私は自分の脚で立つ
「見てたのかよ」
亀裂の入った壁に腕を組んで凭れ掛かり、瞑目したまま待っていた夜羅は小さく頷く。弾丸のように窓を打ち付ける雨の音だけが静かな校舎内に反響していた。
「柊の姿である如月をよく殺せましたね。とでも言うと思いましたか? 甘いんじゃないですか? 殺すのは四肢を切り落としてからでも良かったのではないかと。いえ、それだけでは物足りませんね。右目を抉り、左目を残したまま眼前で握り潰す。それくらいしても良かったのでは?」
「精神異常者かお前は」
「私がですか? ご冗談を」
歩む度に軋む廊下には、過去に子供達が遊んだまま放置したのかボールが無造作に転がっている。茉白は割れた窓の外目掛けてボールを蹴り飛ばすも、狙いは外れて壁に当たり跳ね返った。
「下手くそ」
「お前だけには言われたくない」
明後日の方向へと飛んで行ったボールは何度もバウンドすると動きを止めた。二度目の挑戦をする気は無いようで、茉白はポケットに手を入れると小さく息を吐いた。
「楪はどうした」
「泣き止まないので殺しました」
「はあ!?」
地面には様々な色の絵の具がこびり付いたまま放置されている。踏まないように注意しながらジャンプしていた茉白は、驚きと呆れが混ざったような表情を浮かべた。
「冗談ですよ」
「……くっだらねえ」
「下らないかどうかはさておき、私の住むアパートに誘いましたが此処に残るそうです。この廃学校を家替わりにして寝ているそうですよ」
「こんなとこより、もっとマシな場所があるだろ」
「人が寄り付かない分、静かで落ち着くみたいです。此処に居ればもう戦う必要もありませんし、食料の買い出しなどを除けばほとんど出歩かないそうです」
北校舎を出た二人は篠突く雨と轟雷に遭う。靴底に絡みつくように泥濘むグラウンド。二人はその真ん中を横切り、どちらからともなく門へと歩んだ。
「稀崎、トンネルで悲鳴をあげた理由は何だ」
頭が濡れないように手を傘代わりにしていた夜羅だが、それすらも忘れるくらいの唐突な話の展開に目を丸くする。問いを投げ掛けた当の本人は至って真面目なようで、茶化す素振りは微塵も見受けられなかった。
「言ったでしょう? 一切何も見えない暗闇が苦手だと」
「トラウマだと言ってたな」
「ええ。聞きますか? 私の話」
「暇潰しに聞いてやるよ」
「それは名案ですね。過去の傷跡というものは、誰かに聞いてもらってこそ少しずつ癒えてゆく。例えそれが、何処の誰であろうとも」
雨は夜闇の中でも存在を主張し、あまりの激しさに霧までもが立ち込め始める。靴底に伝わる泥の感触のように、夜羅の胸中にはじわりと過去の情景が広がった。
「小学生の頃に私はいじめられていました。その理由は、参観日に来てくれた母親の腕が片方しか無いことでした。たかだか小学生のいじめの理由など本当に単純で、腕の無い母親から生まれた私もまた……化け物だと毎日嫌がらせを受けました」
「……よく手を出さなかったな」
「出来ませんでした。私はお母さんが大好きで、迷惑を掛けたくなかったのです。毎日のように掃除用具入れのロッカーに閉じ込められ、鍵を閉められ、そのまま一日を過ごした日もありました。先生も見て見ぬふりでした。誰も助けてはくれませんでした。恥ずかしながら、闇が怖くなったのはそのせいです」
一呼吸おいて「でもね?」と僅かに表情が緩む。
「家に帰ればお母さんが毎日抱き締めてくれました。学校は楽しかった? と聞いてくれました。私はいじめられていることを言わずに、毎日笑顔で楽しかったと答えました。片腕が無い人から産まれたからって、一体何が駄目なのでしょう? どうして化け物だなんて言われないといけないのでしょう? 私はどうすれば良かったのでしょう? ねえ、夜葉……教えて下さい、教えてよ、教えろ!!」
掠れ、上擦る声色。振り切ってしまった感情が収まり切らずに溢れ出る。知らぬ間に熱くなっていたのか、夜羅は茉白の胸元に摑み掛かった。濡れた髪が互いの表情を覆い隠して口元だけを露にしていた。
「ねえ夜葉……私は……私は……」
背を追って来た過去が牙を剥き、雨ではない雫が頬を伝う。座り込み俯く夜羅を嘲笑うように近くで落雷が起こった。訪れた瞬間的なモノクロの世界。耳を劈く轟音でさえ、今の彼女にとっては心地良く感じられた。無言で手を差し伸べる茉白。人を沢山殺して来た細く長い指が、夜羅の目にはやけに綺麗に見えた。この手を取れば救われるのかと、胸中に些細な想いが湧く。
「ありがとう……ございます……」
湿る空気を飲み込み、夜羅は自身の意志でその手を取った。力無く握った手は冷たく、雨により完全に冷えてしまっている。それでも、心を満たしてくれる安心感がそこにはあった。
「その答えは自分で見付けろ」
語気は鋭くとも宿す感情は温かい。茉白は繋いだ手に力を込めると、未だ虚ろな目をする夜羅を見下ろした。
「お前が歩んで来た過去に誰も口を出す資格なんて無い。胸を張って、それを笑う奴は黙らせろ」
弥夜に言った台詞を、茉白は敢えて夜羅にも伝えた。
「……解っています」
「自分の脚で立つか、うちがこのまま引き上げるか選べ」
言葉に感化され小さく脈打つ身体。夜羅の胸中にはもはや葛藤など存在しない。背中を追って来た過去を決意の刃で切り伏せるように、小さな唸り声が発せられた。
「決まっているでしょう、誰が貴女なんかに……」
普段通りに吐かれる毒は鎮まりゆく心の証。口角を吊り上げた茉白は何かを悟ったように鼻で笑った。
「私は自分の脚で立つ」
茉白は解っていたからこそ敢えて力を抜いた。夜羅は自分の両脚で強く地を踏み締め、歯を食い縛って立ち上がって見せた。
「稀崎、人にはそれぞれ過去がある。生きている以上は誰しもがそれを乗り越えて来た」
「そうですね……熱くなってすみません」
「……うちも、暇潰しだとか言ったことは謝る」
「おや? 珍しく萎れていますね。ずっとそのままの方が女の子らしいのでは?」
「くそが、前言撤回だ」
落ち着きを取り戻して吐息をつく夜羅。目元を覆い隠している髪より幾つもの雨粒が滴り落ちる。露出した口元は僅かに緩められていた。
「夜葉、私の住んでいるアパートへ行きましょう。タナトスへ手を出した以上、一人で行動するのは愚行です」
「お前と過ごすくらいならタナトスと殺り合う方がマシだ」
「そうですか。なら私は一人で温かいお風呂にでも浸かります。やはりこんなに濡れてしまえば風邪を引くかもしれませんし、何より寒いですからね。私の勘違いで無ければ誰かさんの手も冷たかったはずですが。温かいシャワーに温かい湯船……想像しただけで幸せな気持ちになりますね」
お風呂、という生活に必要不可欠な餌がチラつく。視線を流した茉白は自身の身体が冷え切っていることに気付き、これ以上の体温低下は危険であることを悟った。
「もう一度聞きます。私のアパートへ来ませんか? 決して広いとは言えませんが、あの事務所よりは快適な筈ですよ」
「……解った」
バツの悪そうな顔で吊り下げられた餌へと喰らい付いた毒蛇。全身びしょ濡れになり、重くなった制服と気持ちの悪い感覚が嫌に存在を主張する。「さっさとこんなとこ抜けるぞ」という茉白の提案に、二人は足早に廃学校を後にした。




