二 : 立志 - (13) 暗雲立ち込める
時は少し遡り、元亀三年八月。織田家にとって良くない動きが二つあった。
一点目は、越後の上杉謙信。北信濃の領有を巡り五度に渡る合戦を繰り広げてきた上杉謙信は、信玄にとって宿敵とも言える存在だった。これまでは信玄が長らく領国を空けていると北信濃へ侵攻される恐れを抱えていた。謙信に何度も煮え湯を飲まされてきた信玄は一計を案じた。元亀二年頃から加賀の一向一揆勢力へ秘かに信玄は使者を送り、謙信が手を伸ばしている越中で一向一揆を起こすように仕向けたのだ。これにより、一揆勢は越中国内の反上杉方の国人と結託して上杉勢と対抗する姿勢を鮮明にした。越中の騒擾を放置していれば本国である越後へ飛び火しかねず、已む無く謙信は一向一揆鎮圧を優先せざるを得なくなった。元亀三年八月六日、謙信は当初予定していた関東遠征を中止。十日に越中へ向けて出陣した。九月に一向一揆との戦に勝利し、結果的には越中における反上杉勢力に大打撃を与えたのだが、信玄にとって目の上のたんこぶだった謙信が北信濃へ進出してくる不安は取り除けた。
もう一点目は、美濃と信濃の国境付近、即ち織田領と武田領の緩衝地帯に当たる遠山家の話だ。
元亀三年八月十四日。遠山家の当主・遠山景任が病死した。厄介だったのは、景任に子どもが居なかった事だ。景任が城主を務めていた岩村城は織田家の防衛上極めて重要な城であり、後任不在の状況は由々しき問題であった。信長は直ちに庶兄・信広、河尻秀隆を岩村城へ派遣・接収。その上で遠山家には信長の五男・御坊丸を養子に入れ、当主に据えた。但し、御坊丸はまだ四歳の幼子だった為、景任の妻で信長の叔母に当たる“おつやの方”が実質的な当主となった。
不安材料は幾つかあったが、信長も静観していた訳ではない。周りを敵に囲まれた現状を打破すべく精力的に動くと共に、これまで敢えて見過ごしていた内なる敵に切り込んだ。
元亀三年九月、信長は将軍・足利義昭に対して十七ヶ条にも及ぶ異見書を提出した。その内容は日頃の義昭の振る舞いを諫めるもので、朝廷への参内を怠ったり独断で自らの家臣に知行地を与えたりしている事が記されていた。この異見書は複製した上で各地に流布された事により、信長が暗に『義昭は将軍としての仕事をしていない』と世に訴える狙いがあった。
信長の最後通牒とも言える異見書を突き付けられた義昭だったが、行いを改める事はしなかった。信長と義昭の冷え込んだ関係は最早修復不可能な領域に達しており、袂を分かつのも時間の問題だった。
これ以降も信長は義昭を将軍として扱ったが、義昭の方は信長に隠れて各地の大名達に反織田の兵を挙げるよう促す御内書を送り続けた。この御内書の存在は義昭が信長討伐の意思を示したと解釈され、各地で反信長に向けた動きが加速していく事となる。
元亀三年九月二十九日。武田信玄は山県昌景・秋山虎繁の両名に三千の兵を預け、信濃から奥三河へ侵攻させた。三河は徳川家の領国であり、この軍事行動を機に徳川・武田家は手切れとなった。十月三日、総大将である信玄も二万三千の兵を率いて甲府から出陣。十月十日には遠江へ侵攻した。また、浅井・朝倉の両家にも使者を送り、織田方を後方から牽制するよう要請している。
徳川家の方も、永禄十二年の同盟破棄から武力衝突こそ無かったものの、いつかこうなると覚悟はしていた。ただ、織田家はまだ干戈を交えてないのもあり、警戒感は高まっているが危機感はそんなに抱いていない部分があった。しかし、今回の信玄が大軍を率いて甲府から出陣したのは、足利義昭が反信長の兵を挙げよという求めに応じ、尚且つ昨年焼き討ちに遭った延暦寺再興を掲げていた事から、その矛先が織田家に向けられるのは明白だった。
十月十三日、信玄は部隊を二手に分け、馬場信春に五千の兵を預けた別動隊は中遠江方面へ進軍させ、残り一万七千の兵を連れた信玄率いる本隊は北遠江の複数の城を僅か一日で落とした。武田勢は次々と徳川方の城を攻略し、快進撃を続けていく。
山県昌景・秋山虎繁の別動隊もまた、当初の目的である奥三河を手中に収めると二手に分かれた。昌景の部隊は傘下に入った奥三河の国人衆と共に遠江方面へ南下、秋山虎繁の部隊は北上した。狙いは――先日城主が替わったばかりの、美濃・岩村城!




