第65話 季節外れのアネモネ
蛇の森の奥地で繰り広げられた神龍の降臨と沼の主との死闘から数日後。
◆ ◇ ◆ ◇
クロスメントの北東に位置する五芒星を掲げる建物。そこは教会。
この世界では、教会と言えば神聖教の教会の事を指す。
豪奢な教会の敷地の端、月明かりに照らされ佇む小さな物置小屋があった。
その地下室。
壁に掛けられたランプの明かりのみがこの部屋を薄暗く照らしている。
その部屋の中央にあるテーブルの上に一つの皿。そしてその上に3つの赤い実があった。
これは血の戒めの幹部に教会から定期的に提供される食材だった。
私はそれを手にして眺める。
これは私のために用意されたもの。
血の戒めのNo.4 メグレズのために用意されたもの。
ランプの揺らめく明かりに照らされてその赤い実は怪しく揺れる。
いや、それはランプの揺らめきでそう見えるのではない。よく見るとその実は怪しく脈動していた。
なんて禍々しく、醜悪な見た目だろう。
私はその“世界樹の果実”と呼ばれる果実を手にし、しばらくして意を決したように口に含む。
グジュッ、ブシュ!ドロリ
口にした途端、赤い液体が口から溢れ出た。
―――ぅぐっ!? ウエェッ!
それを口にするたびにえずき、私の胃が既に飲み込んだモノを絞り出そうとしてくる。目じりに涙を溜めながらその度に歯を食いしばって強引に飲み込んだ。
もうそれを何度繰り返しただろうか。これで十個目だ。正直吐き気が止まらない。それを意志の力で強引に抑え込む。
その赤い果実の見た目は、まるで“人の心臓”のようだった。
それを口にしようとする度に、自らの手で弟の心臓を抜き取ったあの忌まわしき記憶がフラッシュバックする。
しかしそれでも私はそれを口にする必要があった。
「少しでも、回復しないと……また。 それだけは……。」
自分が理性を失ったつい先日の出来事を思い出し、そして自分自身の醜態に身震いする。その自己嫌悪がこの悍まし果実を無理やりにでも食べさせる原動力になる。
そう。
この果実を食べなければ、いつかまた理性を失い化け物になる。私の中のあの化け物は人を食らう。悪い人間もいい人間も見境なく。
『別に人間なんていくら殺したっていいだろ?』
『人間なんて大っ嫌いなはずなんだから。人間はどいつもこいつもクズだ。嫌悪してるんだろ? なら守る必要なんてこれっぽっちもないだろうに。』
もう一人の内なる悪魔がささやく。
正直、そんな自問に“YES”と答える自分がいるのも確かだ。
もう何百年も人間を見てきた。その度に人間の醜悪さを突き付けられてきた。
どこかで人間を信じる自分もいたけど、だけどその度に裏切られてきた。
でも、諦めきれなかった。
もはや人間ではなくなってしまった私だからこそ、もしかしたら人間への憧れが質の悪い執着を生んでいたのかもしれない。
今回の緊急クエストでナイトメアサーペントに追い詰められた人間はその内の醜悪さを露見させた。自分さえ助かれば他人を踏みつけてでも構わないという人間の心の闇を見た。
だから、もういい加減いいかなと思った。
あの弟のように純粋な心を持った人間など、私の為に自分の命をなげうつ人間なんて居ないんだと。人間は全員が全員、その心は醜悪なんだとようやく思えたのに。吹っ切れたはずだったのに……。
だけど。
リュージだけは違った。
ナイトメアサーペントに限界まで追い詰められても、リュージだけは諦めなかった。
私に本気の殺気を向けられて、何度も殺されそうになって。なのに、最後まで逃げなかった。最後まで内に引きこもる私を助けようと呼びかけ続けてくれた。私を視てくれていた。
そして、私が生を諦めたあの時も。
―――死んでいいわけないだろ!
あの天の雷を前に、リュージは私を守ろうと無謀にも立ちはだかった。
ありえない。人間があの神龍のブレスに立ち向かうなど、自殺行為以外の何物でもない。
それが分かってて。それでもリュージは私の前に立った。
無謀にも、最後まで諦めなかった。今まで何百年と生きて来て、そんな無謀な事を私のためにやった人間はただの一人もいなかったのに。
そしてリュージはそのありえないことをやってのけた。
あの絶対的な死と破壊を齎す天の雷を跳ね除けて見せた。
私にはあのひ弱なはずの少年の背中がやけに大きく見えた。その背中が、あの時のリュージの姿が、私の目に焼き付いて離れない。
その光景を思い浮かべれば、不思議と気力が湧いてきた。
……そして湧いてくるのは気力だけじゃない。今までに感じた事のない感情が同時に沸き上がってくるのだ。
私の望みを邪魔したリュージへの苛立ち? 恨み? それとも……あの強い精神への憧れ? いや、嫉妬?
……うんうん。そのどれでもない。
あの時、呆然自失とする私に対してリュージが行った不思議な魔法。
唇が触れ合いそうな距離で見つめたリュージの神秘的な青白い眼。
吸い込まれるような綺麗な紺碧の瞳を思い出す度に、私の胸は軋む様に熱を伴った痛みを訴える。そしてその熱が、とうに凍てついたはずの私の心を溶し、その鼓動をさらに早めるのだ。
胸がキュウキュウと締め付けられる。だけどイヤな気持じゃない。
―――私はこの感情を知らない。
その感情に戸惑いながらも、私はこれからのことを考える。
「……これからの事?」
私はそう自分でつぶやき、その言葉に自嘲する。自分でも随分変わったものだと思う。
今までどうやったら死ねるかばかりを考えてきた。どんなに自分が傷ついてもすぐに癒えてしまうこの体になってから、物理的に死ぬことなど諦めていた。
なら飢餓で死ねるんじゃないかと断食したこともあった。
だけどそれは悪手だった。飢餓状態でも何十年も生き続けられたし、それを続けていたら最後には自我を失い、あの悲劇を繰り返した。
それこそ神龍にでもないと私を殺すことなど出来ないと諦めていた。
それでも。だからこそ死にたいとずっと思ってきた。知らず知らずのうちに大嫌いなはずの人間を殺めてきたことに罪の意識を感じていたのか、自分が死ぬことでしか贖罪にならないと思いこんでいたのかもしれない。
でも、あの時リュージが叫ぶように言った言葉。
”死んでいいわけがない”
それで私は気づかされた。たとえ私が死んだとしてもそれが贖罪にはなりえないと。死んで逃げるんじゃないと言われた気がした。
生きて償うことは、ある意味死ぬよりつらい道かもしれない。でもその言葉で私は生きていいんだと言われた気がした。その言葉に救われた気がしたのだ。
だから、どうやって生きて過去を清算できるかを考えなきゃ。私はその想いを確かめるようにそれを言葉にする。
「私が食べた果実の数を、摘んだ命の数を心に刻もう。そして、生きて、生きて……。」
そう自らに誓って、わたしはえずきながらも、この人の魂を内封した“世界樹の果実”を飲み込んでいく。
目尻の涙が私の頬を伝うのも構わずにその眼に覚悟を宿して。
◆ ◇ ◆ ◇
教会の裏庭にひっそりと咲く季節外れのアネモネが夏の終わりの乾いた夜風に揺れていた。
まるでソワレの想いと未来を暗示するかのように。




