二 : 立志 - (8) 牙を剥く宗教勢力
近江方面では一定の成果を挙げた信長だったが、苦難はこれで終わらない。
元亀元年六月十九日、摂津国の有力国人で先日の金ヶ崎の退き戦でも殿を務めた池田勝正が、一族の池田知正と家臣の荒木村重の共謀により追放されてしまう。二人の背後には三好三人衆の調略があった。摂津国が混乱に陥るのに乗じて、三好三人衆は七月二十一日に畿内へ再上陸。野田・福島の地に城を築き、動きを活発化させていた。
こうした状況に信長も放置は出来ないと捉え、八月二十日に岐阜を出陣すると二十六日には天王寺に着陣した。九月三日には将軍の足利義昭自ら二千の兵を率いて幕臣の細川藤賢の居城である中嶋城へ入っている。野田・福島の両城は大坂湾の三角州が点在する地域で大軍を展開するには不向きな地形だったが、戦は織田方が終始優勢に進めていた。苦境の三好三人衆は和睦を申し入れたが、信長は拒否。このまま進めば勝てるのだから“譲歩する必要はない”と考えて当然である。
しかし――信長は虎の尾を踏んでしまった。
野田・福島の両城から一里あまり離れた所に、浄土真宗の総本山である石山本願寺がある。ただ、他宗派との抗争で焼き討ちに遭った苦い過去があり、有事に備えて壕や塀・土居を設けるなど要害化されていた。また、石山本願寺には門徒による志願兵が常駐していた事から、全国各地から集まった門徒達で形成された寺内町も含め“寺”というより“城”のようであった。
そもそも、信長と本願寺の関係は決して悪くない。上洛直後の永禄十一年十月に信長が本願寺に対して“御所再建”の名目で矢銭五千貫を要求した際も、本願寺内部で反発はあったが第十一世宗主の顕如の決断で支払いに応じている。以降も良好とは言い難いが険悪でもない関係が続いた。
そうした最中、織田方が大軍を率いて本願寺に接近してきた。本願寺内部には近頃の信長の伸張ぶりを快く思わない者も存在し、宗教勢力ではあるが経済力・軍事力・影響力の観点から有力な戦国大名に引けを取らない本願寺を将来的に信長は攻撃するのではないか、と警戒していた。しかも間の悪い事に、信長には“本命を欺く為に、別の敵を討つ名目で出兵する”という前科があった。直近では若狭の武田家討伐で出兵し、越前の朝倉家を奇襲している。今回も“三好三人衆を討つフリをして本願寺を攻めるのでは?”と勘繰る者も少数ではあるが存在した。
やられる前に、やろう――そうした声が本願寺内部で日に日に大きくなり、顕如も遂に決断を下した。全国の門徒に向けて反信長の兵を挙げるよう促す檄文を送付。本願寺も織田家と対峙する事を決めた。
九月十二日夜半。石山本願寺の早鐘が打たれると、それを合図に本願寺の兵が織田方に襲い掛かった! 予期せぬ参戦に織田方はひどく狼狽。さらに翌十三日には本願寺の手の者が淀川の堤を切った事で、織田方の陣地に大量の水が流れ込み、多数の溺死者を出した。
悲劇はこれで終わらない。姉川の戦いに敗れ逼塞していた浅井・朝倉家が、石山本願寺の参戦で息を吹き返した。越前から近江に入った朝倉勢は浅井勢と合流し、十六日から琵琶湖西岸沿いを南進、京を目指した。これを受け宇佐山城の森可成は坂本で連合軍を待ち受け、十六日当日は数的不利な森勢が小規模な戦闘で勝利を収めて連合軍の足を止めた。その後に信長の弟・織田信治と近江国国人の青地茂綱が援軍として可成の元に駆け付けたが、逆にここまで中立を保っていた比叡山延暦寺が浅井・朝倉方に加勢。二十日に西から延暦寺勢、北から浅井・朝倉勢が押し寄せて来た。織田方も善戦したものの圧倒的な兵力差を覆せず、可成・信治・茂綱は討死。浅井・朝倉連合軍は勝利した勢いで宇佐山城を攻めたが、可成の家臣による必死の抗戦で何とか落城は免れた。宇佐山城の攻略を諦めた連合軍は二十一日に山科へ侵攻、焼き討ちを行った。
翌二十二日、摂津の信長の元に近江からの急使が到着。浅井・朝倉の手勢が京に迫っていると知った信長は即座に撤退を決断。二十三日に退却を開始し、殿に柴田勝家と和田惟政を残して近江へ急行した。一方の浅井・朝倉連合軍は織田方が近江へ向かっていると知り、比叡山へ避難。二十四日に宇佐山城に入った信長は浅井・朝倉連合軍が比叡山に上ったと伝えられ、比叡山を包囲した上で延暦寺に使者を立てた。信長は延暦寺に対し『織田に味方するなら織田家が保有する山門領は延暦寺へ返還する。味方しないなら、せめて中立を保って欲しい。だが、もしも浅井・朝倉に味方するようならば焼き討ちにする』と硬軟織り交ぜた要求を突き付けた。しかし、延暦寺側からの回答は無く、浅井・朝倉連合軍も比叡山から出てくる気配も見せなかった。
浅井・朝倉の連合軍約三万が比叡山に籠城した事で、信長も近江に張り付かざるを得ない状況になった。これを好機と捉えて各地で反信長の兵を挙げる動きが出始めた。六月に敗れた六角勢も顕如の檄文で蜂起した一向一揆勢と連携して南近江に出没、織田方もその対処に追われた。近江の急変で織田勢が引き揚げた摂津でも三好三人衆が京を目指して北上する動きを見せるも、和田惟政の奮闘で阻止している。さらに、尾張に程近い伊勢長島でも願証寺の門徒や織田家に反感を抱く国人勢力が結託して挙兵している。
結果的に、不用意に刺激したばかりに本願寺を敵に回してしまった事が、巡り巡って信長の首を絞めることになる。
織田家や父が苦しい立場に置かれる中、奇妙丸の生活に大きな変化は表れなかった。しかし、小さな変化はある。これまではふらっと城の外へ出掛ける事が時々あったが、今は出掛ける際は必ず行き先を誰かに伝えた上で手短に城へ戻るよう意識していた。父から留守中のことを託された自覚は奇妙丸の中でしっかり根付いていた。
伝兵衛を相手に武芸の稽古をし、馬場で三日月栗に乗り、書物を読む。何か領内で動きがあれば、濃姫や留守居の家臣が話し合う場に同席する。ただ聞くだけでなく、意見を求められた時には自分の考えをしっかりと述べた。
十月初め、沢彦和尚が座学の為に岐阜城を訪ねて来た。以前のように疑問を抱いた際に自分の方から大宝寺へ赴く事は出来なくなったが、沢彦が訪ねて来る事に変わりはなかった。
奇妙丸が城代を任されるようになってから、世情について話す機会が多くなった。
「和尚。この度はどうして延暦寺は浅井や朝倉の味方についたのですか?」
まず奇妙丸がぶつけたのは、先日の延暦寺の対応についてだ。
石山本願寺が織田家と敵対するようになったのは、顕如が『上洛以降、ずっと信長は無理難題ばかり突き付けてきて甚だ迷惑している。かくなる上は命を賭けて戦うべし』と全国の門徒に呼び掛けたからだ。織田家から仕掛けたのか、顕如に何かしらの思惑があっての事なのか、定かではないものの理由があって敵対するに至ったのは分かる。
しかし、延暦寺はどうか。宗派が異なるとは言え同じ仏教勢力の誼で顕如から延暦寺側へ協力要請があったとしても不思議ではない。ただ、特定の側に与さず高みの見物をしても良かったのはないか、と奇妙丸は思う。どちらに味方するかは形勢が定まってから決めても遅くはないし、関わらなくても延暦寺が不利益を被る訳でもあるまい。それにも関わらず、延暦寺は早々に浅井・朝倉方へ味方する態度を鮮明にした。一体どうしてだろうか?
「奇妙丸様はどうしてそのようにお考えになられたのですか?」
「……我等織田方は動かせる兵数も多いですが、各方面に敵を抱えておりますので数の優位を活かせず不利と考えました」
沢彦から問われた奇妙丸は、自分なりに導き出した推論を述べた。
織田家の領地は尾張から畿内までと国内でも十指に入るくらいの広さで、さらに商業地から納められる多額の運上金を元手に戦専門の足軽を大勢抱えている。他の大名家では戦がある時に農民が徴発されて足軽となるが、田植えと稲刈りの時期は農民が嫌がるので戦を控える……なんて事も笑い話ではなく常識として浸透していた。それを信長は農民の都合に左右されない、俗に言えば“土地に縛られない”兵を常設したのだ。当時も戦のある時にだけ雇う“雑兵”も存在したが、信長は臨時雇いではなく常時雇用としたのである。これにより、季節に関係なく軍をいつでも動かせるようになった。おまけに、織田家は元々米の収穫量が多い尾張や美濃を治めているだけでなく、自領内に幾つも商業地を抱えている。石高以上に経済力があり、動員可能な兵力は五万とも六万とも言われた。
ただ……織田家が六万の兵を保有していたとしても、敵が分散していれば各方面に兵を割かなければならない。割いた分だけ、兵は減る。数的優位を活かせず、浅井・朝倉の軍勢三万が京に差し迫る以上、身動きが取れなくなってしまった。
一方で、奇妙丸はそれだけで延暦寺が織田家と対峙する事を決めたとは考えにくい。何かこう、決め手になるようなものがあるように思うけれど、それが分からなかった。
「では、奇妙丸様。そもそも延暦寺とは、どういうお寺ですか?」
何の脈絡もなく訊ねられた奇妙丸は、沢彦の意図は掴めなかったが自分の知ってる範囲で答える。
「……由緒ある名刹である、と。それに、僧兵も」
延暦寺は延暦七年(七八八年)、最澄が一乗止観院(別名延暦山寺)と呼ばれる小規模な寺院を建立したのが始まりとされる。当時の帝・桓武天皇が最澄に帰依していた事から援助を受け、また比叡山が都の鬼門(北東)の方角に位置していた事から、国家鎮護の道場として寺院は栄えていくようになった。弘仁十四年(八二三年)、建立当時の元号が入った“延暦寺”の寺号が認められ、その名で定着していくこととなる。
その後、最澄は唐に渡り、その地で学んだ事や得た事を基にして“天台宗”を開く。比叡山寺は既存の仏教勢力から反発に遭いながらも僧侶の養成機関の地位を確立し、この寺から数多くの名僧を世に送り出す事になる。具体的に挙げれば、浄土宗の開祖・法然、臨済宗の開祖・栄西、浄土真宗の開祖・親鸞、曹洞宗の開祖・道元、日蓮宗の開祖・日蓮……。日本の仏教は延暦寺から始まったと言っても過言ではない、錚々たる面々だ。
そうした中で、延暦寺の内部で二つの派閥が生まれ、やがて両者は激しく対立し抗争を起こすまでになった。そうした経緯の過程で僧侶が武装するようになり、やがて寺の外に武力で訴える“僧兵”に発展していく事となる。
延暦寺の統治は比叡山一帯に留まらず、麓の坂本にまで及んだ。この坂本という土地が肝だった。古来より遠国から京へ荷物を輸送する場合は船で日本海を通って敦賀まで運び、敦賀で陸揚げされた物を陸路で都まで運搬するやり方が一般的だ。その敦賀から京へ行く最短経路は琵琶湖西岸を進む道で、その途上に坂本があった。延暦寺はこの点に着目し、街道に関を設けて通行料を徴収した。これにより、延暦寺は安定的かつ多額の金銭収入を得る事が出来たのだ。さらに、通行料や信者からの寄付などで得られたお金を元手に、延暦寺は無担保・高金利の貸金業を開始。この商売は後に“土倉”と呼ばれるようになり、延暦寺にさらなる富を呼び込む事となる。
圧倒的な権力・財力・武力を併せ持つ延暦寺は、時代が経つにつれて単なる寺院ではなく一大勢力として恐れられるようになる。平家物語の中に、白河法皇が頭を悩ませるものとして“賀茂河の水、双六の賽、山法師”の三つを挙げたとする逸話がある。“山法師”とは延暦寺の僧兵のことで、当時権勢を誇っていた白河法皇でさえも延暦寺の僧兵は意のままに操れぬ存在として認識されていた。その影響力の大きさから、奈良の興福寺と共に“南都北嶺”と呼ばれ恐れられていた。
「“由緒ある”とは、言い換えれば歴史を積み重ねきたということ。歴史を重ねるのは良き点もあり、逆に悪しき点もあります」
沢彦の意味深な発言に、奇妙丸は考え込んだ。古いというのは伝統や威厳を感じさせる一方で、弊害もある。
暫く考えていた奇妙丸は、やがて何かに気付いた様子でハッとした表情を浮かべた。
「……そうか。父上は旧態依然の時代に即さない体制や慣習をぶち壊してきた。延暦寺は、そんな父上に危惧を抱いた」
奇妙丸の答えに、沢彦はニコリと笑った。その反応を見て、奇妙丸は正解なのだと受け止めた。
信長は“楽市楽座”や土地に縛られない軍編成など、古くからの慣習や価値観に囚われず大胆に断行してきた。裏返せば、既得権益で潤っている人々からすれば信長の行いは脅威である。延暦寺のみならず、上京には延暦寺と結び付きの深い商家や公家が多く存在し、既存の枠組みを破壊しようとする信長へ反感を募らせていた。実際、庶民が多い下京では信長の人気は高かったが、特権階級が多い上京ではあまり人気が無かった。
「これは生き残りを賭けた戦いなのです。浅井・朝倉は御家存続の為、延暦寺は伝統と利権を守る為に。互いの利害が一致し、共通の敵である吉法師様を倒そうとしています。……吉法師様はさぞお辛いでしょうが、これを乗り切らない限り天下布武は未来永劫成りません」
「……父上は、勝てるのでしょうか」
奇妙丸が不安そうに訊ねるが、沢彦は気難しい表情で首を振る。
「こればかりは拙僧にも分かりかねます。されど……あの諦めの悪い吉法師様がそう易々と負けるとは思えません。信じて待つのみ、としか……」
歯切れが悪く話す沢彦。その言葉を聞いて、奇妙丸もそうかも知れないと思った。
浅井・朝倉の連合軍が比叡山に籠もること約一月。一向に出てこようとしない事に焦りを覚えた信長は、十月二十日に朝倉義景へ使者を送り『雌雄を決する戦をしようぞ!』と申し入れたが、このまま持久戦に持ち込めば自滅するのが見えている義景はわざわざ馬鹿正直に応じる必要性を感じなかったので無視。信長率いる織田家主力が近江で釘付けになっている間も、各地の反織田勢力の攻勢は続いた。
十一月十六日には伊勢長島の一向一揆勢が対岸の尾張・小木江城を攻撃。孤立無援の状況下でも六日間耐え抜いたが、二十一日に落城。城を任されていた信長の弟・信興が討死している。
信長もこの苦境に手を拱いていた訳ではない。朝廷や帝・幕府に水面下で働きかけ、停戦を軸に打開しようと動いていた。十一月には六角家と和睦を結んだのを皮切りに、打開の糸口が見え始める。十一月末になると越前から遠征している朝倉勢が降雪で本国に帰れなくなる事態を恐れ、態度を軟化。正親町天皇から講和を求める勅命が出たのもあり、十二月十三日に織田家と反織田勢力との間で講和が成立した。比叡山を囲んでいた織田勢は講和成立の翌十四日に瀬田へ撤退、浅井・朝倉の連合軍も比叡山を下りて、それぞれの領国へ戻っていった。摂津方面でも織田家と石山本願寺の和睦が成立、三好三人衆と松永久秀の間で人質交換が行われて和睦が成立した。
各勢力と和睦した事で、信長は過去最大の窮地から脱した。しかし、家督を嗣いだ頃から信長を支えてきた森可成や坂井政尚、弟の信治・信興を失うなど、手放しに喜べない代償を払わされた。
こうして、織田家試練の始まりとなった元亀元年は幕を閉じることとなる……。




