夜明けの為に
自身のアパートへと辿り着いた夜羅。瑠璃の姿は既に無く、丁寧に手当が施されたであろう弥夜が俯いたまま静かに座り込んでいた。
「え……?」
彼女は夜羅の姿を見るや否や声を漏らして咽び泣く。ぐしゃぐしゃになった泣き顔が、いかに夜羅の生還が心の支えになったのかを物語っていた。間を置かず、優來の使っていたシガレットケースが弾丸を軽減し、生かしてくれたのだと説明が為された。
「夜羅……夜羅……!!」
無数の傷跡により激痛が迸る身体。地面をゆっくりと這って夜羅へと抱き着いた弥夜は、肩口に頭を預けて心より喜んだ。
「私は此処に居ますから。心配を掛けましたね……柊」
「ううん……生きていてくれてありがとう」
真っ直ぐ過ぎる想いに瞳を潤ませた夜羅は「ありがとうございます」と優しい声で囁く。そして預けられた頭を撫で、そのまま強く抱き締め返した。
「貴女こそ……こんなにボロボロになってまで」
「死んでてもおかしくない傷だって言われたけれど、瑠璃が手当てをしてくれたの」
「ゆずは何処へ?」
「“私はもう戦わない。この国の向かう未来がどんな形だとしても、私はそれを受け入れる”そう言ってた。きっとタナトスが壊滅したのを見て、瑠璃の戦いの目的だった仇討ちは終わったのだと思う。引き止めたのだけれどそのまま廃学校へ帰っちゃった」
瞳を潤ませたまま口元を緩めた夜羅は「彼女らしいですね」と小さく笑う。次いで、二人の脳内には茉白の姿が浮かべられた。
「茉白は、久遠 アリスに殺されかけていた私を助けてくれた。向こうでもう少しやるべきことがあるんだって。私は瑠璃に引っ張られて連れて帰って来られちゃった」
「私も会いましたから、粗方は把握しています」
思い出される茉白とのやり取り。意を決した夜羅は弥夜を抱き締める腕に力を込める。
「柊……そのままの体勢で聞いて下さい」
「夜羅……?」
行き場を失くした感情が溢れ返り小刻みに震える腕。静かな部屋内は、外から響く僅かな喧騒と秒針の音だけが支配する。夜羅は紡ぎたくのない言の葉を喉元で留め、重い重い口を開いた。
「夜葉の自我は失われ……久遠 アリスと化しました」
「え……? 茉白は桐華の毒を取り込んだって言ってたよ……?」
「虚勢ですよ。夜葉が、辛いなどと口にする訳がないでしょう。毒に蝕まれているのですから意識を保つだけでやっとのはずです」
「そんな……」
「タナトスの有していた久遠 アリス。彼女の右脚が、撃ち抜かれた傷跡を起点に黒い毒素に蝕まれていたでしょう? 夜葉の左腕も完全に同じ症状をしていました」
「だったら……茉白の能力が発動されてしまえば……」
能力者にだけ作用する猛毒を宿した黒い雪が降る。提示された残酷な未来に鼓動が早まる。すぐ近くにまで迫った終焉が、嘲笑うように牙を剥いて待ち侘びていた。
「夜葉は最期の力を振り絞り、ある場所へ向かうと言っていました」
「茉白は優しいから必ず私達を護ろうとする。例えそれが、自身の犠牲の上に成り立つものだとしても」
巡らせた思考を自己完結させた弥夜は、大きく頷くと確信を持ったのか瞑目する。そのまま脳内で記憶の旅をして過去を追体験した弥夜。これまでに過ごした景色や、ふいに見せる茉白の笑顔が脳裏に焼き付いた。
「そこから推測すると茉白が向かうのは、能力が暴走しても被害が最小限に抑えられる場所……つまり、救いの街の巨大地下シェルター」
「……さすがは夜葉の相方と言うべきでしょうか」
「止めなきゃ。何としてでも茉白を救い出す」
「柊……本当は解っているのでしょう?」
喉奥から突き上げる想いを押し殺しながら、夜羅は紡いでしまいたくないその先を口にする。
「夜葉がもう……助からないこと」
一瞬脈打った弥夜。華奢な身体が失う恐怖を代弁して震える。膨大な感情の起伏を鎮めるように、夜羅は、弥夜を抱き締める力を更に強めた。
「そんなこと言わないでよ……夜羅」
「私は夜葉を助ける選択を取ろうとしました。ですが、本人がもう助からないと。別の意志が邪魔をして……自害すら叶わないと」
「嫌だよ……そんなの……」
「夜葉が私達を護ろうとしてくれています。ですが、彼女の能力が暴走すれば能力者は例外なく死ぬ」
天秤に乗った最悪の結末。「後は解りますね?」と言葉を詰まらせながら問う夜羅。静寂の中で永遠にも感じられる無言が続く。瞳を淀ませた弥夜は俯いたまま口を開いた。
「茉白を……殺すこと……」
「そうです。それが私達を護ろうとする彼女への、私達が与えられる唯一の救い」
「死が救いって……こんなのあんまりだよ……一緒に生き抜くって約束したのに……」
救いの街。皮肉にもその名が存在を主張する。共に生きると約束した相方を殺すこと。弥夜の胸中より、感情の剥離する音が聞こえた。
「行きますか? それとも夜葉の手が数え切れない人を殺す未来が視たいですか? 少ない有限を、黒い雪が降る日まで共に生きますか?」
「茉白を一人には出来ない。あの子は必死に自分の中の久遠 アリスと戦っている」
抱き締めていた腕を解いた弥夜は静かに座り込む。惰性で流れた視線が下へ落ち、弥夜は何度か手のひらを開閉させることでまだ自身が戦えることを再確認した。
「一番辛いのは私達じゃない。自分という意志を否定されて、人を無意識に殺めてしまう茉白の方だよ」
「……そうですね。柊の言う通り、一番辛いのは私達じゃない。彼女はたった一人、孤独の中で戦っていますから」
「だから私が茉白を救う。ううん……殺す」
言い切ったはずの語尾が弱々しく萎む。自問自答を繰り返す弥夜は、本当にこれで良いのかと本能の奥底に問い掛けた。
「それが夜葉の願いです。彼女自身もきっと貴女に止めて欲しいはずです。相方である、柊にね」
手を取った夜羅は真っ直ぐな瞳で諭す。
「もしも貴女にその覚悟が無いのなら、私が夜葉を殺めます。私は以前、還し屋として彼女を殺す為に追っていましたから」
自身も辛い状況下でありながら、逃げ道を用意した夜羅。弥夜は不器用な優しさに感謝すると共に「大丈夫だよ」と力強く首を横に振る。
「私達を護ることが茉白の願いなら……私は相方として想いに寄り添う」
「覚悟は出来たようですね」
「ここで逃げ出すことは簡単。でもそれをしてしまえば茉白は苦しむから」
立ち上がった弥夜。その際、僅かに身体が揺らぐ。戦闘により受けた傷は深く、最早立っていることでさえ不思議な状態だった。すぐさま支えた夜羅が傷口に触らないよう肩を貸した。
「ありがとう、ごめんね。でもこんなの……茉白の痛みに比べたら何とも無いから」
外へと出た弥夜は普段よりも冷たく感じる夜風に辟易する。秋も終盤。哀愁漂う尖った冷たさが、皮肉にも傷だらけの身体を撫でてゆく。
「夜羅、一緒に行こう。この国の未来を……ううん、明けない夜が無いことを証明する為に」
「もちろんです。綺麗な夜明けをきっと、いえ……必ず拝みましょう」
頷き合った二人は視線を合わせ、信頼を示すように微笑み合う。お互いに解っていた。これが最後の戦いになるということを。




