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千々に砕けていく思考の中で、冥泉は自分に泣きながらついてくる幼い弟を思い出していた。小さく、気弱な小僧であった弟の姿を。
なぜだ。なぜ俺よりも遅く入山し、つらい修行にはすぐ音を上げていた弟が、俺よりも先に悟りに至ったのだ。ちくしょう、どうして、どうしてだ。なぜ俺はいまだに大悟の境地になぜ辿り着けないんだ。
若き冥泉は修行をしていた禅寺を出奔すると、御山に入り、廃寺を冥恩寺と名付けて棲み始めた。そこで、これまで以上の荒行に挑み続けた。血反吐を吐き、飢えと渇きに耐えながら、過酷な修行に没頭した。苦痛の先に至れる境地があると信じた。
それでも悟りは得られなかった。怒りの焔が身と心を焼いた。黒い狂気が、冥泉の心を蝕んでいた。気がついたときには仏像の首を落としていた。もはや御仏を信じることができなくなっていた。本堂の床に仰向けに倒れ伏していた。老いた肉体は、とっくに限界を超えていた。もう歩くこともできなくなるほど衰弱していた。
……俺は、このまま無為に死んでいくのか。
死の直前、否、もう肉体は死を迎えていたのかもしれない。
冥泉は混濁していく意識の闇の中で、
――人の身で、悟りに至れないのならば――
女の声を、聞いた。
蛇柄の着物をまとった女だった。死にかけていた冥泉のかたわらに、いつのまにか現れて正座をしていた。御山には結界を敷き、誰も入ってこられないはずなのに。
――人を捨ててしまえばいいのですよ、冥泉殿――
虫食みの秘伝書をそっと冥泉の手に握らせながら、蛇の女は言った。
――ああ、そうか。なんて簡単なことだったんだ。
震える手で秘伝書を開いた冥泉を見て、蛇の女は嗤っていたような気がする。
冥泉には、もうそんなことはどうでもよかった。彼は彼にとっての領解を得ていた。女は、現れたときと同じように、いつのまにか姿を消していた。
冥泉は死にかけた躰で、百足のように這いながら秘伝書の通りに虫を集め蠱毒を作り上げて。
――そうして、虫を、呑んだ。
冥泉の首が落ちた。
ことりと小さな音を立てて地面に落ちる。
彼の視線の先には、かつて自分が砕いた仏像の頭が転がっていた。
仏僧と御仏が向かい合う。仏の首は、砕かれてもなお、慈愛の微笑みを浮かべていた。
冥泉はその笑みをじっと見ていたが、やがてすべてを諦めたような苦々しい表情を浮かべて砂のように砕け散った。
仏僧の骸は、冷たい秋の風に流されて山に消えていった。
美夜は、その様子を寂しそうにずっと見つめ続けていた。
「……馬鹿だよ本当に。そんな虫を埋め込まなくたって、他に至れる境地だって、いくらでもあったろうに」
ふぅ、と長くため息をつくと、美夜は立ち上がり、オーレンの方を向いた。
「おつかれオーレンちゃん。助かったよ……あれ?」
美夜は目をこすった。ぼんやりと立っているオーレンの姿が一瞬揺らいで見えた。
「……オーレンちゃん、いま二人になってなかった?」
「……気のせいじゃないですか」
棒読みだった。オーレン自身、なんとなく期待していたが、案の定、美夜はオーレンの言うことを疑うことなく信じた。
「そうか気のせいか……ってオーレンちゃん腕! 左腕ないじゃん! どこに落としてきたのよあんた!」
「ええと冥泉さんに投げつけたのは覚えてるんですが……あ、確か冥泉さんが引き抜いてどこかに放り投げてましたね。爆風で吹っ飛んじゃったかな」
「吹っ飛んじゃったってあなたね……死んでるからって肉体を粗末にしちゃ駄目だよ……」
美夜はあきれた。しばらく、二人でオーレンの腕を探すことになった。
オーレンの左腕はすこし離れたところに生えていた楓の木の枝にひっかかっていた。爆風でとんでもない距離にまで飛んでいた。谷底に落ちなくてよかったとオーレンは胸をなで下ろした。
「焦げてなくてよかったわね。はいどうぞ」
串焼きを手渡したときのような気軽さで美夜は左腕をオーレンに差し出した。当然、オーレンは右手で受け取る。
「ああ、よかった……これで道士さまに余計な手間をとらせなくてすみます……あの、美夜ちゃん、ソーイングセットって持ってますか」
「持ってるけど、なんでいまのこの流れで裁縫道具が会話にでてくるわけ――あ」
美夜はオーレンがなにをしようとしているのか気づいてしまった。正確には、美夜になにをさせようとしているのか、が。
「ねえ、オーレンちゃん、まさか、考えたくないんだけど、まさか……」
「あ、ご想像の通りだと思います。あの、大変申し訳ないんですが」
オーレンは困り顔のまま曖昧に笑って美夜に言った。
「私の腕、縫ってくっつけてください」




