西へ -5-
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マーリス山は随分近づいてきたが、予定より数日がかかりそうだった。それほど彼らの歩みは遅く、思うようにたどり着くことができなかった。夜も歩き続ければ早くマーリス山に到着するはずだが、疲労と体力の消耗は思った以上に大きかった。また、イブの身体も気がかりだ。
ただ、日数がかかれば重い荷物は軽くなり、歩くのは少し楽になる。何度も、何度も荷物を捨てたいと思い、実際に荷物が減って、軽くなると今度は食料や水がなくなったらどうしようと、不安になってしまう。
四人で寄り添って、残り少ない缶詰の中から、ミックスフルーツを1つ開けた。柔らかい果肉と、甘酸っぱいシロップが疲れ果てた身体と心を癒していった。クッキーをエヴァが差し出したが、誰も手にとろうとはしなかった。
エヴァは「そうよね」と誰にも聞こえないような小さな声で呟くと、毛布に包まって身体を丸めて眠ってしまった。それに寄り添うようにイブも横になった。二人はじきに寝息を立てた。
トーイが目で合図を送ってきた。
スパンとトーイは彼女たちが目を覚まさないようそっとその場を離れた。すでに宇宙には満点の星が広がり、空以外は、真っ黒な闇だった。。
「スパン。さっきのことだけど。夕方の。」
「…」
「コニータのことを思い出していたのか?」
「…」
スパンはどう答えてよいか分からず、黙ってトーイを見つめていた。トーイは、スパンが答えないのは、精神的に落ち込んでいるせいだと勝手に思っていた。
「俺は、スパンがうらやましいよ。」
「うらやましい?」
「ああ。みんなの憧れのコニータを独り占めできて…そして、今も独り占めしている。ふたりは、本当に愛し合ってるんだなって。今もずっと愛し合ってるんだな」
トーイはかみしめるように言った。
「コニータの幻をみてたんだ。」
「幻?」
「ああ」
「幻か…幻でも会えたらいいな」
「コニータとの約束を思い出してた。」
「約束…か」
「ああ。最後まであきらめないって約束したんだ。なのに、不安でしょうがない。僕はどうしようもない臆病者だ。ただ怖いから、その怖さから逃げるために何もない振りをして、強がって、今まで同じように暮らしてみて、その結果がコニータを守ることすらできなかった。砂から救うこともできなかった。僕は、ただ怖いから、考えたくないから、めんどうだから、どうにもならないから、自分は非力だから…数えあげるときりがないな。自分の悪いことはいやってほど数えられるよ。まったく僕ってやつはどうにもならない奴だ。そうして嫌なことから逃げていたんだ。知ったような顔して…さ」
「そんなことはない」
強い口調でトーイがいう。その口調にスパンは苦笑しながら、
「そんなこと、あるんだ」
「いや。スパン。ほんとうに自分がそんなんだと思ってるのか?俺はスパンを小さい頃から見ていた。俺たちはずっと一緒だったろう。お前が平気な顔をしていると、なんとなく平気な気がしてくる。俺だけじゃない、他の奴も、いまは、イブとエヴァしかいないけど、お前を知っている奴は、みんな思ってるよ。スパンが平気なら、平気なんだ。たいしたことないって。それにスパンがいま挙げた欠点って、誰もがみんな持ってるものじゃないか。
俺だって、もってるぞ」
スパンはちょっと自嘲気味に笑う。トーイは両手のひらをスパンの目の前に広げると
「お前のいいところ数え上げたら、きっとこの両方の指でも足りない…はずだ!」
「はずって?おい」
「いや、だから、たぶんそうだ」
「なにがだよ」
「ま、そういうことだ」
「なんだかわからんが、トーイにそういわれると、そういう気になるから不思議だな」
はははと、トーイが笑った。スパンも笑った。いつもそうだった。トーイは口下手なのだが、妙に説得力があった。今の会話もどこかかみ合っていない気がするのだが、スパンは自分の心が元気を取り戻してきたのを感じていた。トーイの不思議な力だと思う。トーイのそばにいると、なぜか元気になる。
トーイは笑いながら、スパンの頭をくしゃくしゃとする。スパンも負けずと自分より少し背の高いトーイの頭をくしゃくしゃにしようとして、ぴょんぴょんと飛び跳ねるような格好になっている。2人の笑い声で、エヴァが目を覚ましたが、2人がじゃれているのを見て、毛布に包まったまま、笑った。笑いながら、ちょっとトーイに嫉妬した。自分ではあんな風にスパンを笑わせることはできないだろう。笑いながら、少し、淋しくなった。
星明かりのなか、スパンはトーイの思いには気づかなかった。
(俺も…)とトーイは心の中でつぶやく。(コニータと約束がある。)コニータが俺の目を見つめて言った。“スパンはやさしい、それは弱さでもあるわ。私がいなくなったあと、スパンを支えて”コニータはそう言った。(俺は、約束したコニータ。君の分までトーイを支える。だから、だから…)そのときのコニータの瞳。ガラス細工のような、美しく透き通った瞳。忘れようとしても忘れられない瞳だった。トーイの胸が熱くなった。
朝食を食べながら残り少なくなった食料を横目で見て、スパンは明日にはマーリス山に着きたいと思った。そうでないと今ある食料は、頂上に着く前には尽きてしまうだろう。山の輪郭がはっきりしてきた。そこに生えている木々が、枯れてはいる葉を、まだ枝にとどめているのが見て取れた。赤い砂も、このあたりにはまだ押し寄せてはいないようだった。
山を登る自分たちの体力を考えると気がめいるが、4人で力をあわせればきっとなんとかなる。それにまだ砂に覆われていない頂上には、西の国の研究所がある。多分食料もあるはずだった。別に根拠があるわけではないが、なんとなくそんな気がするのだった。
マーリス山が近づき、4人は元気を取り戻してきた。最初歩き始めた時は随分と遠い距離に感じたが、こうやって目の前に迫ってくると、目的を果たしたようなホッとした気持ちと、反面、先の見えない不安に、ふと暗い気持ちになるのだった。
イブが、つまらない話をしては、みんなの気持ちを盛り上げようとしているが、ふっとした瞬間に、言葉がとぎれ沈黙が続く。気持ちがどんよりと重くなりそうになると、エヴァが鼻歌を歌い始めた。一緒にイブも歌い、つられてトーイやスパンも歌った。トーイは思ったより歌が下手で、時々音をはずしてはイブやエヴァに笑われた。照れくさそうに笑うトーイをスパンはちょっとかばったりする。なんとなくピクニック気分になって少しは気持ちがまぎれていくのだった。
思いつく話も、歌も途切れてしまった時、イブが思い出したようにトーイに聞いた。
「ねぇ。トーイ。私ずっと気になってたんだけど、エヴァの妊娠をどうして知っていたの?」
トーイはちょっと照れ笑いを浮かべた。
「うーん…夢をね、みたんだ。」
「夢?!」
「うん。変な、とてもいやな夢。それでエヴァが赤ちゃんを産む。そう直感したんだ。」
「ね、ね、どんな夢よ」
「あまりいい夢じゃないよ」
「あ、でも知りたい」
「私も。」
トーイはちょっと上目づかいになにか考えていたが、
「空も大地も真っ赤なんだ。」話はじめた。
「真っ赤な空間。そこにエヴァが真っ白なドレスをきて立ってるんだ。とっても幸せな顔でね。ところが、エヴァの下腹部のあたりが血で染まってる。もうおびただしい血なんだ。なのに、エヴァは笑ってる。その隣で、スパンが笑いながら、でも泣きながら赤ちゃんを抱いてる。そんな夢を見たんだ。」
スパンは、トーイの話をきいてハッとなった。(コニータが見た夢と似ている。偶然?なのか)スパンの表情に気づいたのかトーイが心配そうに声をかける。
「スパン。どうしたんだ。」
スパンは小さくかぶりを振った。
「ああ、いやなんでもないよ。」
「不思議な夢ね。」
「なんか、血って、怖くない?」
(偶然だ!偶然だ!偶然だ!)スパンはそう自分に言い聞かせた。スパンはしばらく手を拳骨にしたり、開いたりしていた。
イブやエヴァたちは、まだ何か話していたが、スパンの耳にはなにも聞こえてこなかった。
ふと、スパンはエヴァにどうしても聞いてみたい衝動にとらわれた。
「ねえ、エヴァ?」
「なに?」
エヴァが少し小首をかしげる。
「コニータが、その、昔夢をみたんだ。」
「コニータ?」
「ああ、えっとコニータは、その…」
「亡くなった奥様ね」
「ああ、そうだ。それでコニータが夢をみて妊娠したって喜んでたことがあって。僕たちは結婚1年目でね、早く赤ちゃんが欲しかったんだ。」
エヴァはうなずいている。当時のことを思い出しながら考え考え話す。いつのまにか、トーイもイブも真剣に聞いているようだった。
「だけどコニータは、妊娠していなかった。いや、妊娠の兆候はあったんだよ。お腹が張るとか、吐き気がしたり体温が高くなったり。でも妊娠していなかった。その、想像妊娠…てやつだったんだけど。」
エヴァは、あどけない瞳でスパンを見つめている。スパンはエヴァを傷つけないよう言葉を選んで話そうと思っていたが、いざ口にしてしまうとどういう言葉を選べは相手が傷つかずに話せるのか、言葉につまってしまった。どんなに言葉を選んだとしても、きっと傷つけてしまうだろう。
やはり聞くのは辞めよう、そう思ったが、みんなの視線が早く先を続けろとせっついているように思えた。スパンはもう後には引けないことを悟った。
なるようになる。スパンは腹をくくった。
「その、君の妊娠は、そのなにか、そういう…その確証っていうか、トーイは夢をみて君の妊娠を確証している。イブは君と話してそう確証している、でも、その、ぼ、僕は…その、どういったらいいんだろう」
干からびた手の平にほんの少し汗のようなものが滲む。
「単刀直入に言うと、エヴァきみは自分が妊娠したってどうやって確認したのかな…って」
(ああ、僕はなんてこと聞いてんだ。こんなこと聞いてもし本当に想像妊娠や妄想なら…妄想なら…)
「ああ。なんだそんなこと?」
「うん」スパンは赤くなった。
「私が想像妊娠してるかもって?」
エヴァはいたずらっぽく笑う。
「いやそうじゃない。コニータはそうだったけど君はそうじゃない。」
スパンはしどろもどろになり、こんな質問するんじゃなかったと思った。みんなの視線の中、小さくなって姿を隠したかった。
「妊娠検査薬って知ってる?」
スパンはちょっと首をかしげる。聞いたこと在るような無いような…
「女性はね妊娠すると、特殊なホルモンが尿に混じるの。そこで、そのホルモンに反応する薬をいれて、反応を調べるわけ。で、反応があれば、「おめでとう。」なければ、「残念」と言うわけなんだけど。前に医薬品のセットを開けたときにその薬が箱の中にあったの。その時はこんなもの必要ないって思って、すっかり忘れてたんだけど。」
「はあ、なるほど…」スパンもトーイも思わずうなずいていた。
「あ、でも何で調べようって思ったの」
「ある日ね、自分の体に異変を感じたの。お腹の、そう調度子宮のあたりでなにかとなにかがぶつかり合って、爆発して、そのエネルギーが広がっていく。そう、西の国の科学書の中に、“ビックバン”という宇宙の創生の話があったと思うけど。そんな感じ。ビックバンってよくわからないけど、これってそういう感じなのかなって。
なにかがぶつかって、爆発して、そしてそのエネルギーが広がっていって。そして、しばらくして、こんどはなにかの細胞分裂を起こしているような感覚。
私。覚悟したの。もう砂になるときがきたんだって。トーイとお別れの時が来たって。
死ぬというのになんか、子宮が暖かいの。“ほわほわ”とした感じで。不思議なエネルギーを感じたの。なんだかとってもあったかくて、死ではなく、生という感覚?。
正直、戸惑ったわ。何なのって…。で、ある日、信じられないけど、だめもとで妊娠を思ってみたの。」
「そこで試してみたんだ?」
「そ。医薬品セットの中の妊娠検査薬をひっぱりだして、検査してみたら、ドンピシャって感じでね。う~んすっごく嬉しかった。死ぬんだとおもっていたら、新しい命がいたんだよ。」
エヴァは自分の下腹部の手を置くと嬉しそうに笑った。そして、トーイへ視線を移す。その視線は、とても愛らしく、また幸せそのものの瞳だった。トーイもとびっきりの笑顔をイブに返した。
夕刻にはマーリス山の麓についた。
マーリス山はフェンスで囲まれてはいたが、荒れ果て、ところどころフェンスが破れている。なぜこんなに荒れ果てているのだろう。砂に襲われふうでもないし、誰かが意図的に破壊したとしか思えなかった。あたりの木々は不規則に折られ、立ち入り禁止の看板はへし折られていた。
ただ、誰かがいる気配はまったくなかった。枯れた木々とむき出しの地面が頂上へと続いていた。
すぐにでも登り始めたいところだったが、暗い山道は危険だった。明朝、夜明けとともに登り始めることにして、その夜は山のふもとで夜を明かした。
夜の闇の中、スパンは満点の星をみながら、トーイの夢、コニータの夢、エヴァの話を思い起こしていた。なにかの力に操られているような不可思議な感覚。ちらほらと見え隠れするキー。何かを指し示しているように思えるそれ。スパンの中で、何かのスイッチが入った。そう、カチリと音がした。
スパンは一人で笑った。(ばかばかしい。僕は何を考えているんだ)唐突に、ラルの言葉がよみがえった。「未来はそこにある。エヴァ。君の体の中に。」この絶望しきった世界に未来なんてあるのか…死が充満している世界。未来とは無縁の世界。
明日はこの山を登る。
山を登った経験がないことが、必要以上にスパンの不安を煽った。自分たちはちゃんと登れるのだろうか。何日くらいで頂上までたどり着けるか?食料はたりるのか?そう考えて、食料の残りを計算して…そして、なにより考えたくもない恐ろしい考えがそっとスパンの側に忍び寄る。考えまいと気がつかないふりをするが、どうしてもその考えはスパンの脳を巡ってくるのだ。「マーリス山の頂上には何もなかった」スパンは背筋が凍るほどの冷たい恐怖が這い上がってくるのを感じる。
軽く頭を振り、その考えを振り払おうとするが、頭の中に出現した考えは、消えるどころかだんだん肥大化して、恐怖のどん底に落としていく。
スパンは震えが止まらなくなり、自分の両手で強く自分を抱きしめた。




