市女笠の上総介
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
困ったときの神頼み。神仏に対して、自分の願いを掛けることは、昔からずっと行われてきたことだ。
本当に神様がいるかどうかは、俺の知ったこっちゃない。ただ、事実は事実として、自分にも他の人にも影響を与えるってことだ。
有名どころとしては、あの織田信長と熱田神宮の関係がある。
かの桶狭間の戦いへ臨む際、信長は城を出てから各所を周り、やがて熱田神宮で必勝の祈願をした。
すると神殿の奥から鎧の触れ合う音がし、シラサギが飛び立ったという。これを吉兆として味方の士気を大いに高めたとか。
同じようなことを、信長は長篠の戦い前にも行っていたらしい。
モノホンの兆しにせよ、巧妙な仕込みにせよ、肌で感じた経験は強く体に刻み込まれる。
それは噂となり、評判となり、伝説となって、体験していない人にも伝わっていく。
この願掛けに関して、少し興味深い話を仕入れたんだよ。聞いてみないか?
ときは戦国。とある内陸の国同士での争いで、ひとつの噂が広まっていた。それは武将から足軽にまで知られる、ひとつの警告だった。
「戦場に立つ市女笠を見かけたならば、とく、その場を離れよ。
切りかかられようと、決して相手にするな。刃向け、弓引くなどもってのほか。さっさと撒くのが最善だ」
その市女笠の主は、某国に所属する将のひとりで、信長と同じ「上総介」を自称していたらしい。
上総介の市女笠。これをまともに相手してはならないとの戒め。こいつが出てくると、その戦場ではいいようにやられてしまう。
実際、彼と斬り合うと、いかに競ろうとも逆転される。肉へ刃が届くかというところで、振るった者の腕が、ひとりでに「ぼきん」と折れてしまうんだ。それは正面だけでなく、側面や背後からでも同じこと。
その致命的なスキが見逃されるほど戦は甘くなく、当人は討たれてしまう。
矢に関しても同じ。いずれも彼の身へ届くまでに、急激に失速して地へ刺さる。
ひどいときには、矢そのものが宙で二つに砕けて分かれ、勢いはそのままに、上総介の身のみを避けていくことさえあったという。
疲労ゆえか、ある程度暴れると退いてしまうのだが、それまでで戦の流れを奪われてしまうことが多かったそうだ。
正面から戦っては勝てない。ゆえに、戦術より戦略面で優位に立とうとするのが諸勢力の思惑だ。
が、そうこうしている間に、上総介側から仕掛けてくることもあり、定期的な防戦に諸将は頭を悩ませていたそうだ。
しかし、新しい力が入れば、古きものを打ち倒したくなるのも人のさが。
この地方にもいよいよ鉄砲が伝わってきた。まだ限られた数を購入する段階だが、その破壊力を知った某国の将は、この鉛玉を持って市女笠を落とそうと試みたんだ。
足軽の中から特に射撃の素養が高い者を選りすぐり、訓練の結果、30間(約55メートル)先の的へ、ほぼ完ぺきに的中できるよう鍛え上げた。
その彼を戦場の高い樹の上へ配し、狙撃を行わせる手はずを整えたのさ。
市女笠の効果は、上総介本人も熟知しているのだろう。
馬に乗り、身の丈を上回る大なぎなたを振り回して、自らを見せつけていく。
いつもならこれで蜘蛛の子を散らすように道が開けていくが、この時は徒歩でもって足止めをする4人の足軽の姿があった。
馬の足や、振るわれる薙刀を決死の覚悟でしのぎ、とうとう一人に刃が食い込んだ時、その足軽は痛みをこらえ、ぐっとその柄をつかんだんだ。
なぎなたが固まる。上総介の動きが止まる。
その刹那を狙い、待ち受けていた火縄銃がとどろいた――!
数拍おいて。
どうっと、地面に倒れたのは火縄銃を撃った側だった。ぐらりと姿勢を崩した狙撃手は、そのまま枝から落ちてしまったんだ。
見届け役として、隠れてそばに控えていた者が駆け寄ったところ、彼は胸と首の間に、穴を開けられていた。うなじまで貫くその穴は、あたかも自分が撃たれたとしか思えない。
もはや長くはもたないだろう。それでも少しでも話してもらうため、見届け役は声をかけ続けつつ、銃が暴発したのか尋ねる。
狙撃手は小さく首を振った。それから息を引き取るまでの短い間で語ったことは、弾を「投げ返された」ように思えたとのことだった。
確かに火縄は、その口から弾を打ち出した。
だが銃口からさほど離れないうちに、ぴたりと弾は空中で止まってしまったんだ。
我が目を疑い、思わず銃から顔を離したところで、あっという間に弾は姿を消し、すぐに激痛が走って身体の自由を失い……このザマだという。
「このままではどうあがいても討てん。早く、奴のタネを探ってくれ」
結局、その日もさんざんに市女笠は暴れた。足止めを買って出た4人も、一人として自陣へ戻ることはかなわなかったとか。
言われるまでもなく、上総介の身辺を探ることは、前々より続けられていた。
警戒は厳しく、近づき過ぎたと思しき者は、いずれも連絡が途絶えてしまった。そのさじ加減を探るのに、年単位の時間がかかってしまったんだ。
そうして絶妙な距離感を保つことができた、すっぱ(スパイのこと)の情報によると、上総介は戦を前にすると、領内の山奥にある温泉へ向かい、入念に身体を洗うのだという。
戦場へ向かう前に身を清めるのは、おかしいことではない。万一、相手に首を献ずるようなことがあったとき、汚れが目立っては死後の自分の評価を落とす。
しかし、上総介の沐浴。厳密にはそれに使われる水が妙なんだ。
やけに粘度が高い。
湯は肩からかければ、ざざっと肌をすべって、瞬く間に足へと流れていくはず。
それが、上総介のかぶる湯は、一度下り出せば、肌へぴったり寄り添ってはがれない。もし色がついているなら、ほとんど衣をまとっているかのよう。
そうしてまんべんなく身体を濡らすと、上総介はほとんど湯を拭うこともしないまま、装束を着込んでいくのだとか。
――市女笠はおとり。からくりはその湯の方か。
連絡を取り合ったすっぱたちは、山奥に湧いていた上総介の温泉より、どうにか湯を確保することに成功する。
そして近々、戦の気配がする前線へと、一部を運び込んだらしいのさ。
試しとして、剛力無双の兵が選ばれ、戦を前にして聞いていた通りの沐浴を済ませられる。
結果は上々で、最前線へ突っ込んだかの兵は、上総介の戦いぶりを見事に再現してのけたそうだ。
刃向かう者の腕を折り、矢のことごとくをかわし、流れ弾さえかすめることを許さない。
それを見た者の中には、かの上総介を知る奴もいたようで、明らかに及び腰になっている者もいたようだ。
日中、戦い続けた彼の戦果は目覚ましく、すでに感状の準備がなされるほどだったとか。
しかし、彼がそれを受け取ることはなかった。
いざ諸将がそろい、殿様自ら感状を授ける段になって。
かしこまっていた彼の首が、ポロリと落ちた。のみならず、残った彼の身体がぎゅううっと縮こまったかと思うと、次々と骨が折れる音が響き、全身から血を流し、あっという間に息絶えてしまったんだ。
何が起こったか分からない、という表情のままで固まった首。残った胴体は骨が折れ切ったあとも縮みに縮んで、その首の倍ほどの大きさしか残らなかったという。
恐ろしい出来事に、多くの将は衝撃を隠せなかった。
しかし、何名かの冷静な者は悟る。どうして上総介が一日中暴れるような真似をせず、途中で退いていたかを。
――時間だ。時間さえ稼げばいい。それならば……。
かくして、次に市女笠が姿を現した野戦。
将たちは打ち合わせ通り、ひとあたりをした後、敗走を装っていち部隊を引かせた。
市女笠率いる隊は、それを追いかける。戦のはじめという手前、相手の士気をくじき続けてきた自分が、味方側の士気を落とすような真似は、避けたいところだろう。
そして二つの部隊が過ぎた後を追い、そして包むようにして、他の将たちの隊が包囲の網を作りつつあったんだ。
そうして一里ほど逃げたところで。
おとりの部隊と上総介の部隊は、ともに狭いくぼ地へと入り込んでしまう。
切り立った壁に囲まれたここは、出口となる一方を塞がれると、にっちもさっちもいかなくなる。
やがて味方の部隊の封鎖完了を知らせる狼煙があがると、おとりの部隊は踵を返し、猛然と上総介の隊へ突っ込んでいったんだ。
元より決死隊。助からぬ心持ちで臨んでいるのだから、死にもの狂いだ。
対する上総介の隊は、よもやこのような策を採ってくるとは思わなかったらしく、退路を塞がれて右往左往する間に、先陣が次々と斬り殺されていった。
そこからは酸鼻を極めたとしか、たとえようがない。
日暮れまでたっぷり三刻(約6時間)かけた戦いは、例のくぼ地を血で染め、兵の身体に埋め尽くされた。
上総介は暴れに暴れたらしい。そのなぎなたの餌食になったのは、100では済まなかったが、兵たちは上総介を討ち取ろうとは考えなかった。
ただひたすらくぎ付けにするために、粘って粘って粘り抜いたんだ。周りを囲う味方の群も石を落としたりして援護しようとするも、試みた者はいずれも骨がおのずと折れてしまう。
彼らにできるのは道を塞ぎ、その裏をすっかり取り巻いて、相手を逃がさないように勤めるのみだったんだ。
時を追うごとに、鬼神めいた荒れ狂いぶりを見せていた市女笠が、その首もろとも地面へ落ちたとき、包囲していた者からは長い長い溜息が漏れたらしい。
上総介が利用していた湯。その由来はかの領内の古い寺の住職が語ってくれた。
古くより湧くあの湯は、地獄の鬼の垂らす、つばなのだという。
鬼のつばをつけることで、自らを鬼の所有物とし、それを認めた鬼の力によって自らを守る。そして、鬼にいただかれる前に湯をぬぐって、所有物から外れる。
その繰り返しが、市女笠の上総介のからくりだったのだとか。
しかし、つばを拭われるととたんに食欲を無くす鬼とはな。
目印以上に、その湯は鬼にとって外せない調味料を兼ねていたのかもな。