第一章(1)
「ダヒ! ダヒ! どこだい、ダヒ!」
通りの真ん中で、大きな声を出して人を探す女がいる。風貌からして、ダヒという娘を探す母親のようだ。周りにはちらほらと人が集まっているが、母親に声を掛ける者は誰一人としていない。
「あの、すみません、どこかで女の子を、七歳の女の子をお見かけしませんでしたでしょうか……!?」
「な……ッ、無礼な!」
母親が、近くにいた両班の子女の衣の裾を掴んだかと思えば、バチン、とすぐに叩かれ、引き離される。地面に叩きつけられた母親を蔑みを湛えた視線で見下ろした娘は、溜息を吐いて後ろに立つ友と思しき娘達と共に悪態をついた。
「全く、賤民如きが道を塞ぐだなんて」
「横を通ろうにも、衣が汚れてしまうわ」
両班が社会を支配し、賤民は人としての扱いすら受けられない――それが身分というものである。両班はもちろん、母親と同じ賤民であろうと、彼女を助けようとする者はいない。口を挟もうとするならば、自分に矢先が向くからだ。
ソヒョンは、口を閉ざす人々の輪の間を静かに歩いた。地面に座り込む母親の傍に辿り着けば、屈んで彼女に手を差し出す。
「お立ちを」
予期せぬ出来事に、周りの民がざわめく。愚かにも賤民を助ける者が現れ――そればかりか、その者の装いは明らかに両班のものであるから故だろう。ソヒョンは、目を見開き固まる母親の手をとり、ゆっくり腰をあげた。
「あ……貴方は一体……何故……」
「ダヒという娘を探すのを、私がお手伝いします」
呆然。周りの民だけでなく当事者である母親までもが、あまりの驚きに口を閉ざし、まるでそこだけ時間が止まっているかのようにシンと静まり返る。
「王女様、王女様……!」
一体何をなさるおつもりですか……ドタバタと慌てて駆け寄った鄭向宮―ソヒョンお付の向宮である―が小声で嘆く。ソヒョンはすっかり困り顔の鄭向宮に笑顔を向けた。
「さあ、ダヒを探そう」
――都、漢陽。国の中心であり、民の生活の場。時に魚の生臭い匂いが漂い、人々が汗を流しながら仕事をこなす――そんな都がソヒョンの好きな場所であった。それ故、彼女の父である王に頼み込み、自由に都に出るお許しを得ており(最も、連絡は必要だが)、こうして都を散策することもしばしばである。
「全く、もう噂になっていますよ」
隣を歩く鄭向宮が呆れ顔で溜息を吐く。どうやら先程の件のことらしい。
「悪いことはしていないわ」
「そうですけれど…」
もう日が落ちそうね、急いで帰らねば――赤々とした夕陽を見たソヒョンと鄭向宮が、宮殿へ向かう足を早めたその時、すれ違った二人の女人の話し声が耳に飛び込んだ。
「――宮殿で火事だそうよ――」
「――中に世子様と寧彦大君様がいらっしゃったとか――」
ピタリ。足が止まった。
「あ、あの!」
隣を通り過ぎようとした二人を呼び止める。
「今、話していた……」
「ああ、宮殿で火事があったそうよ。それも中に、世子様と寧彦大君様がいらして、今、沢山の人が火消しに……」
ソヒョンは頭の中が真っ白になった。唇がわなわなと震え、足が地面に生えたかのように動かなくなる。
「お、王女様、きっと何かの間違いで――」
「――ッ!」
鄭向宮の言葉を聞き終えずに、ソヒョンは突として走り出した。
*
昌徳宮の門を潜れば、成程確かに遠くに赤い炎の光が見え、その上を黒い煙が天高くまで上がっている。そのような状景を目にするのが初めてなソヒョンにとって、それは煙というより黒い雲のように見えた。
聞いたとおり、民や武官が火消しを行っているらしく、煙の方と何処かを忙しなく行き来している人が多く目に映る。
日が沈み、暗くなった空を炎の明かりが照らし、その下を大勢の人が走る様子は、余りに非現実的で、まるで夢を見ているかのように感じさせた。
「待って」
急ぎ足で煙の上る方へ向かう一人の武官を呼び止める。振り向いた武官は、ソヒョンの顔を知っていたようで、唐衣を着ていない彼女に深々と頭を下げた。
「火はなぜ消えない?」
「火の勢いが強く、火消しが間に合わないのです。それどころか、近くに行くこともままなりません。危険ですから、王女様は決して近付かれないでください」
――――ガツン、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走る。火の勢いが強い?火消しが間に合わない?近くに行くこともできない?
……なら、兄上と、寧彦大君は?
最悪の事態が頭に過ぎり、ふらり、目眩がした。気持ちが悪い。
「……ッ」
ガクン、視界が揺れたかと思えば、世界が暗闇に包まれていく。
ソヒョンがその場に倒れ込んだ時、すでに意識は手放されており、鄭向宮が呼びかける声は彼女の耳には届いていなかった。