を成長させたのだ。知識・経験のみならず戦場での駆け引きや時機の読みにも長けていた事から、現時点で信玄に対抗出来るのは“軍神”と(あが)められる程に無類の強さを誇る上杉謙信くらいしか居ないだろう。

 沢彦の話を聞いていたら、織田家が武田家に勝てる要素が一つも見当たらなかった。奇妙丸が何も言えずにいると、襖の外から不意に声が掛かった。

「失礼致します。沢彦様、御屋形様が是非お会いしたいと……」

 部屋の外から伝兵衛が訊ねてきた。沢彦は父の学問の師であり、岐阜改名に助言を与えるなど懐刀(ふところがたな)的な役割も担っていた。沢彦が城内に居ると知った父が招くという事は、相当に切羽(せっぱ)詰まっている裏返しである。

「畏まりました。すぐに参ります。……奇妙丸様、失礼します」

 沢彦が奇妙丸に一礼すると、自ら襖を開けて部屋を後にした。一人残された奇妙丸は、重苦しい空気の中でじっと何かを()えるような表情で座っていた。


 信玄率いる武田勢は遠江の徳川方の城を次々と落としていき、十月十六日までに二俣(ふたまた)城へ到達した。二俣城は天然の要害な堅城で、浜松城・掛川城・高天神城の三城のほぼ中間に位置していた事から、遠江支配の(かなめ)となる重要拠点だった。家康も二俣城の危機に自ら軍勢を率いて救援に向かおうとしたが、徳川勢の先遣隊が武田本隊と遭遇。徳川家家臣の本多“平八郎”忠勝や大久保“治右衛門(じえもん)忠佐(ただすけ)などの奮闘もあり、家康は浜松城へ無事に帰還している。家康は単独で武田勢と対抗するのは困難と判断、織田家へ援軍を要請した。信長は家康の求めに応じ、十一月下旬には佐久間信盛・平手“監物(かんぶつ)汎秀(ひろひで)・水野“藤四郎(とうしろう)”信元などの七将と三千の兵を浜松へ送った。だが、十一月に武田方が二俣城の水の手を絶ち、これ以上の抗戦は難しいと判断した城方は将兵の助命を条件に開城。二俣城は武田家の手に落ちた。

 二俣城を攻略した武田勢の次の狙いは徳川家の本城・浜松城と踏んだ家康は籠城策を()り徹底抗戦の構えを示した。対する信玄が率いる武田勢は、十二月二十二日に二俣城から出陣すると西に進路を取って浜松城を素通りする動きを見せた。これを『愚弄(ぐろう)された』と激怒した家康は家臣や織田家から来た将の制止を振り切り、急転出撃を決断。織田家の援軍も含めた総勢一万一千の兵で浜松城を()った。家康は三方ヶ原を通過した武田勢を背後から襲う算段を立てていたが、徳川勢が夕刻に三方ヶ原へ到着した時には――通過した筈の武田勢は魚鱗(ぎょりん)の陣を()いて待ち構えていたのだ! ()められたと後悔した家康だが、今更兵を引く訳にもいかない。急遽(きゅうきょ)鶴翼(かくよく)の陣を布き、武田勢の攻撃を受ける態勢を整えた。開戦当初こそ互角の争いを繰り広げていたが、徳川勢のほぼ倍の約二万二千の兵に百戦錬磨の武田の将兵は(あらかじ)め敵を叩く積もりで準備していたのもあり、次第に武田方が優勢へ傾き始める。そして、開戦から一刻(約二時間)程で決着がついた。徳川方は多くの将を含む約二千名が戦死、大将・家康も命辛々(からがら)で浜松城に逃げ帰った。また、応援に駆け付けていた織田方の平手汎秀が討死するなど、織田方にも少なからず死傷者を出している。完膚(かんぷ)なきまでに徳川勢を叩きのめした武田勢は遠江を西へ進軍、刑部(ぎょうぶ)村に滞陣してそのまま年を越した。

 遠江侵攻から連戦連勝の快進撃を続け、三方ヶ原でも完勝した事で家康は浜松城から動けなくなってしまった。年が明ければ信玄の次なる標的は三河、そしてその先にある尾張に及ぶのではないか。織田方は迫り来る脅威に戦々恐々としていた。

 ここまで隆盛(りゅうせい)を誇っていた織田家の命運も、最早尽きたか。世間の人々の多くがそう捉えていたが、事態はその予想を大きく覆すものになる――。


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