七十二 欺くもの
白星は登って来る者の気配に気付きながらも、あえて視線を向けずに海を眺めていた。
遠目に白波が無数に立ち、刻一刻と表情を変えてゆく海の様相は、見飽きる事がない。
続けて杯に酒を満たし、ちろりと舐めているところへ、背後でどさりと重い音がした。
新たな来訪者が、休憩のために荷物を降ろしたのだろう。
その後汗を拭くような衣擦れが聞こえ、人心地付いたものか、大きく伸びをするような気配が上がる。
そして一言。
「こんにちは。いやあ、今日は暑いですねえ」
何気ない挨拶であったが、その瞬間、徳利を持っていた白星の手がさりげなく白鞘にかけられた。
もちろん周囲に人影は他にない。間違いなく白星へ向けた声だろう。
それ自体が、まずあり得ぬことなのだ。
十重二十重と丁寧に編んだ隠形の術式は、須佐の術儀の奥義そのものと言ってよい。
故にこそ、須佐に所縁ある者、こちらから縁を繋いだ者、または相応の力ある術者にのみ感知の叶う代物なのだ。
前者であればよい。
現に健速がこちらの地理に詳しい者を寄越す手筈となっている。
しかし待ち合わせ場所は、もっと先の集落のはずであった。
行きずりの凄腕術者の可能性もないではないが、いかにも間が良すぎる。
であれば後者……戦を通じて縁を繋いだ上に、隠形を感知できる程の術者──黒衣の女の仲間である可能性も考慮するべきだろう。
すぐさま足の一本も切り落として、情報を引き出してくれようか。
白星が物騒な算段をする間にも、男は明るい声を弾ませ、世間話を続けていた。
「……それにしても、お嬢さんはこんな人里もない辺鄙なところでいかがしました? もしや、道中でご家族とはぐれましたか?」
いかにも心配そうな声音で尋ね来る男に、白星は一旦調子を合わせる事にした。
振り向けば、狐のように目を細めた小柄な若い男が、人好きのする笑みを浮かべて大きな葛籠を椅子にして座っていた。
「家族はおらぬ。わしはここらで術の修行をしておってな。人がおらぬ方が都合がよいのよ」
「なんと、そのお年頃で術師の道を? ああ、道理で立派な呪具をお持ちなのですねえ。さぞ力ある術師様とお見受け致しました」
白星の手に視線を落とした男は、白鞘を杖でなく刀だとあっさり看破した。
その事実に、白星は警戒の度合いを強める。
これで男が術師である事に疑いはなくなった。
後はどう情報を引き出すか。
敵か味方か、見定めるのみである。
「わしのことはよい。ぬしこそ、人がおらぬと知っておって、何故ここへ?」
「もちろん、商いですとも。見た通り、私は流れの薬師でして。乞われれば、どこへなりとも参じるのですよ」
男は淀みなく応え、己が座している長方形の薬箱を指して笑った。
「ああ、薬師と言っても、近頃はそれだけではなかなか食べていけませんでね。こういった女性向けの小物や、雑貨なども扱っているのですが。どうです、ご覧になりませんか?」
男は白星の返事も待たずに薬箱から商品をあれこれ広げ始めると、
「ほら、これなどいかがでしょう。お召しの着物によく映えると思うのですが」
その内の一つ、白地に薄紫の花柄が散る手拭いを差し出した。
それを見た白星は脳裏に閃くものがあり、言われるままに受け取っていた。
そして広げた手拭いと、己の小袖の柄を重ねるようにして見比べる。
するとどうか。
双方の花柄が、欠けた部分を補い、鮮やかな桔梗の紋が浮かび上がったではないか。
「……うむ。悪うない。一つ貰うかの」
思わずにんまりと口元を緩める白星に、男は大仰に頭を下げた。
「ありがとうございます。遅ればせながら、私は薬師の福一と申します。今後ともご贔屓の程をよろしくお願い致します」
桔梗の紋とは、在りし日の安部氏の家紋である。
転じて、須佐の草同士での符丁として使われ、身の証明に必須であった。
大黒屋で千歳に見繕ってもらった着物には、そのための細工が施されていたのだ。
その後、洞穴で待機していた者達を呼び戻すと、福一は改めて皆に挨拶をした。
「千歳から聞いてはおったが、実に何気なく繋ぎを取るものよな。一つ勉強になったわ」
「恐れ入ります。回りくどい方法となり、失礼仕りました。しかし、草は慎重に過ぎるに越したことはないのです。何卒ご勘弁を」
そう言って頭を下げる福一だが、次に顔を上げた時には修羅の様相を灯していた。
「特に星子様におかれましては、戦場に参じることも叶わず、御力になれずにおったことが、長年気がかりでなりませんでした。先日健速殿から連絡を受け、ようやく生きた心地を得たものです。これからはこの福一も、身を粉としてお力添えする所存。里の仇討がため、何なりとお申し付け下さい」
「……は、はい。こっちこそ、よろしくお願い、します……」
怒涛の剣幕でまくし立てられ、星子はそう覇気のない返事をするので精一杯であった。
「その辺でよかろ、福一や。星子が怯えておるぞ」
「は、これは御無礼を。……そういう訳ですので、便利屋として頼りにして頂ければ幸いでございます」
白星に指摘されると、星子に詰め寄っていた福一は即座に身を離して咳払いを一つすると、先刻までの穏やかな笑みに戻った。
この切り替えの早さこそ、草たる由縁なのだろう。
「ところで福一。待ち合わせ場所を変えたのも、健速の指示かの?」
場が和んだところで、改めて白星が尋ねる。
「いいえ。私の独断です。何しろ私はせっかちなもので。戦と商談は速さが命。お早く皆様のお目にかかりたいと思い、こうして馳せ参じた次第です」
「かか。ぬしも大概変わり者か」
「ええ、よく言われます。しかし此度に限っては、そのせっかちが功を奏したようなのです」
「ほう?」
白星の興味を引いたのを見て、福一が続ける。
「昨今、ここらの海辺では水妖の動きが活発でしてね。合流予定の集落も、私が出立した直後に潰されてしまったそうなのです」




