熊のぬいぐるみ
「茉白……!! やばいかも!!」
焦燥に苛まれる弥夜が駆け出すも、腕を掴まれたことにより行動は静止する。静かに首を横に振った茉白は表情一つで「行くな」と語った。
「あの男が能力者だったらどうする? お前も死ぬぞ」
「貴女は黙って見てられるの?」
「うちが頼まれたのはお前の護衛のはずだ」
「……最低!! 馬鹿茉白!!」
低い声で毒づいた弥夜は、掴まれた腕を振り解いて男と少女の間に身を投じた。一人取り残された茉白は舌打ちと共に苛立ちを露にする。
「最低なのはお前だよ、何も考えずに感情のままに動きやがって。お前の口の悪さも大概だろ」
護衛を引き受けた以上は無視を決め込む訳にはいかない。そんな考えに至った茉白は頭を雑に掻くと渋々と男の元へと向かう。
「おい、その辺にしとけよ」
今まさに、少女を庇って立つ弥夜へと男の手が伸びる。そんな流れを断ち切るように吐き捨てた茉白は、男の視線が自身へと向いたことに僅かに安堵した。
「可愛い女の方から寄って来てくれるとは、俺はつくづく運が良い。ああ神よ……この糞餓鬼にぶつかられたことを感謝致します」
舐め回すような男の視線が、茉白の頭頂から足先を何度も往復する。その際、嫌悪感を煽る下卑た笑みが惜しげも無く晒されていた。
「お前の度胸は認めてやる。だがな、喧嘩を売る相手は選ばないと怪我するぜ!!」
予備動作無しで距離を埋める男は、腕を大きく突き出しながら目を血走らせる。事態は一瞬、体重差で軽々と押し倒された茉白に覆い被さる男。吊り上がった口角が心底愉しいという感情を代弁していた。
「能力者でも無い奴が俺様に逆らうんじゃねえよ!!」
顔面に降り掛かる唾液。舌打ちをした茉白は歯を食い縛り男を睨み付ける。一連の流れを見ていた弥夜は助けに割って入ろうとするも、行動を起こすよりも早く茉白との視線がかち合った。
「……餓鬼の目を塞いでろ」
その一言で何かを察した弥夜は、即座に少女を抱き締めて視線を遮断する。少女が暗闇を怖がらないようにと優しく頭が撫でられた。
「汚ねえ唾吐きかけんなよオッサン」
鼻筋目掛けての頭突き。茉白は、男が怯んだ隙に体幹を捻じって頬を殴り付ける。ぐらりと傾く身体ではあるが、男は無理矢理に体勢を立て直すと茉白の顔面目掛けて拳を振り下ろした。間一髪、首の可動域を目一杯に使って躱した茉白。拳に打ち付けられた地面は大きく陥没し、男の力が常軌を逸していることが証明された。
「中途半端な正義感が自分自身の首を絞めたな」
次は外さまいと再び振り上げられる拳。地面のアスファルトにはかなり先まで亀裂が迸っているが、男の手は傷一つ付いていない。
「能力者でもない奴が俺様に逆らうな、だと? 残念……うちも能力者だ」
先程のお返しと言わんばかりに、男の顔面に唾が吐きかけられた。何が起こったのか一瞬の逡巡、その隙を茉白は逃さない。腹部に靴底をめり込ませる勢いで蹴りを放った彼女は、ようやく立ち上がると日本刀を具現化させる。黒い鞘、黒い柄、刀身は純粋無垢な白銀。茉白は月を描くように美しくも緩徐な動作で刀を抜き、顎を引いて男を正視した。
「お前みたいな餓鬼が能力者? 武器を出せる程度じゃ話にすらならねえな」
「だったら試してみろよ」
「餓鬼が、言葉遣いから叩き込んでやるよ!!」
苛立ちを露にする男は両手を地に張り付ける。併せて発せられた唸り声は力を込めている証拠であり、切り取られたように剥離した地面が持ち上げられた。まさに質量の暴力。先程までは道であった地面が、今や男の手により一瞬で凶器と化す。
「どんな能力かと思えばただの怪力かよ」
異様な光景に気付いた人達は逃げ惑い、我先にと押し合いが起こる。恐怖に慄く者、足を縺れさせ転倒するもの、持ち上げられた巨大な地面を震えて見上げる者、みな各々に隣合わせの死を意識し始めていた。
「どいつもこいつも押し潰されて死ね!!」
勢いを乗せて放り投げられた地面が、電柱や車を容易く薙ぎ倒しながら茉白へと接近。迫り来る絶望に似た状況の中、彼女の握る刀にドス黒い液体が滴り始める。液体は泡立ちながら白煙を燻らせており、刀に執着するように纏わり付いた。
「くっだらねえ」
放たれた逆袈裟。いつ振り抜いたのかと錯覚するほどの速さで切っ先は地から天を向く。少女の扱うたった一本の刀により剥離した地面の塊は斬り裂かれ、真っ二つに分かたれた岩塊は静かに灰となり宙に雲散霧消した。二人を隔てていた視界は皮肉にも鮮明に冴え渡り、光景を目の当たりにした男は、表情を引き攣らせて後ずさることで胸中を代弁する。
「覚えてろ糞餓鬼……絶対に殺してやるからな」
「ここまで騒ぎにしておいて、生きて帰れるとでも思ってんのか?」
踏み出した茉白を制したのは、弥夜の突き刺すような視線だった。雪のように冷えきった視線に舌打ちをした茉白は逃げゆく男の追跡を断念する。
「ありがとう、茉白。助けられちゃったね」
「お前が護衛をしろって言ったんだろ。勝手な真似すんな」
僅かに苛立ちを含んだため息が静かに吐き出された。抱き締められていた子供は暗闇から解放されると、茉白を純粋な瞳で見上げる。
「茉白お姉ちゃん、助けてくれてありがとう」
穢れの無い笑顔に晒された茉白はバツの悪そうな顔で目を逸らした。
「別にお前の為じゃない。礼なら先に飛び出したそいつに言ってやれ」
「私がさっきの人にぶつかって怒らせてしまったの。お姉ちゃんもありがとう」
先程の戦闘で抉られた地面、倒れる電柱や原型の解らなくなった車。様々な傷跡が行われた戦闘の余情を物語っていた。
「今度からは気を付けろよ」
茉白のぶっきらぼうな発言に、弥夜は両手を振りながら慌てて取り繕う。
「あのね? お嬢ちゃん。普通の男の人はぶつかったくらいじゃ怒らないんだよ? ちゃんとごめんなさいもしていたみたいだし、お嬢ちゃんは何も間違っていないからね」
弥夜は少女の背を優しく擦りながら茉白へと視線をやる。「もっと優しい言葉で話せないの?」と言わんばかりの威圧を含んだ視線に、茉白は無意識に舌打ちをした。
「助けてくれたお礼に、これあげる」
差し出されたのは少女が抱いていた熊のぬいぐるみ。大切に扱われていたのか、少し糸のほつれたピンク色の熊は優しい表情をしている。
「はあ? ぬいぐるみなんて要ら──」
「わあ、いいの!? ありがとう!! 茉白もきっと喜んでくれるよ」
横から言葉を重ねた弥夜は「そうだよね?」と威圧を含んだ視線を向ける。無理やりに話を合わせさせられた茉白はぬいぐるみを受け取ると、扱い辛そうにじっと見つめた。
「……ありが……とう」
「うん!! 大切にしてね!! じゃあ私はお母さんのところに戻るね。勝手に出て来ちゃったから怒られるかも」
少し不安げに紡いだ少女は手を振るとその場を後にする。駆ける少女の無邪気さは戦闘の傷跡が残る街中で、場に相応しくない異彩を放っていた。