七十九 泳
芦屋道子は、宮中にあって露ほどの緊張も見せずに渡り廊下を横切っていた。
本来ならば、一介の法師陰陽師が大手を振って歩ける場所ではない。
しかし貴人の招きがあれば、それが叶うのだ。
それを知るだけに、周囲の視線は冷たい嫉妬を含むものが多くを占めていたが、当の本人は素知らぬ顔。とある豪奢な襖の前まで来ると、訪いを告げた。
「失礼仕りまする。これなるは芦屋が道子。お呼び立てに応じ、ここに参上申し上げまする」
相も変わらず芝居がかった大仰な言葉に対し、部屋の主は対照的だった。
「お入り」
「はは」
ただ一言にて許可が出ると、道子は自らすすっと襖を開け、入るなり後ろ手に閉じた。
女房の部屋には珍しく側仕えがおらず、広い畳の遥かに、部屋の主がぽつんと縁側を眺めているせいだった。
では、先程襖越しに返事をしたのは何者か。
その答えは、道子がすぐに明かしてみせた。
「壁に耳あり、障子に目あり、とは申せども。御屋形様におかれましては、襖に目鼻も耳口もあり、といったところでしょうなあ。いやはや毎度、お見事な口寄せに御座りまする」
「妾が自ら動かぬのも筋金入り。お前にものぐさと言われようと、やるかたなしというものだえ」
いつもの調子でおだて上げる道子に返って来たのは、辛辣な自嘲だった。
道子の言い分では、部屋の主も相当な術の使い手のようだ。
「いいえ。滅相もありませぬ。他意は御座りませぬ故、平にご容赦を」
珍しく慌てて、畳の間の中央付近にて素早く土下座をして見せる道子に、部屋の主はようやく顔を向けた。
年増ではあるが、手入れを怠っていないのだろう。長く艶やかな、黒髪の美女である。
真横にきっちり揃えられた前髪をさらりと揺らし、面白くもなさそうに道子の姿を目に入れる。
女の名は伊勢政子。
伊勢氏の筆頭であり、傀儡の帝を除けば、国の最高権力者である。
肝の据わった道子ですら、ある種の緊張を強いられるのも無理はなかった。
「顔をお上げ。空虚な謝罪に何の意味があるものかえ」
顔を扇いでいた朱塗りの扇をぱちりと閉じると、政子は冷たく言い放った。
「それより、近う」
「はは」
呪縛を解かれた道子は、素早く、されど足音を立てずに政子の膝元へ進み出た。
「伊勢湾の邪気が祓われたというのは、まことかえ」
開口一番、政子は主題を切り出した。
「なんと、流石はお耳が早い。これよりわたくしめがご報告差し上げようと思っておりましたものを」
「何でも、旅の術師が祓い、偶然居合わせた商人があちこちで話したとか。その者は帝都にも伝手があるようでな。あっという間に宮中まで飛び火しておるぞ」
「なんとまあ。してやられましたな」
額に手をやりながらも、道子は笑みを抑えきれなかった。
「噂には続きがありましょう? 天下の大店、大黒屋が先んじて目を付けて投資を行い、今だ小さいながら漁港に仕立てたと。飢えに苦しんでいた民は勇んで飛び付き、順調に港町への発展を辿っているとか」
「ふふふ。すっかり先手を取られてしもうたな。今更伊勢の土地など惜しくはないが。そのままくれてやるのも面白うない。しかし、どうやら相手方には、なかなかの知恵者がいる様子」
同様に、凶報であるにも関わらず、含み笑いの混じる政子。
まるで事の重大さを愉しんでいるように。
「然り、然り。伊勢を制圧さば、地力を蓄えた暁には、独立なり挙兵なり自由自在。以前の東国新皇の乱の再来もあり得ましょう」
黒い扇子を手中でくるくると回しながら、笑顔歪む道子が問う。
「早々に対処せねば、国にとっては厄介極まりまするが。御屋形様におかれましては、いかが手を打たれるおつもりで御座りましょうや」
「知れたこと。大黒屋は賄賂の使いどころを知ると聞く。徴税官を送り込めば済むであろうよ」
「あいや、成程成程。何事も、動こうにも力を蓄えてから。重税を課し、反すれば誅する大義を得られ、大人しく税と賄賂を得られればそれもまたよし。時も稼げて一石二鳥、と。いやはや。お見事な采配。この芦屋が道子、まだまだ勉強不足を痛感致しまする」
ぱしんぱしんと扇で膝を打ち、感じ入る道子を他所に、政子は再び庭の枯山水を眺めやる。
「どちらへ転ぼうが、我が権勢に揺るぎなし。お前には引き続き、浅羽の小僧のお守を申し付ける」
「謹んでお請け致しまする」
道子が退室し、静寂を取り戻した部屋で一人。政子は扇で顔を覆っていた。込み上げる嗤いを隠すため。
政子はこれまで、己が大願成就がため、陰陽寮や高野山など、術師の育成機関を弱体化する政策を執ってきた。
そんな今現在、大量の邪気を祓える術師など、そうはいまい。
なれば自ずと、旅の術師とやらは、解き放った魔性なのであろうと予想がつく。
放置していた魔境を制したは見事だが、たかが近年まで片田舎で眠りこけていた神器が一つ。未だ本調子ではあるまい。
「くくく。我が戯れの相手と成るや否や。今が分水嶺ぞ。目覚めし魔性よ」
嗤いながら呟く政子の瞳は、赤い扇を照り返し、血の如き真っ赤に染まっていた。




