私は過去を超える
「お前か、か弱い女を虐めて満足していた下衆野郎ってのは」
「……初めて見るがそっちの銀髪は稀崎のお友達か? お前はこいつの親を知ってるか?」
煙草を捨てて火を踏み消した男は、まるで汚物を見るような視線を夜羅へと向ける。最後に吐き出された煙は雨に紛れて虚空に溶け入った。
「片腕が無かったんだろ? それがどうした? 親としての仕事は全うしていたし、うちの毒親と違って、話を聞く限りはそこらの親より立派だったぞ」
廃学校での話を思い返した茉白は無意識に自身の親と重ねる。男はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら首を横に振った。
「違う、見た目の話だよ。片腕の無い親から産まれたこいつも化け物だと思わないか?」
「お前の顔よりマシだろ。人類に男がお前しか居なくても、うちはお前より死を選ぶだろうな」
興味無さげに鼻で笑う茉白。苛立ちを露にした男は夜羅に掴み掛かり、その際に手から滑り落ちた傘が小さく地を跳ねた。
「お友達の教育がなってないんじゃないか? また暗闇に閉じ込められたいのか?」
一瞬、脈打つ。過去のトラウマが呼び起こされたのか夜羅の身体が僅かに震える。息も荒くなり、次第に身体が上下し始めた。
「悪いことをしたらごめんなさいをしろと、小学校の時に教えたよなあ? 昔みたいに這い蹲って謝れよ。皆の前で何度もさせたから覚えてるよな?」
何も言わない夜羅。未だ身体は震えており、過去を再現するようにその場に膝をつく。雨で濡れた地面に這い蹲ろうと身が屈められた。
「馬鹿が、従ってんなよ」
舌打ちをした茉白は夜羅の首根っこを掴み無理矢理に立ち上がらせると、放心する彼女を横目に男の顔面を力強く殴り付けた。
「悪いことをしたらごめんなさいだと? 笑わせんな。悪いことをしたら更なる悪いことをして揉み消すんだよ」
尻餅を付き僅かに地を滑る男。口角より流れ落ちた血は即座に拭われ、瞳には淀んだ殺意が渦巻いた。
「誰だか知らないが良い度胸だ。稀崎にこんなお友達がいたなんてな」
泥に塗れた衣服を叩き立ち上がった男は、誰かに合図するように顎を一度突き出した。瞬間、夜羅を背後から拘束するもう一人の男。華奢な首筋にはカッターナイフが突き付けられており、状況が不利になったのは一目瞭然だった。
「でも、喧嘩を売る相手は選ばないとな?」
男の血走った目が見開かれた。仲間の存在に気付かなかったのは必然。雨により足音が掻き消されていたことが仇となった。
「動いたらどうなるか解るよな? まずは一発仕返しだ」
「やってみろよ」
躊躇いなく振り抜かれた拳が顔面を捕える。茉白は壁際に積み上がった廃材に突っ込み、その際に散らばった錆びた鉄パイプや、何の部品か解らない金属片が地を叩いて鈍い音を奏でた。
「……夜葉!! 私のことはいいから反撃して下さい!!」
「お前は黙ってろよ稀崎!! 俺は今、お前のお友達と遊んでるんだ。これが終わったらお前も後で可愛がってやるよ」
廃材を押し退けた茉白が立ち上がる。男と同様口角から血を流しており、銃弾による傷口も開いたのか、応急処置で結ばれた衣服が真っ赤な色を晒していた。
「効かねえぞ糞野郎」
手の甲で血を拭った茉白が不敵に笑う。頬にこびり付いた血液を気に留める様子もなく、茉白は足元の廃材を蹴り飛ばして挑発を返した。
「ああそうかい、ならもう少し強く殴っても大丈夫そうだな!!」
顔面ではなく腹部に食い込んだ拳。茉白は嘔吐き胃液を吐き出す。間髪入れずに繰り出された蹴りは顔面を的確に捕らえた。
「何をしているのです……夜葉!!」
ふらつきながらも立ち上がる茉白は男により殴られ続ける。だが自分から手を出すことは無く、一方的な暴力が繰り広げられた。
「大事なお友達が捕まっていたら動けないよな? 殴られて痛いよな? 土下座して謝れば許してやるよ、夜葉ちゃん」
地に屈した茉白の髪の毛を掴み上げる男は至近距離で視線を合わせる。浮かぶ下卑た笑みが、勝ちを確信した胸中を言わずと物語っていた。
「ブッサイクな面してんなあ、糞男」
男の顔面に吐き掛けられた唾。眉間に皺を寄せた男は茉白を立ち上がらせると再び殴り続ける。倒れ込んだ茉白は立ち上がろうと試みるも、足が痙攣して力無く崩れ落ちた。
「夜葉……どうして……」
何故手を出さないのかと、何故私の為にそこまでするのかと、想いが溢れて涙となる。夜羅はこの状況下で、廃学校で交わした会話を思い出していた。
『家に帰ればお母さんが毎日抱き締めてくれました。学校は楽しかった? と聞いてくれました。私はいじめられていることを言わずに、毎日笑顔で楽しかったと答えました。片腕が無い人から産まれたからって、一体何が駄目なのでしょう? どうして化け物だなんて言われないといけないのでしょう? 私はどうすれば良かったのでしょう? ねえ、夜葉……教えて下さい、教えてよ、教えろ!!』
『その答えは自分で見付けろ』
『お前が歩んで来た過去に誰も口を出す資格なんて無い。胸を張って、それを笑う奴は黙らせろ』
──夜葉、私は。
『自分の脚で立つか、うちがこのまま引き上げるか選べ』
『決まっているでしょう、誰が貴女なんかに……』
──過去を超える。
男が鉄パイプを手に取り大きく振り上げた時、夜羅の感情が臨界点を超える。腹の底から身体の芯を貫いて脳内へと至った黒い感情が、迷っていた彼女自身を恍惚の海へと沈めた。
「……離せよ」
虚ろな漆黒の瞳で感情の瀬戸際を裸足で歩く。手中に脇差を具現化させた夜羅は背後の男を躊躇い無く斬り殺した。飛び散った血液が顔面に付着し、涙と入り交じって皮肉にも綺麗な色彩を晒した。
「ゴミが、夜葉に触るな」
「遅えよ稀崎、うちの殴られ損だろ」
言葉とは裏腹に口角が緩む。意識を失いかけていた茉白は半開きの目のまま、ようやく殻を破った夜羅を見据える。その目にもう迷いは無い。己の意志で過去を切り裂いた夜羅に、もはや恐れるものなど存在しなかった。
「すみません。答えを見付けるのに……少し時間が掛かりました」
目の前で仲間をやられた男は短い声を発し、夜羅の手に握られた蒼白の脇差に視線を落とす。悪意は嘘のように消え失せており、代わりに瞳の位置が定まらないほどの恐怖心に支配されていた。
「の、能力者になったのか……」
慄きながらの後退りは一切の意味を為さず。無言で振り抜かれた脇差はまるで柔らかい物を斬ったとでも言わんばかりに男の左腕を根元から落とした。
「ああああああああ゛!!」
地に落ちた、一瞬前までは自身の身体であった部位に視線が向く。切断面から止めどなく溢れる赤黒い血は、薄汚い路地裏の地面に違和感無く馴染んでいた。
「どうしたのです? 貴方が化け物だと謳った私の母親の気持ちが解りましたか? いいえ、解るはずが無い。母は片腕でも私を愛してくれました。両腕で抱き締めてあげられなくてごめんねと泣かれました。そんな母親の優しさが、貴方如き片腕の化け物に解るはずが無い」
過去の言葉をそのまま返し、力強く前へと踏み出した夜羅。灰色になった水溜まりが激しく水を散らす。水面に反射した夜羅の表情は見えないが、口元だけは歪に吊り上がっていた。
「確か貴方の教えでは、悪いことをしたらごめんなさいでしたよね? 這い蹲って謝って下さい」
一瞬戸惑った男は激痛を堪え、言われた通りに這い蹲ると頭を深く下げた。整髪剤で整えられていた金髪はぐしゃぐしゃに萎れている。
「……俺が悪かった」
「よく出来ました。顔を上げて下さい」
顔を上げた男は断末魔の叫びをあげる。駐車場で行われた男との戦闘のように、夜羅は脇差で男の両目を突き刺した。抉れた眼球を押さえて転げ回る男の胸部に、上から押さえ付けるようにして跨る。
「解りますか? これが私の見ていた闇です。掃除用具が入ったロッカー内の、とても美しい景色です。綺麗でしょう? 何故ならそこには何も無い。ただ恐怖と不安だけが渦巻く、いつ終わりが来るのかも解らない世界」
男は暴れ回ることすら赦されず激痛に身体を蝕まれ続ける。切り裂かれた腕の断面や目元から血が流れ続け、終いには水溜まりを赤黒く染めた。
「殺してくれ……もう殺してくれ……」
悲痛な懇願に応えるように脇差を振り上げた夜羅はぴたりと動きを止める。葛藤故か僅かに震える手元。無意識に何かを逡巡しているのか表情に影が落ちた。
「母はこんなことを絶対に望みません。ここで殺してしまえば、私も貴方と同類になってしまいます。貴方と同じく腐った心の持ち主になってしまいます。でもさあ……母が望まなくても、腐った心の持ち主の私が望むの」
心臓を一突き。呆気無く生を手放した男はぐったりとし、一切の機能を停止させた。それでも夜羅は止まること無く、何度も何度も想いを押し付ける。
「夜葉……これが私の答えだよ」
まるで無邪気な少女のように。数十回、数百回と突き刺される刃は肉を抉り骨を貫通し、それでもなお止まらない。肉を断つ歪な音が、雨音に包まれた路地裏に響き続けた。
「闇はどうですか? 怖いですか? 何とか言って下さいよ」
壊れた機械人形さながら同じ動作が延々と繰り返される。夜羅は涙を零しながらも手を止めることだけはせず、最早原型を留めていない男の死体を突き刺し続けた。
「ねえ、闇の中に何が見えますか? 綺麗ですか? 何とか言えよ!!」
一際大きく腕が振り上げられた際、近くに来ていた茉白が後ろから手首を掴む。そのまま目を合わせた茉白は、もうやめろと諭すように首を横に振った。
「もういいだろ」
「……離して下さい」
「お前も気付いてるだろ? 最初の一突きで死んでる。これ以上死体を抉ってどうする」
「まだ復讐は終わってませんよ」
「もう済んだだろ。これ以上は虚しいだけだ」
「……離せ!!」
瞬間、夜羅の身体より滲む殺意が視覚化する。粘り気のある蒼白の殺意が身体を縁取るように展開した。水の中で水泡が形成されたような歪な音を立てる殺意。それは新たな力の予兆。目の当たりにした茉白の本能が警鐘を鳴らす。
「目を覚ませ稀崎!!」
闇の底から呼び戻すように叫んだ茉白は手首を掴む腕に力を込める。目を見開いた夜羅に応えて乖離する殺意。歪な蠢きを見せる魔力は嘘のように雲散霧消した。
「夜葉……?」
感情の瀬戸際より意識を回帰させた夜羅は、自身の下で肉塊となった男を目の当たりにする。唐突な吐き気に襲われると同時に、茉白を押し倒すと胸元に顔を埋めた。
「すみません夜葉……私の過去のせいで貴女に傷を負わせました」
「ったく、感情なんかに飲まれてんなよ。傷のことは気にすんな。お気に入りの服を破かせた借りは返したぞ」
子供のような咽び泣き。雨に混じった温かい雫が茉白の肌へと届く。感情の箍が外れ、今まで誰にも言えなかった想いが終着点を迎えて崩れ去った。
「何故、私の為にここまでしてくれたのですか? こんなに傷だらけになってまで……」
「手を組んでいただけませんか? と、弥夜の事務所でお前が言っただろ。うちも肯定した以上、目的が果たされるまではお前はうちの相棒になるんだ。相棒の命が危ない時に黙って見過ごせるかよ」
寝転がったまま空を仰ぐ茉白の顔に雨が降り掛かる。建物の隙間から覗く空は狭く、灰色も相まってかとても窮屈に映った。
「それにタナトスと殺り合うんだ、一人で勝てる戦いじゃないだろ。お前を此処で失う訳にはいかなかった」
「夜葉……」
「あくまで目的を果たすまでだ。その後はお前と組むなんて真っ平ごめんだ」
「ありがとう……ございます」
「難しい言葉を知ってるな」
仕返しと言わんばかりに煽った茉白は背中が濡れる不快感に耐えながらも、胸元にしがみ付く夜羅が落ち着くまで体勢を維持し続けた。
「せっかく洗濯したのに台無しだろ」
「それは語弊があります。洗濯をしたのは私ですよ。なので、貴女の制服を汚すのも私の自由だということ」
「馬鹿か、暴論にもほどがあるだろ」
それからしばらくして、人目を避けつつアパートへと辿り着いた二人。以前と同じひよこのパジャマに着替えた夜羅は、緊張の糸が切れたのか大きな吐息をついた。




