第一章(3)
不安で眠れぬ夜を過ごした、その翌朝。父母達への挨拶を済ませたソヒョンが向かったのは、彼女の暮らす淑晏堂から少し離れた位置に鎮座する惇慶堂だった。
道すがら、横切った書庫……一夜にして大部分が焼け落ち、黒く染まった柱が残った、その書庫が、昨夜の出来事が夢でなかったことを嫌という程に物語る。華やかだった宮廷の雰囲気も、黒い靄がかかってしまったかのように、どんよりと沈みきっているように思えた。
「王女様」
惇慶堂の向宮が、ソヒョンの姿を目に写し、小走りで駆け寄る。
「連絡も入れずにすまぬ」
「とんでもございません」
深々と頭を下げると、中にいるであろう光陽君に、ソヒョンが来た旨を伝えようとする徐向宮を止める。今回は、光陽君を呼ぶ必要はないのだ。
「今日は、そなたに用があるのだ、徐向宮」
*
「――光陽君様の護衛を強化、ですか?」
徐向宮が、不思議そうな表情を浮かべる。一体なぜ急に、とでも言いたそうな顔だ。
「そうだ。先日の火事の件のように、何が起こるかが分からないのが世の中というもの。光陽君に、災いが振りかからぬよう、護衛を今一度見直してほしい」
光陽君――李 勉。今年五つになったソヒョンの義弟である。彼はソヒョン達三人と違い、側室の子であり、同じ王族といえども、その身分の差は歴然としている……しかしそれは、あくまで政権を巡って争う重臣達にとってであり、ソヒョンは、宮廷でも噂になる程の仲の良い兄弟だと自負している。
そんな光陽君もまた、此度の件において、身の安全が危ぶまれるやもしれない者の一人。この命令は、謀反の可能性は伏せつつ、幼い弟を危険から守る方法を……という思考の末だ。
「王女様。おいででしたか」
承知致しました、と徐向宮が頭を下げると同時に、凛とした声が耳に届く。声のする方を見れば、棗紅の唐衣がよく似合う美しい女性が、優しげな笑顔を浮かべていた。
「玲嬪様」
「徐向宮に御用とは……お珍しいですね。どうなさいました?」
後宮の中でも、最高位である正一品の位を持つ彼女、玲嬪は、光陽君の実母であり、美しい美貌と心優しい人格を兼ね備えた女性であった。
広い宮殿で、彼女達側室が暮らす後宮と、ソヒョンの暮らす淑晏堂とはかなりの距離があることもあり、顔を合わせる機会は多くないので、深い交流はないものの、彼女に関する噂は良い噂ばかりであり、ソヒョンが憧れる女性像の具現化と言えるような女性である。
「先日の火事の件がありましたから……万一にも、幼い光陽君が不慮の事故に合わぬよう、護衛を見直すよう命じました」
「左様でしたか。光陽君のことまで気遣って下さり、なんとお礼を言えばよいのか……」
大切な弟ですから、というソヒョンの言葉に、玲嬪は顔を綻ばせて礼を言った。