第58話 豹変
眼の前で、俺の理解の及ばない光景が繰り広げられていた。あれほど俺たちを追い詰め、苦しめたナイトメアサーペントがまるでボールのように跳ね飛ばされ、しっぽを掴まれてボロ雑巾のように振り回されている。
あの全長20メートルはあるあの巨体がだ。
成すすべなく玩具のように弄ばれているナイトメアサーペントはもはや虫の息だった。
「フハハハ!! ハーハハハハ! 死ね! 潰れてしまえ!」
そして、この現実離れした光景を作り出している張本人は、まるで玩具で遊ぶかのように嬉々として声を荒げながら事も無げにその暴虐を行っていた。
ピンクブロンドのツインテールを揺らし、その頭に小さな魔法使いの帽子を乗せ、見事な銀の刺繍の黒の外套に身を包んだ、見るからに華奢な少女。
少女は紛れもなくソワレだった。
だが、いつも眠たそうで無気力な目がまるで違った。赤く血走り、その瞳孔は縦に割れて、吊り上がった暴力性を感じさせる目だった。更に、額からは一本の白く細長い角が突き出ていた。
「は?……ソワレ?」
そのあまりの変貌ぶりに思わず自問が呟きとなってこぼれる。
いや。あれはソワレであって、俺の知るソワレではない。
俺には視えていた。視えてしまった。
あれほど氷像のように冷たく静かに輝いていたアニマが変貌し、俺の記憶の中で最も思い出したくない相手と同じように赤く禍々しく脈打っていたのが。
「そんな……そんなことが。 ありえない。あれは……」
あれは、俺の前世の出来事だ。もう終わったはずだ。 心の中でそう何度も繰り返したが、俺の眼があり得ないはずの目の前の現実を映し出していた。
目の前の少女が内包する赤く怪しく脈動するそのアニマは、あの宵門雄我と同じだった。
忘れもしないあの男。前世の俺と最愛の幼馴染の凛香を殺した忌まわしき男の名だ。
―――ピピピピピピピピピピー!
先ほどから黒縁メガネのALTカウントが止まらない。
そして俺のメガネには確かにその記載があった。
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????(魔人)
ALT:34X,XXX
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―――魔人!?
目の前の現実に、思わず数歩後ろによろめき尻餅をついた。
「そんな……はずが……」
俺が動揺している間にもソワレの一方的な残虐行為は続いていた。
「クハハハ! なかなか硬いじゃないか。 まだだ。まだ死ぬなよ!」
―――シャァア……ァァ!?
ソワレは小さな体ではあり得ないほどの怪力でまるでボロ雑巾か何かのようにサーペントを振り回し、地面に叩きつけ、戯れにその肉を引きちぎった。俺の知る物理法則を完全に無視した挙動で。
サーペントの全身の鱗は無残にも剥がれ落ち、いたる所から血を噴き出し、周辺は青い血で染まっていた。
ついにサーペントがぐったりと動かなくなると、ソワレだった者は壊れた玩具に興味を無くした子供のように、つまらなそうにその尾を手放した。
やがて次の玩具を探すべく、獲物を狙うようなギラギラと赤く輝く眼を周囲に向ける。
そして、その悪魔の様な眼光が唯一この場に立っていた俺を射抜いた。
その瞬間、俺の体は蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。忌まわしきあの時の記憶がフラッシュバックする。
ソワレは俺を確認して、頬まで割けたその口を歪ませた。それは背筋が凍るような歪んだ笑みだった。
あぁ、これはダメだ。到底勝てる相手じゃない。
そう思った。
俺の眼に映るその禍々しくも脈打つアニマの輝きは、あの時の雄我のそれを優に凌駕していたからだ。
この世界に来て少しは強くなったとはいえ、目の前のそれはそういう次元を超越したところにいる。そう本能的に理解させられる程の圧力。
俺が硬直し一瞬瞬きをしたその直後、ソワレは俺の目の前にいた。俺の知覚を超えた動きで、いつの間にか俺に肉薄していたのだ。
そして彼女は新しい玩具を見つけたと言わんばかりに嬉々とした表情で戯れに俺の顔面を鷲掴みにした。
俺が認知できたのはそこまでだった。
気づいたときには視界は上下左右グルグルと回っていた。ボウリング玉のように地面を転がり、その勢いはそのままに、木の幹に背中と後頭部を叩きつけられてようやく止まる。
「がはあっ!?」
何が起こったかを認識するより先に、腹からせり出してくるものにむせ返る。
一体何が!?
そう考える暇もなく痛みが全身を襲った。続いて吐き気と肺の痙攣がおしよせ、極度の呼吸困難に体を抱えてもだえ苦しむ。
体が引き裂かれるような苦しみ。
そんな耐えがたい痛みに悶絶する。だが、俺の脳は頭の片隅で先ほどの出来事の分析を止めようとしなかった。
この世界に来てから多少は命の危機を乗り越えてきた経験が、生き残るための本能の様なモノを覚醒させつつあった。
その思考の中で、俺の直感は些細な違和感を感じ取っていた。
そうだ。ソワレに掴まれたと思ったその時の衝撃が殆ど感じなかったのだ。
今の後頭部と背中のダメージはその後の大木へ叩きつけられたときに負ったものだ。だが、あのスピードで俺の頭を掴んで投げたとするなら、俺の顔や額に何かしらの衝撃やダメージがあってもおかしくない。だけどそれが無い。
いったいこれはどういう事だろうか……?
しかし、ソワレはそんなわずかな違和感に思考を巡らせる隙すらも与えてくれないようだ。
一瞬にして何十メートルも吹き飛ばされたはずなのに、既に彼女は俺の目の前に立っていた。まるで以前とは別人のようなその顔を醜悪に歪め、鋭い爪を伸ばした貫き手を目の前にかざして。
「キャハハハハ! 心臓ぶちまけろ!」
その瞬間に俺にできたことと言えば、彼女が俺の心臓に向けて繰り出す貫き手をただ目で追う事と、彼女の名をつぶやくことだけだった。
「―――ソワレっ……!」
辛うじて漏れ出たその言葉。
先ほどのダメージでまるで体は動かない。この状況で、これまで感じたこともない程の禍々しい殺気を放つ彼女に対してその呟きは本来何の意味も持たないはずだった。
だが、その呟きは彼女に劇的な変化を与えた。
いつの間にか鋭い爪を備えた彼女の右手の貫き手は、俺の胸にわずかな傷をつけただけで、直前で止まっていた。その手はプルプルと震えていた。
「……ダメ。 その人は……!」
ソワレは歯を食いしばり、俺を貫こうとする右手首を自身の左手でつかみ必死で止めようとしていた。まるで、右手と左手が別人のものであるかのようだった。
そして気づく。
彼女の左目が元のアンバーに戻っていることを。見ると、いつも髪に隠れている右目も赤とアンバーに明滅している様だった。
更に、先ほどまでの禍々しい赤い魂が俺の知るあの氷の様な水色の魂に覆われつつあることも視てとれた。
その水色の魂の輝きは、俺の目にはひどく悲し気に映った。まるで誰かに助けを求めているかのように。
「ソワレ? ソワレなのか!?」
俺の呼びかけに対してソワレは反応しない。いや、彼女の額から顎を伝って落ちる汗のしずくを見れば、彼女が俺の呼びかけに答えられる余裕など無いことが容易に理解できた。
それでも、俺は彼女に呼びかけ続ける。
「ソワレ! 俺だ!?分かるか!? 戻ってきてくれ!」
しばらくソワレは歯を食いしばっていたが、十数秒の葛藤ののち数メートル飛びずさった。
そして、その場で数瞬体を抱えて震えたかと思ったその直後、彼女は吼えた。
―――邪魔をっ!するなぁぁああァァア!
その相貌は赤く血走り、そして顔は怒りと焦燥にゆがんでいた。あれはもう一人のソワレ。禍々しい魔人の魂を宿す悪魔がそこにいた。




