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二 : 立志 - (10) 延暦寺焼き討ち

 元亀元年十二月に敵対する勢力と和睦を結んだ織田家だが、その効力は一時的なものに過ぎなかった。信長は、織田家は、この状況を少しでも好転すべく冬の間も動いていた。特に、雪で身動きの取れない朝倉家の支援が見込めない浅井家に狙いを絞った。

 姉川の戦いで浅井家の居城・小谷城に次ぐ重要拠点だった横山城を奪取した織田方は、南近江を中心に浅井方の国人達に圧力を掛けた。横山城が楔になる形で浅井家の救援が望めない厳しい状況下で、浅井方の国人達は織田方の圧力に抗いきれず続々と降伏していく。二月二十四日には、前年の姉川の戦いで織田方を散々に苦しめた猛将・磯野員昌(かずまさ)が織田方に(くだ)り、浅井家に衝撃を与えた。員昌の佐和山城には丹羽長秀が入り、代わりに高島郡が与えられている。員昌の投降で織田方は南近江の大半をほぼ掌握し、美濃と京を繋ぐ経路を確保した。

 国人が続々と離反していく影響で動けない浅井家。隣国・加賀国の一向一揆勢力が越前へ侵攻し、そちらの対処を優先せざるを得ない朝倉家。この状況に、信長はまず足元の伊勢長島の一向一揆鎮圧に乗り出した。

 元亀二年五月十二日。信長は五万の兵を率いて伊勢へ出陣。軍を三手に分けて長島へ攻め込んだが、“輪中(わじゅう)”と呼ばれる三角州の周りを高い堤防で囲んだこの土地特有の地形もあり、(かんば)しい成果を挙げられなかった。これ以上の戦は無益と判断した信長は十六日に撤退を開始すると、一揆勢は道中の隘路(あいろ)に鉄砲兵や弓兵を配置して織田方を待ち伏せて奇襲を仕掛けた。総大将の信長は何とか難を逃れたものの、殿(しんがり)を務めた柴田勝家が負傷、旗指物も奪われてしまった。勝家に代わり殿を務めた氏家卜全(ぼくぜん)も卜全を始めとする家臣数名が討ち取られる大敗を喫した。結果的に、織田方は多数の損害ばかり目立つ戦となった。

 六月に入り、織田方を取り巻く環境が悪い方向に傾く。元亀二年六月十一日、朝倉義景は加賀の一向一揆の関係で敵対していた石山本願寺の顕如と和睦。両家友好の証に、顕如の子・教如(きょうにょ)と義景の娘・四葩(よひら)(三条殿)の婚約が決まった。同日、足利義昭は大和の筒井順慶の元に九条家の娘・多賀姫を自らの養女にした上で嫁がせた。順慶は大和国内で松永久秀と激しく争っており、織田家に仕えながら幕臣でもある久秀からすれば不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった。その順慶に義昭が(くみ)した事に激怒した久秀は主家筋の三好義継と共に離反。義昭を支える信長とは明確に敵対する意思を示さなかったが、味方を失った点では痛手であった。

 苦しい状況が続く中、信長は八月十八日に浅井家の本拠・小谷城を攻めた。その後、九月一日に南近江で遊撃線を展開していた六角勢と一向一揆勢が拠点としていた志村城・小川城を柴田勝家・佐久間信盛が攻め落とした。九月十一日、織田勢は坂本・三井寺付近まで進軍し、総大将の信長は三井寺の山岡景猶(かげなお)の屋敷に本陣を構えた。


 元亀二年九月十三日。岐阜城の自室で書見をしていた奇妙丸の元に、伝兵衛が慌てた様子で駆け込んで来た。

「伝兵衛か。如何した」

 常に落ち着いている伝兵衛が取り乱した姿であるのを見た奇妙丸は、只事でないと察して書物を閉じる。

「申し上げます。昨日、御屋形様率いる軍勢が比叡山に侵攻。全山焼き討ちにしたと報せが……」

「何だと!?」

 息を整えてから伝兵衛が一息で告げると、奇妙丸は思わず驚きの声を上げた。

 延暦寺は日本の仏教界の権威であると同時に、皇室や公家とも繋がりの深い寺であった。しかし、現在の延暦寺は厳しい修行や仏の教えを追究する者は極少数で、戒律(かいりつ)で禁じられた肉食(にくじき)色欲(しきよく)(おぼ)れ、金や権力に執着する者が大多数を占めるなど、堕落しきっていた。本来あるべき姿とは乖離(かいり)しながらも、延暦寺を攻撃すれば帝を始めとした天皇家や公家を敵に回す事になりかねず、迂闊(うかつ)に手を出すのは(はばか)られていた。

 そうした事情がありながらも、父・信長は延暦寺を攻撃した。これは相当な事である。

「伝兵衛。大宝寺の沢彦和尚へ遣いを送り、急ぎお越し頂くようお願いせよ。和尚が着くまでの間に、出来るだけ情報を集めよ」

「承知仕りました」

 奇妙丸が命じると、伝兵衛は急いで下がっていく。

 沢彦和尚を呼んだのは、この前代未聞の事態にどう対処すればいいか知恵を借りたかった為。和尚に見解を伺うにしても、情報が足りていなかった。今後続報が入ってくるだろうから、可能な限り集めておきたい。

 奇妙丸からの突然の要請にも、沢彦は二つ返事で了承してくれた。半刻後、岐阜城に到着した沢彦は普段と同じように奇妙丸の部屋にやってきた。

「奇妙丸様。本日は如何されましたかな?」

「実は――」

 その場で父が率いる軍勢が比叡山を焼き討ちにした事を説明した。沢彦は皆が驚いた一報を聞いても泰然自若(たいぜんじじゃく)としていた。

「左様でしたか……して、どのような経緯でこうなったか、お分かりになりますか?」

「そちらにつきましては、(それがし)の方から説明致します」

 沢彦から訊ねられると、伝兵衛が応じた。

 九月十一日。織田方数万の軍勢が瀬田・三井寺に布陣すると、驚いた延暦寺は信長へ使者を送った。その際に黄金の判金三百枚、堅田から二百枚の合計五百枚を信長へ献上する代わりに、攻撃を中止するよう嘆願(たんがん)した。しかし、信長はこの要求を拒否、黄金も受け取らず使者を追い返した。この緊迫した状況に坂本の一部住民が山へ避難するなど動きが見られた。

 翌十二日。麓の坂本・堅田周辺を放火したのを合図に、全軍が比叡山へ侵攻を開始した。信長の命令は『比叡山に居る者は問答無用に殺せ。建物は焼け』と苛烈な内容だった。一部逃れた者も居たが、大多数は老若男女関係なく殺戮(さつりく)され、伽藍(がらん)は全て灰燼(かいじん)()した。翌十三日、後処理を明智光秀に託し、信長は馬廻衆を連れて京に戻った。

 伝兵衛の説明を受けた沢彦は「成る程」と一言漏らしただけで、特段驚いた様子は見られなかった。

「……さて。奇妙丸様は拙僧に何を伺いたいのですかな?」

 沢彦から問われた奇妙丸は、やや強張った表情で訊ねた。

「……此度、このような仕儀に至りましたが、世間はこの一件についてどう感じるでしょうか」

 奇妙丸が不安に感じていたのは、世間の反応だった。武家の禁忌(きんき)の代表的なものとして“肉親殺し”“主君殺し”“坊主殺し”の三点が挙げられる。どれか一つでも犯せば大逆(たいぎゃく)人の烙印を押され、人心が離れる汚点になる。父・信長は今回、延暦寺の焼き討ちで大勢の僧侶を殺している。その行動を世間はどう受け止めるのか、奇妙丸は気掛かりだった。

「そこまで心配する必要はありませんな」

 深刻な顔の奇妙丸とは対照的に、あっけらかんと答える沢彦。

「延暦寺には仏教の道を追究する立派な御坊様も()りますが、それもほんの一握り。残りの大部分は欲に溺れる破戒(はかい)僧ばかり。稚児(ちご)を抱くに飽き足らず、女色を追い求めて坂本に延暦寺の僧向けの遊女屋が何軒も立ち並ぶ有様。金に目が(くら)み、高位欲しさに賄賂を贈る事が常態化。文句を言う者が居れば武装した僧兵が押し掛ける。正にやりたい放題ですな。権威に胡坐(あぐら)をかく延暦寺の僧は京でも特に評判が悪く、口さがない民からすれば『天罰が(くだ)った』くらいの認識でしょう」

 いつになく舌鋒鋭い沢彦。突き放すような言い方に、奇妙丸は目を点にした。

「……なかなか手厳しい意見ですね」

「拙僧も決して褒められたものではありませんが、延暦寺の坊主共は欲に(まみ)れて僧侶と呼ぶのも烏滸(おこ)がましい。無頼漢(ぶらいかん)の集まりです。それに権力や権威を伴っているから余計にタチが悪い。そうした輩を内部で叱るなり処罰するなりすれば良かったのに、延暦寺はそうしてこなかった。自浄能力が無い時点で同罪です」

 さらに沢彦は続ける。

「武家同士の争いに介入したのがそもそもの間違いでした。自らの利権や権威が(おびや)かされるのを恐れて浅井・朝倉に肩入れしたのでしょうが、これで吉法師様を怒らせてしまった。所詮は尾張から出てきた、勢いだけで()し上がった成り上がり者と見縊(みくび)っていたのもありますが、吉法師様の力量を見誤った。実際、昨年の段階で吉法師様から警告を含んだ提案を示したが、延暦寺はそれを袖にした。身から出た(さび)としか言えません」

「それでも、焼き討ちや皆殺しにしなくても……」

 奇妙丸の言葉に、沢彦は黙って首を振る。

「お気持ちは分かります。されど、これくらい強い態度で臨むべきです」

 そう言った沢彦は人差し指と中指を立て、話し始めた。

「まず一点。延暦寺の領地が畿内を治める織田家にとって重要な地域だから、です」

 延暦寺の影響力が大きい琵琶湖西岸地域は、日本海航路の重要拠点である敦賀と京を結ぶ街道が通っている。延暦寺は坂本に関を設けて通行税を徴収しており、自由な往来を(さまた)げ物価に悪影響を与えていた。また、北陸方面から京を攻める場合、琵琶湖西岸を通るのが最短経路となるので、防衛上の観点から押さえておきたかった。さらに、延暦寺は数万の兵を収容出来るだけでなく、山を越せば京はすぐそこという地理的関係にあり、ここに敵が籠もれば織田方は身動きが取れなくなるのは昨年証明されている。

「もう一点。予め警告したにも関わらず実行に移さなければ、他勢力から見縊られるからです」

 武家同士の戦でも、攻めた城の兵士だけでなく非戦闘員も皆殺しにする例は少なからず存在した。こうした苛烈な対処は『刃向かうと、早く降参しないと同じ目に遭うぞ』という見せしめの意味が強い。加えて、信長は昨年の時点で『敵になるなら焼き討ちするぞ』と警告している。脅しでなく本気で実行しなければ、今後同じような状況で『織田は厳しい事を言っているけれど、実行はしない』と舐められる恐れがある。断固とした態度で毅然(きぜん)と実行した事で、今回の帰趨を見守っていた他勢力に『織田はやる時はやる』とする意識を植え付けられた。

 沢彦の解説を聞いても、奇妙丸の表情は晴れない。

「……意義は分かりました。ですが、今回の焼き討ちで人心が離れる恐れがあるのではないでしょうか?」

「確かに。例え、今回の焼き討ちは延暦寺に非があったとは言え、何も知らぬ者は吉法師様を非難するでしょうな。また、敵対する勢力に吉法師様を倒す大義を与えた事になり、動揺する者も出てくるでしょうな」

 奇妙丸の懸念に対して、沢彦は否定せず敢えて同調する。

 堕落しているものの、延暦寺は数多くの名僧を世に送り出してきた日本仏教界の権威であり、皇室も認めた都の守り神である。その由緒ある名刹を蹂躙(じゅうりん)する行いは、決して許されるものではない。特に仏教関係からの反発は必至で、その怒りが敵対勢力に追い風が吹いたり、敵対していない勢力が織田家に刃を向ける口実になる可能性は十分に考えられた。

「しかし、拙僧は吉法師様を上回る大逆人を知っています。それも、家中に」

 沢彦の含みを持たせた発言に、奇妙丸は首を(かし)げる。そんな人、家臣の中に居たかな……?

 心当たりがない奇妙丸に、沢彦は端的に答えを明かした。

「松永弾正ですよ」

 その人物の名前を聞いた瞬間、奇妙丸は合点がいった。

 松永“弾正忠”久秀。永正(えいしょう)五年(一五〇八年)生まれの六十四歳。出身は山城国西岡とも摂津国五百住(いおずみ)とも言われ、商家の生まれとも土豪の生まれとも言われており、生い立ちについては定かではない。久秀が歴史の表舞台に名前が出てきたのは、天文九年(一五四〇年)六月九日に三好長慶が寺へ寄進する書状に当時右筆(ゆうひつ)を務めていた久秀が“弾正忠”の官名で伝達したのが初見とされる。この時の久秀は三十三歳、平均寿命が短い戦国時代でかなり遅咲きの部類に当たる。三好家が畿内で勢力を拡大させていくにつれ、長慶に重用された久秀は次第に頭角を現していくことになる。

 永禄二年、長慶の命で大和国の攻略を開始。有力国人の筒井家や武家と同等の影響力を持っていた興福寺などを破り、翌永禄三年に大和国統一を果たした。大和国は大小様々な国人や寺社勢力が複雑に絡み合って統治が難しい国柄で、その大和を一つにまとめる久秀の才は並大抵のものではなかった。同年一月には当時の将軍・足利義輝の御供(おとも)衆に任じられ、幕府の中でも地位を確立していく。同年十一月には信貴山城を居城とし、さらに永禄七年には多聞山城へ移り大和国支配を確固たるものにしようと久秀は奔走していた。

 久秀が三好家・幕府の中で着実に影響力を増していく一方で、永禄四年から七年にかけて長慶を支えてきた嫡男や弟達が相次いで死去していくと、家中で『久秀が毒を仕込んだのでは?』と疑念が向けられた。これは久秀が三好家の譜代の臣でない点や出世街道を驀進(ばくしん)する久秀へのやっかみから来ていたが、三好家内部で久秀のことを快く思わない者が居る裏返しとも言える。その後、永禄七年七月四日に主君長慶が死去すると、跡を継いだ義継を三好三人衆と共に支えていく姿勢を見せた。

 そして――永禄八年五月十九日。将軍・足利義昭が弑逆(しいぎゃく)される驚天動地の大事件が起きる。当日、久秀は大和国に居て大事件に一切関与していなかったが、義輝襲撃に嫡男で松永家の家督を継いでいた久通(ひさみち)が加担していたが為に、世間から“久秀が裏で久通を操っているのでは?”と誤った認識が広まってしまい、結果的に久秀は“将軍殺し”の汚名を着せられる事となる。

 同年八月二日。久秀の弟・“甚助”長頼(ながより)(内藤“蓬雲軒”宗勝(そうしょう)とも)が統治していた丹波国で戦死。これにより久秀の三好家内部での発言力に影を落とし、やがて三好三人衆と対立するようになると久秀は家中で孤立してしまった。永禄九年には三好三人衆が担いだ将軍義栄が久秀討伐の命を出すと、三好三人衆を中心とした三好勢に大和国内で覇権を争っていた筒井順慶も加わり、久秀は窮地に立たされた。だが、永禄十年二月十六日、三好三人衆の専横に不満を募らせた義継が久秀方につくと、劣勢だった久秀も巻き返し始める。

 何とか久秀の息の根を止めようとする三好三人衆方は、四月に入り大和国へ侵攻。東大寺に本陣を構えた。三好三人衆方は数的優位に加え、皇室と繋がりの深い由緒ある東大寺には流石の久秀も“手を出さないだろう”という読みがあった。しかし――十月十日、久秀は東大寺を急襲。まさか仕掛けてくるとは思ってもいなかった三好三人衆勢はひどく狼狽し、敗走した。ただ、この戦いで東大寺は大仏殿を始めとした多くの建物を焼失。放火説、失火説など諸説あるが、戦に巻き込まれる形で焼け落ちた事実に変わりはない。久秀は戦の勝利で大和国の支配権を回復したが、その代償として“東大寺焼き討ち”の汚名が追加させられた。

 その後、三好三人衆や筒井順慶の反撃で苦境に陥ったが、同時期に信長が足利義昭を擁して上洛する兆しを見せると、久秀は(いち)早く信長に(よしみ)を通じた。九月二十七日、摂津国・芥川山城で主君筋の三好義継、嫡男で松永家当主・久通と共に信長へ拝謁(はいえつ)。十月四日に再度信長に拝謁した際には、天下の名品と名高い茶入“九十九髪茄子”を献上、織田家に降る意思を示した。その後、久秀は大和国一国を安堵され、織田家の忠実な家臣として働いている。特に、元亀元年の金ヶ崎の退き戦では向背定かでない朽木元網を説得して信長を無事に京まで帰らせる事に多大な貢献をしている。

 このように、松永久秀は世間から“梟雄(きょうゆう)”の印象が強いが、過去の悪業が元で家臣から見限られる事もなく、自立した大名として今も健在である。

「松永弾正をご覧なさい。“将軍殺し”“東大寺焼き討ち”の汚名を着せられながら、今も生きております。悪名を恐れて自らが正しいと信じる事を曲げてはなりません。強ければ黒いものも白となるのです。肝心なのは、強さ、力です」

 はっきりと断言する沢彦。その言葉に、奇妙丸も“そうかも知れない”と思えてきた。

 父・信長が昨年九月下旬からの苦しい状況を(しの)げたのも、京を押さえていた事が大きかった。京の都を押さえていた事で、将軍義昭や正親町天皇に働きかけて和睦に結び付けられた。もしも京が敵の手に渡っていれば、信長討伐の綸旨(りんじ)が出されて、さらに追い詰められた可能性が高い。

 昨年五月に二人きりで話をしていた時のことが、ふと頭に(よぎ)る。周囲から『うつけだ』と笑われても自分が正しいと信じた道を貫いた父は、それすらも誇りに感じている節があった。……多分、今回も一緒なのだろう。世間が何と騒ごうが構わない。最後まで立っていた者が真の勝者なのだ。勝つ為なら恥も汚名も甘んじて受ける。父はそうやって生きてきたし、これからも変わらないだろう。そんな父を、頼もしく感じる時がある事を、奇妙丸は薄々気付いていた。

「……分かりました。父を信じて、待とうと思います」

 吹っ切れた表情で奇妙丸が言うと、沢彦はうんうんと頷いた。

 延暦寺の焼き討ちが今後どのような影響を及ぼすか、奇妙丸には見当もつかない。それでも、“天下布武”を掲げて戦っている父がそう易々と負ける筈がない。批判を恐れず、自分の信じた道を突き進んでいく父を、奇妙丸も信じてみようと思った。


 前代未聞と言える延暦寺の焼き討ち・大量虐殺に、仏教界を中心に強い反発が上がった。一方で、延暦寺と繋がりの深い皇族や公家などは沈黙していた。天台座主(ざす)覚恕(かくじょ)今上(きんじょう)天皇の弟で焼き討ち当日は京に滞在しており難を逃れたが、一連の事態を招いた責任を取り辞意を表明している。焼き討ちという悪業を行った信長に非難の声はあったが、それが要因となる悪影響は見られなかった。この点では、沢彦の見立てが正しかった事になる。延暦寺の寺領は家臣達に配分され、特に武功が大きかった明智光秀には志賀郡五万石が与えられた。

 元亀二年十月二十五日。大和国の筒井順慶が明智光秀の斡旋(あっせん)もあり織田家へ降った。また、佐久間信盛の尽力もあり長年対立していた松永久秀と順慶の間で和睦が成立。これにより、大和国の領有を巡って争っていた両家は揃って織田家の家臣になった。

 ただ……奇妙丸の方に、思わぬ方向で影響が出た。これまで雪で道が閉ざされる冬の期間を除いて一月(ひとつき)から二月(ふたつき)の間隔で届いていた松姫からの文が、元亀二年九月を最後にパタリと止まってしまったのだ。奇妙丸は知る(よし)もないが、比叡山から生き延びた一部の僧が甲斐の武田信玄の元に逃げ込んだのだ。信玄は信長の行いを非難し、延暦寺を甲斐の地で再興させる考えを打ち出した。悪くはない関係を続けてきた武田家と織田家の間に隙間風が吹き始めた。奇妙丸も文が突然届かなくなり困惑し、心配している旨の手紙を何度か送ったが返事が返ってくることはなかった。

 奇妙丸は一抹の不安を覚えながらも、元亀二年は暮れていくのであった。


 信長が最も恐れている武田信玄は、駿河を手に入れてからは西へ版図を広げる動きは見せなかった。

 今川家の没落を勢力拡大の好機と捉えた信玄は、秘かに三河の徳川家康との間で『大井川から東は武田領、西は徳川領』とする密約を結んだ。永禄十一年十二月六日、満を持して信玄は一万二千の兵を率いて駿河へ攻め込んだ。盟約を一方的に破った信玄の

侵攻に激怒した今川家当主・今川氏真(うじざね)は直ちに一万五千の兵を薩埵(さった)峠に送ると共に、同じく盟約を結んでいる北条家へ遣いを送り武田勢の背後を突くよう要請した。だが、迎え撃つ筈の今川方から武田方へ降る者が二十一名も出る想定外の事態に、今川方は戦わずして敗北。十三日には武田方が駿府を占拠すると、年内には駿河のほぼ全ての領地を手中に収めてしまった。

 一方、突然の侵攻に激怒した北条家当主・北条氏康(うじやす)は武田家と手切れになった上で、武田家との対決姿勢を前面に打ち出した。信玄は北条家が敵に回る事も織り込み済みだが、相模や武蔵の国境に兵を配置するなど対策に追われる事となる。また、永禄十二年一月八日には武田家家臣の秋山虎繁(とらしげ)を将とする下伊那(しもいな)衆が徳川領の遠江へ侵攻した事に対して徳川家側から抗議が入った。信玄は家康に対して不手際を詫びたものの徳川家側の不信感は根強く、同年五月には武田家と結んだ盟約を破棄して北条家と新たに同盟を結ぶに至った。徳川家と武田家は衝突こそ無かったが、両家の間に緊張状態が(しばら)くの間続くこととなる。

 駿河侵攻から始まった武田家包囲網だが、徐々に変化の兆しが表れてきた。元亀二年十月三日、“相模の獅子”と呼ばれた北条氏康が小田原城で死去。享年五十七。今川家を攻めてから一貫して武田家との対決姿勢を堅持してきた北条家だったが、氏康の死去に伴い外交方針の転換を余儀なくされた。氏康という偉大な当主が居たからこそ信玄に対抗出来ていたが、後継の氏政では荷が重過ぎた。同年十二月二十七日、武田・北条家による甲相同盟が再締結された。また、長年に渡り激闘を繰り広げてきた越後の上杉輝虎(てるとら)(現在の“不識庵(ふしきあん)”謙信)とも永禄十二年に将軍足利義昭を通じて和睦が成立。これ以降は輝虎が北信濃へ侵攻しておらず、輝虎の意識も西の越中や関東に向いていた。

 北と西から(おびや)かされる不安を取り除き、さらに兵を動かす大義も手に入れた。信玄が兵を動かす環境が整ったと言える。

 奇妙丸にとって良い意味でも悪い意味でも忘れられない年となる、元亀三年(一五七二年)がもうすぐそこまで迫っていた――。


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