鬼ごっこは終わりだ
「あー、生きた心地がしなかった」
肺の空気を目一杯吐き出した弥夜はハンドルに伏せる形で身体を預ける。疲弊しているのか完全に伸びており、小さな唸り声が車内に響いた。
「お疲れさん」
対し、疲れた様子も無く天井の風穴から助手席に戻った茉白。そのまま後頭部で手を組んで両脚を前面のダッシュボード部分に乗せる。
「えへへ、ありがと……ん?」
伏せていた顔を上げた弥夜は不思議そうに眉を潜めた。
「何だよ」
「貴女が労いの言葉をくれるなんて、一体全体どういう風の吹き回し?」
「助けられたからに決まってるだろ。うちが運転していたらと思うと恐ろしい」
「それはお互い様だよ。茉白が霊魂を何とかしてくれなかったら、今ごろ私達は仲良く溶けてスライムA、Bみたいになっていただろうから。あと足癖悪いよ?」
ダッシュボード部分に上げられた両脚が無理矢理に元の位置へと正される。弥夜は毒づく茉白を横目に、飴を取り出して満足げに咥えた。
「あ、煙草は駄目だよ? この車は後で返すから」
「嘘つけ、返す気なんて無いだろ。ミラーも両方無い、看板薙ぎ倒して傷だらけ、挙句の果てには天井に穴まで空いてる。それに、煙草の方がこの甘ったるい芳香剤よりはマシだ」
「それは結果論。でも最後のだけ同意」
鼻で笑った茉白は懐から煙草を取り出すも、それを見ていた弥夜が、咥えていた飴を茉白の口の中に無理やり押し込んだ。
「口が寂しいの? なら食べていいよ」
皮肉にも白い棒状の持ち手が、見た目だけ煙草のような役割を果たす。目を見開き驚いた茉白は跳ねるように上体を起こした。
「……おい!! きったねえ!!」
「酷い、汚くなんかないもん!!」
「舐めてた飴を他人の口内に押し込む馬鹿が何処にいるんだよ!!」
「馬鹿って言う方が馬鹿だし。それに他人じゃなく相方だから」
「……うっざ」
「でも吐き出さないんだ?」
にやにやする弥夜は茉白の頬をつつく。飴による膨らみがつつかれることによって反対側へと移動した。
「食べ物は粗末にするもんじゃないだろ」
「わお、口も足癖も悪いのに意外と常識人」
「煽りの才能だけは一人前だな」
苛立ちを露にしながらも吐き出さずに舐める茉白の隣で、弥夜が再び飴を取り出して咥える。「何本持ってんだよ」と呆れ顔をする茉白は、運転席の窓から覗く景色を流し見るや否や、表情を強ばらせて弥夜に手を伸ばした。
「なに!? 茉白!?」
彼女は助手席側のドアを乱雑に蹴り開けると、無理矢理に弥夜を鷲掴みにして外へと引きずり下ろす。刹那、運転席側のドアが煙を燻らせて熱を帯びる。それは内部にまで及び、運転席やシートは跡形もなく溶解して液体と化した。
「稀崎さん!? どうして生きてるの!?」
「知るか。うちに聞くな」
最早ガラクタと化した車を盾代わりに射線を切る。屈んだまま小声でやり取りが行われたものの、場所は割れているようで、次は車の上半分が水泡のような音を立てて溶解する。生き残る為の選択を脳内でシミュレーションする弥夜。無数に巡らされた思考の糸が辿り着いたのはたった一つの答えだった。
それは、またしても逃げること。
茉白の手を取り車の影から飛び出した弥夜は、霊魂が迫っていないかを確認すると、追跡を欺く為に細い通路を目指して駆ける。だが、抵抗して手を振り払った茉白は足先に力を込めて立ち止まった。
「お前一人で行け。もう逃げるのは終わりだ」
「何言ってんの、一緒に逃げるよ」
「……こいつは此処で殺す」
衝突する双方の視線。睨み合いがしばらく続くも先に折れたのは弥夜であり、小さく両手を上げて諦めを提示する。
「なら私は、貴女が勝つことを信じて此処で待つ」
近くの街灯に凭れて腕を組んだ弥夜は、どんな意見も受け付けまいと言わんばかりに静かに瞑目する。設置されてから随分経つのか、切れかけた街灯の光が不気味に明滅していた。
「それに貴女には、買い物が終わるまで護衛をしてもらう約束だから」
「下らないことばかり覚えてんなよ」
怠そうに吐き捨てた茉白はゆっくりと歩み来る稀崎へと視線をやる。ついに雨を齎した曇天の空に、目を眩ませるほどの稲光が迸った。降り頻る雨は次第に勢いを増し、二人を穿つように打ち付ける。そんな雨の中でも表情一つ変えない稀崎は、感情の宿らない漆黒の瞳に茉白を映した。
「夜葉、鬼ごっこは終わりですか?」
「ああ、次はうちが鬼だ」
「そうですか。捕まればどうなるのです?」
不敵に片目を細めた茉白。刀身を品定めするように眺めた彼女は、次の瞬間、地を力強く蹴り付けて跳躍に近い速さを捻り出した。
「その身で試してみろよ!!」
切っ先が華麗な弧を描き、刀が上方より落ちる。半身を捻って躱した稀崎は、茉白の後頭部目掛けて左脚を高く振り上げた。屈んでやり過ごされた蹴りは凄まじい速さで宙を穿つ。遅れて巻き起こる風圧。体勢を立て直して逆袈裟の要領で刀を振り上げる茉白を、稀崎は凍て付くような冷たい瞳で見据えていた。
「貴女では私に勝てませんよ、毒蛇」
「さっさと成仏しろよサイコ女」
再び虚空を切った刀。稀崎は茉白の手首を掴むと軽く捻って押し返す。刀の頭部分が喉筋を突き、茉白は堪らず嘔吐いた。
「あの世へ行くのは貴女です。道案内が必要であれば致しましょうか? 三途の川の手前まで」
大きな隙が見逃される訳もなく、腹部目掛けて繰り出された蹴りが深々と食い込む。だが、茉白を捕らえた筈の右脚には手応えすら訪れなかった。
「手前? お前一人で三途の川で川遊びでもしてろ」
爆散するように灰と化した茉白は微弱な風に拐われて消失。代わりに稀崎の背後に現れた彼女は、刀よりドス黒い液体を滴らせた。それは猛毒、彼女が毒蛇たる所以。
「そろそろ消えろ……目障りだ」
殺意が昂るも何かに気付き即座に後方へと飛ぶ。ほぼ同時に、稀崎の周囲より青白い霊魂が無数に湧き上がった。霊魂は術者を護るように螺旋を描き、綺麗な軌道を魅せながら空高々と昇ってゆく。その内の二つが両手に吸い寄せられ、色を無くして空間に溶けた霊魂が稀崎の手の中で脇差へと姿を変えた。
「刃物での戦いで私に挑むとは」
脇差は霊魂と同じく美しき蒼白を晒し、逆手に持った稀崎は眼前で腕を交差して構える。得物の合間から覗く漆黒の瞳が鋭い眼光を発した。
「ああ、そういえば」
臨戦態勢であったはずの双方だが、何かを思い出したように稀崎が構えを解く。そのまま虚空を仰ぎ見て瞬間的な思考をすると、召喚したばかりの脇差を意図的に消失させた。
「夜葉 茉白を還し屋へ勧誘しろと、上から言われているのでした」
「はあ? サイコパスな上に情緒不安定か?」
「どうです? 我々のお仲間になっていただけますか?」
「お前等みたいな政府の犬に興味は無い」
「政府の犬……ですか。確かに首輪を付けられていることに変わりはありません」
声色が僅かに曇る。併せて落ちた視線が読めない感情を物語った。
「どのみち無理だよ」
空気を断ち切るように声を発した弥夜に二人の視線が向いた。近くの街灯に凭れ掛かる彼女は腕を組んだまま続ける。
「もしも貴女の誘いに乗っていたとしても、茉白は還し屋には入れない」
「理由を、お訊きしても?」
「還し屋への所属条件を、茉白は絶対に満たせない」
「所属条件は機密事項のはずですが」
「機密事項? なら答えてあげようか?」
まるで冷戦。冷たい物言いに稀崎の警戒心が高まった。無言を肯定と受け取った弥夜は小さく息を吐くと胸中を吐露する。
「還し屋への所属条件はただ一つ。命の再分配で、親や兄弟を含む肉親が生き残っていること。だから茉白は無理、親どころか身内一人残らなかったらしいからね」
「どうして肉親が生きている必要がある? 入る気は無いにしても、うちが何をしようが勝手だろ」
「縛る為だよ。稀崎さんの言う首輪とは恐らくそのこと」
「……縛る?」
相槌を打った弥夜は続ける。
「還し屋へ所属すると同時に、肉親はある場所へと囚われる。所属した者が裏切らないようにする為の人質って訳」
「だったら所属しなければいいだろ」
「あのね? 茉白。命の再分配の後に能力者が生まれたことによって、私利私欲の為に力を使う者が多数現れた。それに伴って死亡事故に遭う確率は、災害前より数十倍どころ数百倍に跳ね上がっているの。この意味が解る?」
答えを急かすように鋭さを帯びる弥夜の視線。即座に何かを察した茉白が鼻で笑う。
「なるほど。所属して仕事を全うしている内は、肉親の安全が保証されるって訳か」
「ご明察。裏切ればもちろん肉親は殺される」
「所属者が死んだ場合は?」
「……用無しと見なされて殺される」
「くっだらねえ」と吐き捨てた茉白は、弥夜に押し込まれた飴を口の中で雑に転がす。ほんのりとした甘さに僅かに表情が緩んだ。
「ただし。どんな死に方をしようとも名誉ある死として処理され、殺されるまでに一週間の猶予が与えられる。肉親には最期の日まで殺されることはおろか、所属者が死んだことすら報されない」
黙って話を聞いていた稀崎が弥夜の元へと静かに歩む。茉白は刀の柄を握る手に力を込めるも、弥夜が手のひらを翳すことで介入を止めた。互いの間合い内に入った弥夜と稀崎の間には不穏な空気が流れ始めた。
「貴女、何者です?」
「何者って普通の女の子だよ?」
まるで腹の底を探るように、弥夜を見据える瞳が細められた。不気味に明滅する街灯の元、互いは視線を外さない。
「名を、お訊きしても?」
「柊 弥夜。怪しい者では御座いません」
場に相応しくないウィンク。可愛げに覗く八重歯が心からの笑顔を代弁する。
「柊……まさか、ね……」
浮かんだ思考を自己完結させた稀崎は、踵を返すと二人に背を向けて歩み始める。もはや戦闘の意志が無いことはその背が語っていた。
「そういえば稀崎さん? 上に伝えて欲しいことがあるのだけれど」
「内容次第です」
乗り気では無い返答を聞き可愛らしい声で唸る弥夜は、無数に蔓延る言葉の中から最適解を選び取る。
「私は還し屋を恨んでいる。這い蹲って無様に死ねよ蛆虫共、と伝えてもらえるかな?」
「……了承し兼ねます」
「まあそれはいいとして、言った通り私は還し屋を恨んでいる。早く去ってくれないと、貴女にも何をするか解らないよ? 私、結構短気だから」
「夜葉ならまだしも、力を持たない貴女が私と殺り合うとでも言うのですか?」
「もしかして試してるの? その問いに肯定すれば私は必然的に能力者ということになり、かと言って否定すれば私の言葉はハッタリとなる」
感情の宿らない瞳で弥夜を睨み付けた稀崎は「まあ、いいでしょう」と吐き捨てると再び背を向けた。
「おい、逃げんのかよ」
「柊に免じて今日の所は見逃します。心配なさらなくても、貴女のことは地の果てまで追いますから」
「見逃されたのはお前の方だろ。二度と来んなよ、サイコ女」
「二度と来るな……ですか。どんな状況下であれ、拒絶されるのは心にきますね。まるであの時のように」
小さな独白。弱々しく紡がれた言の葉が虚空に溶ける。宙を仰いだ稀崎は何かを思考しているのか、悟られぬよう悲しげな表情を浮かべた。
「何か言ったか?」
「いいえ、また後日」
二度と来るなに対する小さな皮肉。振り返ることなく去りゆく稀崎はものの数十秒で街へと溶け込み、残された二人はどちらからともなく視線を合わせた。




