十七 銀まとうもの
豊かに蓄えられた銀の被毛が、斜陽と氷片を弾いて燦然と輝いた。
氷壁を穿った穴より首を伸ばし、回りをがりごりと豪快に噛み砕いては出口を広げてゆく。
やがて前足を窮屈そうに抜き出すと、尖った爪を縁に突き立て、尋常ならざる膂力をもって全身を一息に引き上げた。
びしり、と。
勢いで氷全体に大きく亀裂が走る。
かくして氷山の天辺へ立った者は、堂々たる威容を日の下へ誇示した。
邪気による変化が解けてなお、周囲に未だ囚われる狼達の何倍もあろうかという巨躯。
今は閉じられた口の幅は、少女の身など一呑みかと思える程。
瞳からは血走る赤が抜け、落ち着き払った澄んだ青となって地上を見下ろす。
その居住まいには確たる知性が透けて見え、邪気が完全に抜け去った事を表していた。
「うむ。うつくしきかな。森の主」
白星は自然、掛け値なしの称賛を送る。
夕陽を背負い屹立した白銀の獣は、それ程に壮麗、かつ威厳に満ちていた。
古狼。
原始の森を統べる覇者。
剛毅漂う風格から、百や二百ではきかぬ歳月を匂わせる。
これ程の者が核となっておれば、先の邪気溜まりの規模も頷けようというもの。
束の間、古狼は状況の把握に努めてか、視線を少女と周囲へ交互に巡らせる。
やがて事態を呑み込んだと見るや、雄々しく一つ遠吠えをあげた。
それは突風となって輪を広げ、白星の髪を激しくなびかせる。
長き雄叫びが尾を引く最中、古狼は突如氷山を蹴り、目下の少女目掛けて飛び降りた。
押し潰さんばかりに振り抜かれた前足から、白星は素早く飛び退き逃れていた。
ばきゃり、と凍った地面が深く陥没し、砕けた氷が礫となって盛大に爆ぜる。
受けを選択すれば、同じ運命を辿っていたであろう。
そう思わせるだけの重量と速度が乗った、恐るべき一撃。
「かか。起き抜けにしては威勢がよいの」
白星は飛んできた氷片をあしらいながら笑いかけた。
ずしりと着地した古狼は取り合わず、後ろ足へと力溜め、再び吠え猛りながら突進を開始する。
滑る大地に爪を食い込ませ、強引にも正確な軌道を描き、白い疾風が後退続ける少女を追った。
さしもの白星も、巨岩のような重圧放つ体躯には、迂闊に手出しならず。
わずかにかすめるのみで、粉微塵とされかねない。
反撃の機を計るため、一時を観察にあてる事にした。
円を描くように横へ跳び、できる限りの余裕をもって、丸太を振り回すような前足の連撃をかいくぐる。
しかし無情にも、狩人は時間稼ぎを許さなかった。
白煙撒いて追いすがる古狼はやがて、不意に白星の行く手を遮るように進路を変えたのだ。
まさに少女の身は宙にあり、回避のしようもない姿勢。
裂けんばかりに開いた古狼の口より勝鬨の如く咆哮が鳴り、並んだ牙が上下から、獲物を容赦なく噛み砕かんとした、その刹那。
少女の姿が、ゆらりと崩れて霧散した。
残った氷の粒が瞬時に膨張し、古狼の口腔を巨大な雪玉となって占拠する。
古狼は塞げぬ顎と霧氷で視界を奪われ、着地を誤り氷上を豪快に滑走した。
巨体が重厚な音を立てて地を抉り、広く長い溝を作ってから、ようやくに動きを止めた頃。
横倒しとなって目を回すその鼻先に、白鞘抱えた少女が悠然と姿を現した。
古狼が追い回していたのは幻。
かの者が足を蹴りだし、地を穿つ度に宙へ思うさまに巻き上げた、きらきらとした無数の氷の粒子。
それらが陽光を反射して結んだ、虚構の像だったのだ。
場には冷気を通じて白星の気配が充満し、古狼の嗅覚をもってしても、途中で入れ替わったを悟る事ならず。
白星と言えば、当初の慎重さはどこへやら。
もはや勝敗は決したとばかり、大胆にも古狼の間合いに身を置いた。
「どれ。まだやるかの」
地に伏してようやく目線が同じとなった古狼の前に立ち、気安い声を投げる。
古狼はそんな少女を一瞥すると、がしゅり、と雪球を噛み割り、一口に呑み込んだ。
しかし、それが成し得る精一杯の抵抗であった。
傷の一つも受けずして、今や古狼は身動き一つならず。
足を止めたが最後、周囲に散った氷片が一斉に、幾重にも交差する楔と伸びて四肢を縫い、森の主を大地へ繋ぎ止めていた。




