二十五 演じるもの
無知とは、時に罪である。
そんな事を、ふと思いもしただろうか。
白星は赤い毛氈の敷かれた縁台に座して、細めた視線を中空へやり、淡い笑みを浮かべていた。
向けた先は峠の半ば。
切り立った崖ぎりぎりに、しがみつくように根付いた、立派なしだれ桜が一本。
地に届きそうな枝を幾重にも広げ、青空を背景に濃い紅の曲線を描いている。
この地の名物らしく、葉が混ざり始めてなお鮮やかに咲き誇る桜花を目当てに、ちらほらと人々が往来しては、よき塩梅に臨める位置に建つ茶屋の軒下を賑やかしてゆく。
白星も好奇心のままにその様子を伺い、客達が顔を綻ばせて口にする物を見るうちに、いつの間にやらふらりと吸い寄せられていたのだ。
非凡なる白星の容姿を前に、茶屋の娘はおろか、周囲の客の誰もが気にも留めずにおるのは、ひとえに隠形の向上あっての賜物。
人里に出るにあたり、白星は古狼より二つの忠言を受けていた。
一つに。
完全に気配を断った状態で唐突に声をかければ、常人は恐れをなしてしまうだろう事。
二つに。
白髪なびかせ白鞘携えるこの風貌こそ、獣から見ても、尋常ならざる威容であるという事。
話しかける度に騒ぎとなっては目も当てられぬ。
そこで白星は、人と交流を要する場面では、隠形の程度を加減する事とした。
色々試行した結果、まず白鞘より漏れる妖気のみを完全に抑え、単なる杖と見せかける。
その上で、自身の存在をあるかなしかの境へ置く事で、一見変哲のない、かつ記憶に留まりにくい少女の姿を装う、という形へ落ち着いた。
生き物の、特に人の認識力とは、意外とあやふやなもの。
その工夫が功を奏し、何の不審も抱かれずに席へと案内され、注文を告げるに至る。
店で特に人気を博しているのは、独自の製法からなる桜餅だという。
蔦類の樹液を煮詰めた甘葛に、桜の花弁を練り込んだ餡を餅でくるみ、塩漬けした桜の葉で包んだ、自慢の逸品だと給仕の娘は得意げに語った。
果たしてその大言に偽りなし。
一かじりした白星へ、それはかつてない衝撃をもたらした。
もちりとした食感は言わずもがな。
蕩ける甘みと、それを引き立てる塩気が舌の上で混じりあい、複雑にも不思議な調和をなして、少女の未熟な味覚をこれでもかと蹂躙してゆく。
常人の糧は要せぬ白星だが、白路の民と生活を共にする間に、口を経た食事を娯楽の一つとして覚えていた。
摂ったものはさほどの栄養とはならぬが、毒ともならぬ。
故に森の生き物が勧めるままに、色々と試しに口に入れた。
しかしそれらは血の滴る生肉であり、採ったままの川魚であり、とりどりの木の実や山菜であって、あくまで自然の幸に限られた。
それらですら、ただ気を喰らうよりは興が乗るものであったが、そこへきて初めて人の手の加わったものを食したのだ。
その舌に走った驚愕たるや、天地が返らんばかり。
滅多な事では動じぬ白星が、これ程の刺激があったものかと、感動に浸りつつ夢中で頬張る事、しばし。
少女は戦の高揚にも並ぶ至福に浸っていた。
脇に積み重なった、数えるのも億劫な皿の枚数が、それを雄弁に物語る。
人の子の食文化、侮りがたし。
白星をして、尊敬の念を抱くに一切の躊躇を挟まぬ美味であった。
しかし直後に白星は、己の無知、世間知らずを再度痛感する事となる。
今座しているのは、これまで見た事もなき小綺麗な茶屋の縁台。
食した物は、善意で配られているものにあらず。
「そりゃね。これだけの食べっぷりを見せてくれると、出したこっちも気分が良いってものだけど」
食後に湯飲みを傾ける白星の前には、小袖に前掛けを巻いた茶屋の娘が、腰に手をやって仁王立ちしていた。
白星よりも三つか四つ上、といった年頃か。
適度に肉のついた健康的な体の肩をいからせ、愛嬌のある顔立ちは、今や苛立ち半分、困惑半分といった微妙な表情が浮かぶ。
「かか。よもや飲食に、銭とやらがいるとは思わなんだわ」
「笑いごとじゃないのよ。うちだって商売なんだから」
事態の重さに反して呑気な白星に、娘は短く切り揃えた黒髪を振りつつ頭を抱える。
この時世、甘味と言えば軒並み高級品である点も致命的だった。
どうやらこの茶屋は、程近い門前町に詣でる裕福な参拝客を当て込んだ老舗の出店であったらしく、白星が平らげた甘味の代金は、とても現実味のない額となっていたのだ。
須佐の里では自給自足。村のものは全てが共有財産であり、取引という概念自体がなかった。
そして白星が外界へ出てより立ち寄ったのは、ほとんどが物々交換で成り立っているような、小さな集落ばかり。
貨幣制度を知らずにおったのも、無理からぬ事であろう。
「生憎と、今のわしは着の身着のまま。持ち合わせがとんとなくての」
「もう、どこの箱入りさんなのよ。妙に堂々としてるから、お付きの方がいるかと思えばこれだもの。迷子か家出娘なんて、勘弁してよね」
ひとまず食い逃げの意志が見えない点から、娘も大事にはしたくないと思ってか。
「……お役人に突き出すのは簡単だけど、どこかの姫様だったりしたらめんどうかな……」
ぶつぶつと、どうしたものか唸り続ける娘の意を汲み、白星は湯飲みを置いて一つ提案を出した。
「どれ。要は、銭と代わるものがあればよいのであろ」
「まさか、その棒切れのことじゃないわよね」
正体知らぬ娘は白鞘を指し、冷たい目で見降ろした。
「かか。さにあらず。もっとよきものよ」
白星はおもむろに立ち上がり、ふわりと笑んでみせる。
「目前によき舞台があるでな。一指し演じてくれようぞ」
「へえ。舞いを打つの。なんだか自信ありそうね。いいわ。お客さん達を喜ばせてくれたら、お代のこと少し考えてあげる」
桜を示して歩き出す白星に、娘は挑戦的な言葉を投げた。
「はいはい、皆様お立ち会い! これから新進気鋭の舞い手が一つ、素敵な演目を披露してくれるそうですよ!」
給仕を他の者へ任せたかと思うと、手を叩いて衆目を集めつつ、桜の前を人払いし、舞台をたちまち整えてしまった。
「よろしければ、うちのお菓子をつまんでご覧になってくださいな!」
ちゃっかりと店の宣伝までする抜け目なさに、商魂かくあるべきかと白星は感心した。
「ここまでお膳立てされては、恥は晒せぬの」
あっという間にわいわいと賑やかな人垣に囲まれる中、白星は緊張一つ見せずに背筋を伸ばす。
「いざや。桜の精へ一つ捧げん」
水平に袖を払った後、白鞘が地面をかつりと打った。




