猛毒の快感
「気色が悪いのはお前の方だったな」
「可愛いでしょ? 私の最愛のペットなの」
小さな毒蟲が弥夜の背中を駆け上がり肩へと到達する。間髪入れずに首筋を登ったかと思えば、ものの数秒で頭頂部へと至り嬉しそうに大量の脚をバタつかせた。
「その害虫がか? 随分とイカれた女だな」
身体を縁取る色を失くした炎により、蓮城に纏わり付いていた全ての毒蟲が焼き払われ跡形もなく焼失。次いで、穢れたものを払うように衣服を手で叩いた。黙って見ていた弥夜は表情一つ変えずに問う。
「ねえ、特別警戒区域アリスには何があるの?」
僅かに表情を変えたのは蓮城だった。何かを見定めるような視線を弥夜へと向け、手中の大剣を肩に担ぎ上げる。
「お前……何者だ?」
「何者? お前に殺された柊 優來の姉だよ」
含み笑いをする蓮城は「そうだったか」と吐き捨てると愉しげな笑みを浮かべる。弥夜の眼光が明白な怒りを孕んで鋭さを増す。食い縛られた歯が、歯軋りの要領で不快な音を奏でた。
「あいつは色々と知り過ぎた。特別警戒区域アリスは、能力者による暴動や殺人が群を抜いて多い場所」
「そんなこと誰だって知ってるよ」
「何故暴動や殺人が群を抜いて多いか、何故還し屋に鎮圧されていないか……そこに目を付けてしまった」
「……何が言いたいの?」
視線が交わるも互いに隙は見せない。冷戦さながらの歪な空気が流れるも、そんな空気を嘲笑うように快晴の空では鳥達が声を揃えて鳴いた。
「解らないか? 鎮圧出来ないんだよ。どうせ此処で死ぬんだ、冥土の土産に教えてやる。俺達は還し屋の皮を被ってはいるが、実際はタナトスと呼ばれる組織の人間だ。そしてその本拠地は特別警戒区域アリスに存在する。計画の要と一緒にな」
「タナトス……」
昨日の夜羅の言葉を思い返す弥夜。彼女の言う通りタナトスは存在していたことを理解しつつも、未だ目的は掴めずにいた。
「柊 優來は俺達の正体に気付いてしまった。内部を探ろうと様々な手を尽くしてしまった。だから殺した」
「だから殺した……?」
「そうだ、邪魔だから消えてもらった」
刹那、弥夜の中の何かが弾ける。心は嘘をつかない。音を立てて決壊した感情という名の理性は、今の彼女にとっては些細なものだった。
「蓮城……お前は此処で殺す。この世界に生かしておく訳にはいかない蛆虫が」
付近の空気が重苦しいものへと変貌。何処からともなく現れた魔力による巨大な毒蟲が、弥夜の隣で付き従うように動きを止めた。
「おいで、嘆く者達」
満月に似た円状の三ツ目、その内部で不規則に動く真黒の瞳。毒蟲は十六本の強靭な脚を持ち、口元には鋏のような二本の牙が蠢く。無数の硬い毛に覆われた羽が大きく開いた。蜘蛛と蟷螂と蝙蝠を掛け合わせたような歪な体躯は、粘液に塗れて鈍い光沢を放つ。弥夜の背中の火傷同様、全身が焼け爛れたように赤黒く変色していた。
「うん、解るよ」
必死に何かを語り掛けているのか、棘を纏った四本の触覚がふわりふわりと宙で遊ぶ。
「蠱毒に使われ、たくさんの命を奪って……悲しかったんだよね。その中には家族も居たんだよね」
優しい囁きに応えるように毒蟲は弥夜に頬擦りをする。「えへへ」と笑顔で受け入れた彼女は、心底愛おしそうな表情で頬擦りを返した。
「殺していいよ、皮を剥いで肉を抉って内蔵を貪り啜る……好きにしていいからね。行け──毒蟲」
──ギュイイアアアアアアアアアア゛
耳を劈く咆哮をあげた毒蟲は、十六本の強靭な脚を駆使して直進する。凄まじい衝撃に、舗装された床が捲り上げられた。巻き上がる角張った瓦礫と砂塵。吐き出されたアメーバのような粘液は蓮城に降り掛かる寸前に炎により焼かれ、それ自体が囮だと言わんばかりに、巨大な体躯を以てして体当たりが行われた。巨大なトラックに衝突されたように吹き飛んだ蓮城は靴底を滑らせて後退する。口内の血を吐き出すと再び向かい来る毒蟲に大剣を薙いだ。
「化け物が……!!」
切り裂かれた脚が二本、大きな影を落として宙を舞う。地に落ちた脚は余りの重量に地面を陥没させ、かと思えば色を失くした炎に侵食されて消し炭となった。残る十四本の脚を駆使して繰り出される連撃。一本一本に鋭い鎌さながらの刃を宿した脚は、付け入る隙も無い程の激しい連撃を見せる。
「其れは……殺し尽くした者の成れの果て」
眼前の光景を冷めた目で見据える弥夜は、ぽつりと小さな独白を零した。大剣と強靭な脚による攻防により、短い金属音が幾重にも重なり木霊する。脚は徐々に切り落とされるも、身体に傷を蓄積させた蓮城は堪らず後方へと跳躍した。
「無駄だよ? 蠱毒の王は決して獲物を逃さない」
背を向け、尻尾の先端より二の腕程の太さを持つ糸を放つ毒蟲。目を見開いた蓮城は袈裟斬りで切り裂くも、糸の粘性が勝り身体へと絡み付く。翼を駆使して跳躍した毒蟲は、急降下の勢いを利用して残る脚を振り下ろした。
「嘗めるなよ……糞餓鬼が!!」
肩から腹部にかけて迸る激痛。飛び散る血飛沫、だが意識を奪うには至らない。切り裂かれた蓮城の瞳が鋭さを増し、大剣が目に追えない速さで振り抜かれる。毒蟲はその身に深い傷を負い、全ての脚を切り落とされ、弥夜の元へと羽を駆使して舞い戻った。愛おしい声で鳴く毒蟲を、両手いっぱいで抱擁する弥夜。「うん……うん……解ってる」儚い表情でそう紡いだ彼女は、小さく口を開けるとあろうことか毒蟲へと喰らい付いた。胴体を喰らい、背の翼を喰い千切り、噛み付いた眼球の液体を啜る。口から零れ落ちた肉塊や液体が、綺麗に舗装された足元を真逆の景色へと変貌させた。
「そうだよね、茉白は虫が苦手だもんね。でも今は居ないから大丈夫だよ。だから──」
蓮城の眼前で響き続けるグロテスクな咀嚼音。抉れた肉同士がぶつかるような歪な音は、肌を裏返すような痛みを伴う鳥肌を沸き立たせた。
「私がどんな姿になっても気持ち悪がられることは無い」
応えるように最期に小さく鳴いた毒蟲は、その身を以てして弥夜に全てを捧げた。体内を駆け巡り犯す猛毒。愉悦の笑みが零れ、押し寄せる快感に恍惚なる表情が浮かぶ。感情や様々な衝動が意思に反して昂り続けた。
「共食いのつもりか?」
「うん、そうだよ。美味しい美味しい、超美味しい」
振り返った弥夜と視線を合わせた蓮城。嫌に高鳴る鼓動は、危険だと鳴り続ける警鐘の代弁。弥夜の銀色の瞳は重瞳と呼ばれる現象を通り越し、人では有り得ない三つに増殖していた。左右で計六個の瞳が規則性すら無視して不規則に蠢く。特徴的な八重歯は更に発達し、まるで牙のように、不釣合いな可愛らしい口元に歪さを添えていた。そして最も目を惹く変化は、背後で不気味に揺れる尻尾。毒々しい色をした深紫の尻尾は棘を宿し、三つ又に別れた先端より液体が滴っていた。
「少し力を借りるね。大丈夫だよ? 貴女のことは未来永劫忘れない」
無邪気に紡いだ弥夜は、眼前で絶命する毒蟲の触覚を力強く引き抜いた。粘液塗れの触手が魔力に感化されて形を変えていく。その終着点は漆黒の大鎌。身長よりも遥かに高い大鎌は、深緑の血管を無数に宿しており心音に似た鼓動を刻んでいた。
「『四肢裂きの断鎌』。どう? 可愛い? 可愛いよね? 可愛いでしょ? 可愛いかな?」
「まさかお前みたいな化け物が紛れ込んでいたとはな。囚われた肉親を助けに来たそうだが、その願いが叶わないとも知らずに愚かだな」
「お前達を全部殺したらどうにかなる? なるよね? なるでしょ? なるかな?」
「自らの毒でとうとう呂律まで狂ったか。消えろ化け物、話にならん」
腕を大きく振り上げた蓮城に応え、地より色を失くした炎が沸き上がる。予兆無しに弾けた炎は灼熱を撒き散らしながら弥夜を瞬く間に飲み込んだ。だが、興味無さげに踵を返した蓮城の背が不可解に裂けて血飛沫をあげた。
「こんな炎……背中の火傷に比べたら温い」
身体を溶かした弥夜は、何の液体か解らない雫を垂らしながら追撃を試みる。水平に振り抜かれた断鎌は大剣により止められるも、背の激痛に意識を取られた蓮城が僅かに体勢を崩す。だがその際、咄嗟に突き出した手のひらより発せられた炎の爆発が弥夜の身体を容易く吹き飛ばした。激烈な衝撃に深緑の血を吐き出した弥夜は、靴底を滑らせて後退しながらも体勢を立て直す。
そして、脱皮さながら自分自身を脱ぎ捨てた。
溶けていたのは纏っていた透明の粘液であり、剥がれ落ちると同時に火傷跡が消失する。脱ぎ捨てられた粘液は水のように地に拡がった。
「ねえねえねえねえ、私のお母さんと夜羅のお兄さんは何処にいるの? いるよね? いるでしょ? いるかな?」
「とっくに死んださ」
「え……?」
思いもよらない返答に無意識な声が発せられた。
「おかしいと思わないか? 還し屋の肉親が此処に囚われているのなら、何故周りの連中全てがお前達を襲う? 解るだろ? 居ないんだよ。そんなもの初めから存在しないんだよ」
「そんな……此処に居るって聞いたのに……」
憮然。行き場を無くした感情が喉から絞り出された声を震わせる。力の籠っていた手がぶらりと垂れ下がり、地に衝突した断鎌が甲高い金属音を響かせて哭いた。
「還し屋になる際には肉親を人質として取られる。もちろんそれを不審に思う者も中には存在する。だから何処に居るのかと調べるだろう? そうすれば救いの街に行き当たるようになっているんだよ。言わば情報操作だ。お前達が持っている人質同士を殺し合わせるという情報も……此処に囚われていると刷り込む為の餌に過ぎない」
膝から崩れ落ちた弥夜は両腕をついて戦意を喪失させる。一体何の為に戦ってきたのかと、脳内に幸せだった日々がフラッシュバックする。記憶内の家族を求めているのか、虚空に伸ばされた手は皮肉にも空を切った。
「何故俺達が還し屋になった者の肉親を捕らえるか。それは忠誠を誓わせる為だ。連れ去った後は用済みだから即座に殺す。ゴミを生かしておく価値など無いだろう? 一つ良いことを教えてやる。他人の感情を簡単に支配する方法を知っているか?」
返答は無い。地面に視線を這わせている弥夜は押し黙ったまま静かに話を聞いていた。
「人だ。親しき者の命だ。人の命とは最も効力のある交渉材料となり、最も効果のある脅迫となる」
弥夜の肩が小刻みに震え始める。地面についた手や髪の先端は肉塊や粘液に塗れてしまっており深緑色に染まっていた。
「今更涙を流したところでどうなる? 心配するな、お前もすぐに母親と妹の元へ送ってやる」
「ふふ……ふふふ……」
慟哭ではなく笑っていると気付いた蓮城は目を細めた。操り人形さながら、糸に吊り上げられるように立ち上がった弥夜は無造作に転がっていた断鎌を握る。
「どうしてそんなことをしたの? 悪いことをしたらゴゴゴゴメンナサイをしなきゃいけないよ? 逝ケナイヨネ? 逝ケナイデショ? 逝ケナイカナ?」
視認出来る程に溢れ出した魔力が弥夜を護るように縁取る。蓮城が感じ取ったのは、周囲一体で突如として高鳴りを見せる魔力反応だった。
「……己の猛毒に侵されたか」
次第に形を変える魔力は先程と同じ毒蟲の形を成す。見渡す限り毒蟲に覆われた景色は地獄さながら悍ましい。全方位の包囲網。逃げ場など存在しない。
「頭蓋を砕いて眼球を噛み潰して、そこから溢れた汁を啜る。剥いだ皮でお面も作っちゃおう。匂いが残るからまずは血抜きをしないとね? あ、そうだ。それだけじゃ足りないから、無理矢理へし折った骨で枠組みを造って焚き火をしよう。そしてその焚き火でお前の肉を焼いて……焼き過ぎて焦げた肉をわざと捨てて嗤うの。でもやっぱり勿体ないから、一口だけ齧ってゴミみたいな味だと吐き捨ててあげる。血管はとっておこうね? 毒を流し込んで数日干したら、到底食べられないお菓子が出来るから。だからそれも捨てようね。ねえねえねえねえ、私のデートプランはどう? 楽しそう? タノ死ソウダヨネ? タノ死ソウデショ? タノ死ソウカナ?」
断鎌を引き摺りながら歩む弥夜。三つの瞳を宿した目は最早焦点すら合ってはいない。まるで酩酊状態の如く、右に左にと重心が定まっていなかった。
「……化け物が」
「ふふ……ふふふ……」
地面と金属が擦れる音が不気味に響く。この状況下において蓮城が取った行動は術者を叩くことであり、距離を埋めると同時に振り下ろされた大剣が無防備な弥夜の胴体を容易く斬り裂いた。
「──ッ!!」
声にならない声。大きく傾いた身体は重力に逆らうこと無く倒れゆく。辺りの毒蟲は全て消失し、皮肉にも理想郷たる正常な景色が回帰した。
「まし……ろ……ゆ……ら……ごめ……ね……」
息の根を止めんと追撃を試みる蓮城。だが、第三者の来訪により振り上げられた大剣が動きを止める。
「待て蓮城、殺すな」
姿を見せた東雲は煙草を燻らせがら吐き捨てる。周囲には弥夜が切り裂かれた際の深緑色をした血液が飛び散っており、不快な表情を浮かべる東雲は一滴たりとも踏まぬよう心掛けた。
「東雲様、此奴等は知り過ぎました。計画の邪魔になるかもしれません」
「柊 弥夜を餌にして夜葉 茉白と稀崎 夜羅を殺す。我々ではなく、国民達の手によって裁かせる」
「……了解」
薄れゆく意識の中、交わされる会話が弥夜の耳に届く。二人の元へは行かせないと歯が食い縛られるも、身体が言うことを聞くはずもなく無情にも意識は手放された。




