三十二 探るもの
白星と健速が精神による記憶の精査を始めて、はや一刻が過ぎようとしていた。
ふと、閉じられた健速のまぶたがぴくりと動き、肌の血色が戻り来る。
「……ふうう……」
脱力していた健速が息を吹き返し、同時に白鞘から手を離すと、体中から油にも似た大量の汗がどっと噴き出した。
「よう戻った。それだけでも大したものよ」
言いながら、白星は袖より出した手拭いで健速の額を拭ってやる。
健速は、頭上からという思わぬ声の出どころにたじろき、数秒身を硬直させた。
完全に脱力した健速の身を支えるため、白星は膝枕をその頭に貸していたのだ。
成すすべなく顔から首元までを拭かれた頃にようやく己を取り戻し、健速は白星の手を押し留め、慌てて起き上がって手拭いを奪うように受け取った。
「も、もう大丈夫だ。自分で拭く」
目が覚めれば、姪の面影残す少女の膝を借りていたという現実に直面し、驚くなという方が無理であったろう。
「どうにも、雪子に似過ぎていてやりにくいな……」
「昨日も言っておったの。それが星子の母の名か」
ぶつぶつと漏らしながら、胸元へ手拭いを差し込む健速へ、白星が尋ねる。
「ああ。星子は完全に母親似だ。雪……義姉者はおれ達兄弟とも年近い事もあって、幼き頃からよく一緒にいてな。お陰で一目でわかったとも」
在りし日に思い馳せるように発した、柔らかな健速の声が座敷へ染み入る。
「……それだけに、断じて許せん。あれ程残虐に、無残になぶられようとは」
一転、周囲の空気をびしりと震わせるような怒気を孕んだ声音へ変化した。
「その口ぶりでは、収穫ありかの」
「……ああ。未だに信じたくはないが……まさか兄者があのような外法に敗れるなど……!」
憤怒に耐える健速が手拭いを握り締めると、ぼたぼたと畳へ液体が滴り落ちる。
はや過ぎ去った事とは言え、故郷が蹂躙される様を成すすべなく見ているしかできぬ心痛は、白星をしても察して余りある。
もっと取り乱してもよいくらいであるが、そこは大の男の面子というものもあるのだろう。
胸中でその矜持を褒めつつ、敢えて報告を急かさず、健速の激情が収まるのをじっと待つ。
「……無様を晒した。面目ない」
「構わぬ」
軽く下げた健速の頭を、白星は労いを込めて撫でた。
「いや、敵わんな。この歳になって、その子供扱いは」
苦笑しつつ上げた面からは、すでにどす黒い憎悪は消え、揺るがぬ意志が戻っていた。
「まず残念な事から言っておく。おれが確認できたのは、戦の映像だけだった。一部始終は大体読めたが、声や音が一切聞こえない。兄者が敵方と、どうやり取りしたかは不明なままだ」
「名などはわからぬか。惜しいの」
「しかし、敵は陰陽師一人と天狗の群れだった。十中八九、国の軍だろう」
「ほう。根拠があるか」
「陰陽師の方はわからん。須佐が祖の安部氏亡き後、陰陽寮はすでに形骸化して、あれほどの術者は排出していないはずだが。しかし天狗は天津人の一角だからな。帝都の所属で間違いない……」
健速の解説は、突如強まった白鞘の妖気に阻まれた。
「あまつ、と言うたか」
穏やかな表情が多くを占めていた白星が、始めて見せる鬼面で呟いた。
つい先程の健速の憤怒が霞む程の、空気でさえ竦むような圧倒的な怖気が、広間を凍て付かせる。
比喩ではなく、実際に室温が急激に下がってゆくのを示すように、燻っていた囲炉裏の灰がじゅわりと悲鳴を上げて消えた。
「不思議なものよ。その響きを聞いたのみで、かつてなき負の波が胸を走りよったわ」
胸元をぎゅうと抑え、壮絶な表情を湛えたままに白星が呟く。
「されど、もう落ち着いた。一つ聞くが、ぬしがわしの中に見出した記憶は、須佐がもののみか。わしの起源に関わる事柄は見えなんだか」
一転、深呼吸の後には平素の顔に戻り、健速へ静かに問うた。
「ああ。そこまでは遡れなかった。どうにも違和感はあったがな。多量の情報に埋もれている、というよりは、引き裂かれているような印象だった。例えるなら、絵合わせの断片か。ところどころ、数が合っていないように見受けられた」
絵合わせとは、元は一枚の絵画をばらばらに千切り、断片を繋ぎ合わせて元の絵へと戻してゆく遊戯の一種である。
神器に関する情報は、そのようにして意図的に断片が引き抜かれているのではないか、と健速は言った。
「ふむ。わしの分霊がどこぞにあるのやも知れぬな」
「それはあり得るな。元々神器は一つではない、という話もある。須佐の伝承は長のみが継ぐことになっていたから、おれも神器について詳細を知らぬが。家の蔵が残っておれば、いくらか文献はあったろうに……」
あの有様では期待はできまい、と健速は苦い顔を作った。
「いや、よい。あの女はわしが狙いと断言しおった。あやつが国の命で動きよるならば、わしとあまつとやらに因縁あるは違いなかろう。関わる内に、いずれ知れる事よ。先の説明を続けい」
「……わかった」
白星の感情の揺れが収まったのを見て取り、健速は話を再開した。
「天津人とは、かつて天より地に降り、国を平定した天津神の末裔だと言われている。中でも帝は天津の直系にして、この日ノ国と名付けられた地を治めるよう任じられた、現人神だと聞く。実際、他の天津人より遥かに長命らしくてな。少なくともここ百年程は、新たな帝を立てた記録は無い」
「ふむ」
健速の言葉を整理するように、白星は一拍の相槌を打った。
「この地、日ノ国とやらは、今も機能しておるのか」
「鋭いところを突く」
白星の質問に、健速はまずは国の成り立ちを軽く語る事にした。
帝を頂点に据えた帝都にて、天津人が支配階級として君臨している事。
今代の帝は治世に興味を持たず、実質的な政は関白である伊勢氏の一族が担っている事。
その配下に香取氏、鹿島氏、浅羽氏の八咫衆が三家がおり、国防を担っている事。
「そしてここからが本題だが、七年前に須佐が結界が破れてより、国中に邪気が散った。そのため各地で凶事が多発するようになってな。国軍はそれらの鎮圧に大わらわ。混乱に乗じて、地方の豪族は反乱を企み、国の直轄地以外は無法地帯と化しておる」
「わしらが動くには、具合がよいか」
「ああ。今や日ノ国は割れている。しかし国軍は未だ精強。数を割いておるのは遊軍の鹿島と浅羽だけでな。帝都は今も香取の精鋭が固めておって、潜入も難しい」
そのせいで、帝都方面は調査不足なのだと、健速は悔しさを滲ませた。
「何。やる事はさして変わりあるまいよ」
「と、言うと?」
「これまで通り、地脈を制して支配を広げる。途中、邪魔があらばこれを滅し、国を不満として乱を起こす者あらば、味方に付ければよかろ」
「つまるところそれは、叛乱の旗印となるおつもりか?」
健速は白鞘の記憶の中で、白星の凄まじき業を目撃した。
かの力をもってすれば、他勢力をまとめ上げる事も期待はできる。
「わしが中心とならずともよいがの。敵の敵は仲間と言うであろ。まず数に頼るのは戦の鉄則よ」
無論有象無象が集まったとて、国の正規軍相手には物の役には立たぬやも知れぬ。
しかし白星にしてみれば、地脈を制する時間さえ稼げるならば、同盟相手は選ぶ必要はなしと見た。
「とまれ、この地でもっとも大きな龍穴を探るとしようぞ。そこを下して、この地の足掛かりとしてくれる」
「む、それが」
白星の宣言に、健速は歯切れ悪く返した。
「この峠を下った先の門前町を過ぎれば、熊野という大社に出る。そこが一帯の地脈を制しているのだが」
「熊野か。大した言霊を感じるが。どうにも煮え切らんの。場所が割れておって何が問題ぞ」
「それがな。熊野の地は帝も行幸に訪れる直轄地とあって、警備がただでさえ固い。その上この時期、湯立という一大神事を催すため、鹿島の兵が増員されておるのだ」
「かか。慎重を期すはよい。されど、まずは虎穴に入らねばなんともなるまいて」
白星は笑い飛ばすと、軽い見物気分で熊野入りを決定した。
「何、行ってすぐどうこうという話でもない。まずは近場より様子見するだけよ。ぬしにとっては庭のようなものであろ。物見遊山に付き合えい、大黒屋よ」
「ううむ。大胆不敵というかなんというか……貴殿は大器であるのは間違いないな」
健速も腹を決めた様子で頷いた。
「どうせなら、おれの店に寄って服を新調するか。そのままではいかにも動きにくそうだ」
「おう。それは願ってもないの」
健速の提案に、それまでの物騒な話から一転、白星は年相応の輝く笑みを咲かせた。




