西へ -1-
西へ
-1-
スパンはぼんやりと窓の外の赤い砂を眺めている。
赤い砂は少しずつ、この町も覆っていこうとしている。日毎に白茶けた砂に、赤い砂が混じる度合いが増えていく、スパンの家の窓からみえるサマーズの海岸があったあたりは、すでに真っ赤に染まっている。海岸に抜ける公園の立木は随分と消えてしまったが、数えるくらいは枯れ木として立っている。
スパンは心の中で『がんばれ』とつぶやく。それは、自分に掛けている言葉かもしれなかった。頑張っても結果はでない。頑張る意味もない。分かってはいても、それしかおもいつく言葉はない。
ボロボロになった市場や露天のテントや柱。
ついこの前までは水と緑に溢れ、人々の笑いと、子供のはしゃぎ声と、鳥の鳴き声や、風の…やさしい風の吹く音に、溢れていた。
そんな、つい昨日のことのような、それでいて遠い、はるかな昔のことを思いだした。スパンはこのまま砂に埋もれてしまってもいいかなと思う。
-そしたら、コニータのそばにいけるかな-
コニータが砂になって、2つ季節が移り変わった。
スパンはすっかり生きる気力を失い、かといって死ぬ気力もなく、ただ、ただ、コニータと過ごした優しい時間を思っていた。
変わらない日々、変わらない時間、変わらない毎日。
どんな事柄も、変わらないものなんて、ない。
時間が流れるように、水が流れるように、ひとつとして同じところに、とどまることが出来ないということに気づかなかった。
同じように人も、心も、自分を取り巻く全てのものが変化し、流れていく。それは自然なことだったのに…。万が一、気がついたとしても認めたくはなかっただろう。
自分の掌なかにある、ささやかで、優しい時間が、移り変わるものだとは、形をかえながらながれ、消えて行く。そんなことは信じたくない。
人は、弱く、脆く、そして強い。
“…コニータ、僕は…一人で生きるのはつらいよ。”
コニータの言葉が脳裏によみがえる。
「生きてて。最後の最後まであなたは、生きて」
涙が出た。乾燥し干からびても、目じりにじわりと涙が出た。スパンはその涙を人差し指ですくった。そして、舐めた。
“しょっぱい”
スパンは無性に泣けてきた。もう涙はでない。だけど、泣けて、泣けてしょうがなかった。頭を抱え、肩を震わせ泣いた。どれくらいの時間がたったのだろう。ふと気がつくとイブがやさしくスパンの背をさすっていた。
「コニータのこと、思い出したのね。馬鹿ね」
スパンはただ、イブの暖かい胸の鼓動にコニータの面影を重ねていた。
「ほんと、大馬鹿」
イブはやさしく、スパンにささやきかけた。彼女も泣いているのかもしれなかった。
誰を思って。何を思って。人はみな何かを背負っている。このときのスパンはまだ気がついていなかった。ずいぶんと、長い時間そうしていた。夕闇の中、炎のような真っ赤な夕焼けで空も、地も真っ赤に染まっている。
夕焼けの赤さは室内の壁も、床も、家具も、スパンもイブも真っ赤に染め上げている。その赤い風景を見ていて、スパンがふいに言った。
「あのさ」
「なに?」
「ばかばかしいって笑うかな?」
「あはは。はい。笑ったわよ」
「いや、そうじゃなくて。」
「判ってるわよ。なに?」
イブの目はいたずらっぽく笑う。いつもこの調子だった。変わった女だ。
「この町もあと数日もすれば砂に埋もれてしまうかもしれない。」
「埋もれないかもしれない。」
スパンは苦笑する。イブはいつもスパンの反対を言う。それは一種の彼女特有のコミュニケーションだ。
「町を出ようか」
返事の代わりに、イブが小さく息を吸い込むのが聴こえた。
「きみやヨダが旅たったときのように、今度は僕と旅立たないか。」
「どこ、へ?」
「西…」
「西…」
イブは遠い目をした。
「イブも西に向かって歩いてきたんだろう。」
イブは黙っている。
「西に、なにがあるかはわからない。このままここでこうしているよりは、ずっと、ましな気がする。ここで、めそめそしていても辛くなるだけだ。」
沈黙
「ここより遠い、何処か…?」
「そうだ。ここより遠い何処か、さ」
「隣のエヴァが…ね」
「エヴァ…?」
「エヴァが、その、なんというか。信じられないことなんだけど…こんなときにって思うかもしれないけど。私たちの体はもうボロボロで、いつ死んでも可笑しくないし、元気なころだったら、誰にでも可能性のあることで、…そんなことを当たり前だと思ってた。いまは、当たり前じゃないことが、当たり前で、世界は変わってしまったし。だから?そう。だから。でもせっかくの命だもの、可能性があるなら、その可能性に掛けたい。奇跡だというなら、その奇跡を信じたい。」
イブは一気にしゃべると、肩で息をしている。スパンには、イブが何が言いたいのか、話の内容が読めずに、とまどっている。
「エヴァが、妊娠したの」
イブは、顔を火照らせ、目がきらきらしている。スパンの脳は無意識にその言葉を拒否していた。
「まだ、健康なのよ。その、どういっていいかわからないけど、妊娠したってことは、私たちはまだ生きてる。生きているから奇跡が、そう、奇跡よ。それが起きたの。嬉しい。ね、そうでしょ?未来なんてないし、絶望しかないし。めちゃくちゃだけど、そうよ。そうなの。でもね、なんかわかんないけど、とっても嬉しいの。」
少しずつ、スパンの脳に「妊娠」の言葉が染みとおってきた。顔を赤らめ、興奮気味に話すイブ。ふいに、スパンはコニータを思い出した。
“そうだ。こんな表情コニータもしていた。”
あれは何時だった…スパンは、また、コニータとのことを思い出していた。
コニータとスパンが結婚して、1年ぐらいたったときだった。スパンは今じゃ記憶がぼんやりしていて細かいところは思い出せないでいる。ただ、コニータが赤い顔して、鼻の頭にうっすらと汗をかきながら一生懸命話していた。
「あのね、あのね、赤ちゃんがね、できたみたい。お腹が張った感じがしてるの。それから、熱もちょっとあるみたいだし。胃が重たくて、吐き気がするの。そ、それとね、夢をみたの。スパン。あなたが赤ちゃんを抱いてるの。空も地面も真っ赤で、その中にあなたが今生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて立ってるの。笑いながら、涙を流していたわ。私の夢って結構当たるのよ。絶対できてると思うの。スパン、あなたパパよ。」
スパンは、嬉しくて嬉しくて、思わずコニータを抱き上げていた。
それから、2人で病院にいった。2人で興奮して、意気揚揚と。
「想像妊娠ですね。」
一言医者がいった。
“想像…なんだそりゃ?”
スパンは唖然とした。医師は、2人の顔をみて言った。
「よくあるんですよ。赤ちゃんが欲しいと強く思うことで、体が勝手に妊娠するんですね。でも、子宮には赤ちゃんはいない。特に結婚して、1年から3年ぐらいはそうなりやすいんです。いやーじつに人間の体は不思議です。」
医者は関心したようにうなづいている。スパンはどんなふうなリアクションをしようか真剣に考えていた。コニータを傷つけず、安心させることが出来るような。残念ながらスパンにはなにも思いつかなかった。
「えー、そうなの?!」
コニータの明るい声がする。スパンは予想以上に明るいコニータの声に安心するとともに驚きもした。コニータを見ると、うっすらと目に泪をうかべているが努めて明るくしゃべる。
「そんなんだ。あーあ。せっかくできたと思って喜んだのに。なんか損した気分。ねぇ。スパン。そうおもわな…」
あとは、涙で言葉にならなかった。スパンはコニータの無理に明るく振舞おうとする気持ちにふれた。スパンは少し恥ずかしくなった。コニータを慰める言葉や、思いやる行動をとるまえに、コニータの明るい声を聞いて、ほっとした自分がいた。スパンはそっと彼女を抱きしめた。彼女がたまらなく愛おしかった。
「想像妊娠をするということは、体がいつでも妊娠できますよって教えてくれてるんですね。だから、きっと近いうちに本当のおめでたになりますよ。だから、体は大切にしておいてくださいね。」
慰めかもしれない医者がいった言葉に、スパンたちは感謝した。
イブが頬を紅いろに染めて、エヴァの妊娠を喜んでいる。スパンはそんなイブを可愛いと思う。
「ねえ、エヴァの妊娠はトーイは知ってるの。」
トーイとは子どもの頃から2人でよく遊んだ。スパンがコニータを紹介したとき、トーイはらしくないほど焦ってた。スパンの幼馴染、大切な親友。エヴァの恋人。
コニータが最後の時もスパンの側にいてくれた。
イブが眉間にちょっとしわを寄せて言った。
「まだ、話してないの。2人でどう切りだそうか相談しているんだけど。苦しませるのじゃないか心配で…」
「そっか。そうだね。こんな世界じゃなかったらトーイもきっととても喜ぶんだろうなぁ。」
その続きの言葉をスパンは飲み込んだ。新しい命が生まれる。なにもなくなろうとする世界に、新しく生まれてくる。心の中に、ぽっと黄色花が咲いたような気分。が、半面、それが自分の子供だったらどうなのだろう。希望をみつけられずに、絶望しか子供に与えられないとしたら…そう考えると心に咲いた花がしぼんでいくような気がした。
「エヴァも私もどうしたらいいのか…トーイはきっと苦しむわ」
「もし自分が…自分の子供だったらって考えたら、手放しには喜べない。」
イブは小さくため息をついた。
「大丈夫だよ。トーイなら。」
「え?」
「トーイはね、大きな器をもっているんだよ。世界がすっぽり入り込むほどのね。あいつならどんな困難も受止め、また向かっていくよ。決して嘆いたり、あきらめたりしない。トーイは鋼のように強いのさ。」
そう、トーイなら大丈夫だ。それは、ただの思い付きとかではなく、スパンの知る限りトーイは、どんな難問でも、苦境のときでもそれを受け止め、乗り越える強さを持っていた。
『僕なら…もしも僕だっら…』とスパンは考えた。『自分は、トーイのように受止めたりはできないだろう。愛する人が、こんな状況の中で妊娠したら、嬉しいという気持ち以上に、悲痛な思いにとらわれるだろう。それ以上の…』
そこまで考えたが、スパンには、それ以上の想像力は働かせる気になれなかった。
「スパン聞いて。いまあなたが西へ行こうといったでしょ。だから私思ったの。私もあなたについて西へ行く。エヴァも一緒に。少しは望みがあるかも知れないし、もし望みがないとしても、ここでじっとしているよりはいいと思うの。あとどれだけの命か解らない。けど、何もしないで、ただ、じっと死を受け入れるのは、絶対に嫌!」
そういって、イブは強くかぶりを振った。スパンはイブを強く抱きしめた。ただ、彼女の強さがたまらなくうらやましく、また愛しいと思った。コニータの強さとは違う、強さだった。
今、目の前に“死”がある。
死神がその右手には紅い水晶球を。その左手には蒼い水晶球を、我々の前に突き出している。その汚れた笑顔は“さあ、どちらの死を選ぶのだ?”と問いかけているようだ。
静かに死を受け入れ、これが運命だと、自分の辿る道だとあきらめ、受け入れることでしか方法が見出せず、せめて表面だけでも穏やかに、静かに死を受け入れる。
それもあり。
消えゆくぎりぎりの瞬間まで生を求める。命を求める。あがいて、あがいて、あがき尽くし、目から血の涙を流すほどの苦痛があったとしても、その命の灯が消える瞬間まで、生きる方法を求め、生き残る希望を捨てない。
それもあり。
死神がその二つの玉をスパンに突き出し、“さあ、選べ”と選択を迫っている。
この地に残り、静に死が訪れるのを待つか、それとも、闇雲に旅たち、その果てにはなにがあるのかわからないが、一縷の希望、奇跡に、命のすべてを託すか。
スパンは心の中をさまよった。そこにはたったひとつの後悔があった。あきらめ、絶望してしまった自分が、コニータの死を早めてしまったのではないか、という思いが。
なぜ、あきらめてしまったのだろう。
なぜ、希望を持ち続けることをしなかったのだろう。
あきらめずに、あがいて、あがいて、あがいて…何故、あがくのをやめたのか。奇跡を望むのをあきらめたのは…何故だろう。
コニータの死を、スパンはただなにもせず、あきらめの中で見守り、そして見送った。もしあの時、備蓄庫を襲ってでもコニータにたっぷり水を飲ませていたら。もしあの時、ここに留まらずにイブのように西へ向かっていたら…と
スパンと結婚せずに、違う男、もっと行動力のある別の男と結婚していたら…コニータはまだ生きていたかもしれない。今もどこかで笑っていたかもしれない。
もしも…
もしも…あの時と、後悔は延々と続いていく。
“コニータは、もう、どこにもいないのに”