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闇の中に怪物が立っていた。
ゆらりと前に伸ばされた腕。その爪はひどく禍々しい。
硬直した体躯は微動だにせず、不気味な姿勢を保っていた。
霊符を貼られた顔からその表情を伺い知ることはできない。
札の隙間から双眼が妖しく輝く。おぞましく深い緑色の光。
伝説に語られるはずのない殭屍がそこにいた。
虫食みの仏僧が吼え、百足を振り下ろす。同時に殭屍は跳躍した。彼女は空中で姿勢を反転させ、天井に「着地」する。本堂の天板がばきりと音を立てて歪み木屑が散った。オーレンは天井から飛び跳ねると冥泉に向かって突っ込んだ。技術もなにもない、ただの体当たりだ。その細い体躯をぶち当てる。冥泉が盾にした百足ごとのけぞる衝撃だった。
冥泉が姿勢を崩すのをオーレンは見逃さなかった。
そのまま懐に入ると硬直した両腕を横薙ぎに振る。冥泉が再び百足をかざして受けた。
一撃目、受け止めた。
二撃目、よろめいた。
三撃目、――膝を、ついた。
オーレンは無茶苦茶に両腕を振り回していた。子供が暴れているようなものだ。そこには、なんの戦闘技術も武術的な工夫もない。しかし、その一撃一撃が凄まじく重い。太い鉄棒でぶん殴られているような衝撃だった。冥泉を守る百足の頑丈な甲皮にヒビが入る。腕を振り回すのに飽きたのか、オーレンは冥泉から離れて大きくバックステップを踏む。そのまま壁に着地すると反動をつけてふたたび冥泉に向かって飛びかかった。
受けるのはまずい。冥泉は放たれた矢のように一直線に飛来するオーレンをかろうじて避ける。
灼けるような痛みが走った。冥泉の生身の脇腹に幾筋も裂傷ができていた。すれ違う一瞬、彼女の長い爪で裂かれたのだ。
オーレンは飛んだ勢いを殺すことができず、そのまま首のない仏像に激突した。首のない仏像の胴体が砕け散る。オーレンは咆哮しながら起き上がり、砕けた仏像のかけらを振り払って跳躍した。先ほどよりも飛ぶ速度が上がっていた。
床、壁、天井、本堂のあらゆる場所を飛び跳ねながら、オーレンは冥泉を鋭い爪で斬り裂いていく。冥泉の僧衣が血に染まり、血しぶきがあふれて本堂の床を赤く染めていく。
冥泉は暴れまわるオーレンを、百足の腹で受け止めた。甲皮とは違う柔らかな肉をオーレンはたやすく切り裂く。その感触が楽しいのか、オーレンは口元に笑みを浮かべながら、喜々として百足の腹に爪をつきたてて肉をえぐり取る。痛苦で百足が身をよじらせた。毒々しい緑色の体液が傷口から噴き出し、オーレンの体を汚す。
それこそが、冥泉の狙いだった。
「――――うっとうしい、羽虫が!」
冥泉は百足を素早く這わせてオーレンの胴体に巻きつかせると思い切り締め上げた。オーレンの上半身から骨の砕ける音がいくつも響いた。肋骨が軒並みへし折れたのだ。
オーレンは叫び声を上げながら自身を縛り上げる百足を爪でひっかいていた。冥泉は百足に命じてさらに力を込める。オーレンの体躯が軋む。叫び声が小さくなっていき、抵抗する力が抜けていった。やがて彼女はぐったりと両腕を垂らすと抵抗をやめた。ようやくおとなしくなったオーレンを見て冥泉が嘆息する。
その瞬間だった。
冥泉の胸に凄まじい痛みと衝撃が走る。ごぽり、と口から血があふれ出た。冥泉は胸元を見下ろすと驚愕した。
胸に人間の腕が刺さっていた。女の細い腕だった。
冥泉は、百足に縛られたオーレンを見る。
あるべきはずの部位が、彼女には無かった。
オーレンは自分の左腕を引き千切って、槍のように冥泉に投げつけたのだ。
ケタケタケタ、と隻腕のキョンシーの怪笑が本堂に響き渡る。まるで冥泉を嘲笑うように。
「――化け物め……!」
冥泉は自身の異形を棚に上げて、オーレンに向かって吐き捨てた。百足自体の肉や体節が砕けるのもかまわず、目の前の怪異の体躯を全力で締め上げる。
ばきり、と凄まじい音が堂内に響き渡った。オーレンの背骨がへし折れた音だった。がふ、とオーレンが吐血した。
オーレンの額からはらりと札が取れた。札は地面に落ちると、青黒い瘴気のようなものをまき散らしながら、やがて消えた。
冥泉は百足の拘束を解く。オーレンの体がどさりと地面に落ちた。胸に突き刺さっていた腕を引き抜く。細身の女の腕だった。こんな小娘に、ここまで追い詰められたのが冥泉には信じられなかった。冥泉は女の腕を背後に放り投げた。
うー、とオーレンが小さくうなる。まだ動くのか。冥泉が戦慄する。しかし、オーレンはもぞもぞと仰向けで動くだけで起き上がることはできないようだ。うっすらと開かれている両目は漆黒から元の色に戻っていた。淡い鳶色の瞳がぼんやりとあたりを見ている。あの札の魔力が消えて、正気に戻ったらしい。
冥泉は倒れ伏すオーレンに近づいた。またあの妙な霊符を貼って暴れられたら厄介だ。首を刎ねれば死ぬだろうか。それでもまだ身体が起き上がってきそうだ。火にくべて燃やし尽くすべきか。
「いや――――その不壊なる躰、興味深い。その不死性、道教の由縁か……」
ぐい、とオーレンの首をつかみ、持ち上げる。やはり首を断とう。頭部は適当な檻にでも突っ込んでおいて身体の方は焼いてしまえばいい。
オーレンの顔を見て、冥泉がいぶかしむ。
彼女は、薄く微笑んでいた。
「――なにが可笑しい、大陸の屍鬼……」
「嬉しいから、笑ってるんです」
オーレンが弱々しく答える。冥泉には訳がわからなかった。全身の骨を砕かれ、いまにも首を落とされそうなこの状況の、なにが嬉しいのか。
「……命令されたんです。時間を稼いでくれと」
オーレンがつぶやいた。
「命令をこなせたのが、私にはなによりも嬉しかったんです。 ――私は、誰かの命令がなければ動けない偶人ですから」
「何を――何を言っている……?」
この殭屍は、死に際に錯乱しているのだろうか。それにしては妙に穏やかな顔をしている。
「美夜ちゃん、時間稼ぎ、これくらいでよかったでしょうか?」
オーレンの小さなつぶやきは冥泉に向けたものではない。
背後でなにか重いものを地面に叩きつける音が響いた。
焦げた臭いと耐え難い熱気を感じて、冥泉は振り返る。
「上出来」
燃える鉄鎚を肩に担いだ女子高生が、そこには立っていた。
聖油と火薬装填、炉心点火、機構の格納、すべての工程をすませた爆発鉄鎚がうなりを上げている。痺れ毒は、美夜の身体からすっかり抜けていた。
「な――――」
なんだそれは、と冥泉が問う前に、美夜はその赤銅色に燃えた爆発鉄鎚を僧侶の腹にめがけて打ち付けた。同時に持ち手に仕込まれたトリガーをガチリ、と音を立てて引く。
オーレンはすでに耳をふさぎ、口を大きく開けて伏せていた。
今度は間に合った。
凄まじい轟音と閃光が、爆発鉄槌の先端から放たれる。
冥恩寺が、大爆発した。




