二 : 立志 - (3) 武田家からの使者
永禄十二年八月十日。
奇妙丸が岐阜城の中庭で木刀を持ち素振りをしていると、伝兵衛が姿を現した。
「奇妙丸様。武田家の者が『若君様に是非お目通りしたい』と申してきましたが……如何致しましょうか?」
「はて。私に、だと?」
伝兵衛の言葉に、奇妙丸は首を捻った。
足利義昭公を擁して上洛を果たし、その影響力は飛ぶ鳥を落とす勢いにある父・織田信長に面会を求める者は引きも取らないが、嫡男とは言えまだ元服も済ませていない奇妙丸に会いたいという人はこれまで誰も居ない。それにも関わらず、同盟相手で婚約相手でもある武田家の者が会いたいとは、一体どういう事だろうか。
「……相分かった。支度を整えたら直ちに行く。くれぐれも粗相のないようにな」
「承知致しました」
奇妙丸に頭を下げた伝兵衛は、すぐに下がって行った。奇妙丸は側に居た小姓に木刀を預けると、入れ違いに手拭いを受け取り体の汗を拭う。
先方の意図はどうであれ、武田家は織田家にとって大切な相手。その関係にヒビが入ろうものなら、たちまち外交問題に発展する。会いたいと言っているのであれば会うしかあるまい。
急いで身支度を整えた奇妙丸は、武田家の者を待たせている部屋へ向かう。傅役を務める新左も、万一の事態に備えて合流する。
座敷に入ると、一人の男が平伏していた。脇に刀を置いているという事は、それなりの身分にある武家の者か。
「お待たせ致しました。面を上げて下され」
「ははっ」
上座に座った奇妙丸が声を掛けると、男は頭を上げた。
顔を上げると、眉目秀麗な顔立ちに爽やかな笑みを浮かべていた。
「お初にお目に掛かります。武田“徳栄軒”(信玄)が臣、武藤“喜兵衛”にございます」
「織田“上総介”が嫡男、奇妙丸にございます」
ハキハキとよく通る声で挨拶され、奇妙丸もそれに釣られて少し大きな声で返す。
武藤喜兵衛。天文十六年(一五四七年)生まれの齢二十三。元々は信濃の国人・真田“源太左衛門”幸綱の三男に生まれたが、天文二十二年(一五五三年)に武田家の人質として甲斐国府中へ送られ、奥近習衆に加えられた。近習として仕える中で、その才を見抜いた信玄が自らの母・大井夫人の支族に当たる武藤家へ養子に入らせ、これ以降は武藤喜兵衛と名乗った。
これより後の話になるが、信玄が喜兵衛を高く買っていた逸話がある。元亀元年(一五七〇年)八月、武田家が伊豆国へ侵攻し韮山城を攻めた際、北条氏政が援軍を率いて三島に着陣したと報せが入った。総大将の信玄は決戦を主張したが、重臣の馬場信春が「状況を見極めるべきだ」と異を唱えた。すると、信玄は「両眼の如き者達を物見に派遣しておる」と答えた。“信玄の両眼と呼ばれる者は誰だろう?”と諸将達が首を捻っていると、程なくして曽根昌世と喜兵衛が戻ってきた。二人を見て、信玄が言っていた両眼とはこの両名なのかと納得した――という。昌世と喜兵衛は奥近習の中でも特に優れた奥近習六人衆に含まれ、将来の武田家を支える幹部候補として信玄が特に目を掛けていた。
本来なら信玄の側近くに侍るべき存在の喜兵衛がわざわざ岐阜まで出向いた上に、しかも父である信長ではなく嫡男の奇妙丸に会いたいという。極めて異例の出来事と言わざるを得ない。
「喜兵衛殿、遠路遥々岐阜までお越し頂き、ありがとうございます」
まず奇妙丸は喜兵衛に謝意を伝える。すると、喜兵衛はニコリと笑みを浮かべながら応じた。
「いえいえ。奇妙丸様は我が姫君の大切な旦那様。武田家としましても末永く良きお付き合いをしたいと考えておりますので、是非ともその御尊顔を拝したいと思い、こうして罷り越した次第です」
恭しく頭を下げる喜兵衛。十三歳の奇妙丸に成人した大人を相手にするような言葉遣いをしていて、やや面喰った。
どう返せばいいか分からず固まっている奇妙丸の脇から、傅役の新左が口を開いた。
「……して、本日はどのような用向きで参られたのでしょうか?」
まさか挨拶伺いの為だけに来た訳でもあるまい、と牽制の意味を込めて質問する新左。すると、水を向けられた喜兵衛は笑顔を崩すことなく軽やかに答えた。
「奇妙丸様におかれましては、先日我等が姫君に素敵な櫛を贈って頂き、真にありがとうございます。姫君も大層お喜びになられておられました」
そう言い深々と頭を下げる喜兵衛。しかし、櫛の御礼だけなら松姫が手紙を認めれば済む話で、わざわざ武田家の若手将校が来る必要は無い。
奇妙丸が微かな疑問を抱いていると、喜兵衛はサッと顔を上げて続きを述べ始めた。
「姫君は甚くお気に召され、返礼は何が良いかと父君である御屋形様にご相談されました。姫君の大変な喜び様に御屋形様も嬉しく思われており、相応の品を今回持参致しました」
直後、喜兵衛は手を叩いた。それを合図に、喜兵衛の従者と思しき者が姿を現した。
従者は――一頭の馬を曳いていた。栗色の毛、円らな瞳、額には三日月のような模様がある。
「こちらの馬は“三日月栗”と呼ばれ、御屋形様が保有される馬の中でも五指に入る程の名馬になります。今回、婿殿となられる奇妙丸様に、と持参致しました」
喜兵衛の申し出に、奇妙丸は仰天した。松姫に贈った櫛の返礼が信玄公が気に入っている愛馬だとは、夢にも思わなかった。
山に囲まれ平地が少ない甲斐国は古来から馬の生育が盛んな地域で、奥羽と並んで優れた馬を商品として全国に出荷していた。そうした土地柄もあり、優れた馬を多く抱える武田家は他家と比べて騎馬隊が特に秀でており、精悍な兵と相まって“戦国最強”の呼び声が高かった。その武田家の棟梁が保有する馬となれば、相当な名馬なのだろう。
「そんな……畏れ多い……」
最高級の品ではあるが、櫛一つと名馬一頭ではあまりに釣り合わない。しかも、自分はまだ十三歳の子どもだ。流石に受け取れないと固辞しようとした奇妙丸だったが……喜兵衛はにこやかな笑みを崩さずに答えた。
「奇妙丸様には、甲斐ではなかなか手に入らない素敵な贈り物や心遣いの効いた文など、姫君を大層喜ばせて頂きました。一方で、こちらからは大した物をお返し出来ず内心心苦しくも感じておりました。今回の返礼は、これまで返せていなかった分や姫君のお気持ちも含まれております」
喜兵衛は「さらに……」と続ける。
「我等が御屋形様は、この先織田家の跡を継がれるであろう婿殿に“武家の棟梁として相応しい名馬に乗って頂きたい”という御気持ちがあられる模様。畏れ多いとは仰らず、受け取って下され。……もし万が一、この馬を甲斐へ連れて帰るような事があれば、某は御屋形様から『何をしておるか!』と厳しいお叱りを受けますので」
最後の方は冗談めかした口調で諭す喜兵衛。奇妙丸も、話を聞いていくに従い「これは、受け取らない方が礼を失するのでは?」と思えてきた。
側に控える新左の方をチラリと窺うと、新左も「お受けなされ」と目で主張していた。
「……分かりました。有り難く頂戴致します」
固辞していた奇妙丸が受諾の意思を示すと、喜兵衛も安堵の表情を見せた。
喜兵衛の従者から手綱を受け取った伝兵衛は、三日月栗を厩へ連れて行く。父・信長は馬が特に好きで、多くの馬を抱えている。頭数が多いので世話をする者も多いので、その者達に預ければきっと大丈夫だろう。奇妙丸はそう思っていた。
それを見届けた喜兵衛は、姿勢を正して奇妙丸に声を掛けた。
「奇妙丸様。僭越ながら、お願いしたき儀がございます」
目的を果たした筈の喜兵衛からの突然の申し出とは、一体何だろうか。奇妙丸は先を促す。
「……折角こうして岐阜まで参りましたので、父君の上総介様にお目通りを願いたいのですが、どうかお許し願えないでしょうか?」
喜兵衛の申し出に、奇妙丸も成る程と思った。武田家とは同盟を結んではいないが比較的良好な関係を築いている。領地が隣接しているとは言え両家の家臣が行き来する事は滅多に無い。この機会に関係を深めるのも、悪い話ではない。
「承知しました。……新左」
「はっ。本日は特に面会の予定も入っておりませんので、恐らくは大丈夫かと」
新左は黒母衣衆に属しているが、平時は吏僚として近侍していた。主君が誰と会うか、今日は何をするか、などの予定は常に頭に入っていた。そうでなければ、特に仕事に厳しい織田家では生き残っていけない。
「分かった。では、頼んだぞ」
「畏まりました。……では、ご案内仕ります」
「よろしくお願い致します」
先導する形で新左が先に立ち、続けて喜兵衛も席を立つ。奇妙丸に軽く一礼してから喜兵衛は辞していった。
一人残された奇妙丸だったが、緊張の面会を終えてまず頭に浮かんだのは先程贈られた三日月栗の姿だった。やおら立ち上がると、軽やかな足取りで厩の方に向かった。




