姫さまは知っていた
船員たちの騒ぐ声とともに、風がひゅーっと駆けていく。
賑やかな彼らに背を向けて、私たち夫婦は久方ぶりの景色を楽しんでいた。
…私も夫も、滅多なことでしか船旅はしない。
夫と結婚してすぐの船旅で、ひとりの少女が死んでしまったからだった。
それがただの下女や女奴隷であれば同情することはあれど、悲嘆はしない。
けれども彼女は、夫が目を掛けていた娘だった。
そして私も彼女に魅せられて、これから親しくなれるだろうことに密かに胸をときめかせていた。
…それなのに。
彼女がいないと知るや、その顔を悲しみに歪めた夫。
あれほどまでに悲しみを浮かべた夫を、私は他に見たことがない。
「御覧、姫。今日は一段と海が澄んでいるよ。
もしかすれば、人魚たちが顔を覗かせてくれるかもしれないね。」
「まぁ!
もしお顔を見せてくださるのなら、ぜひとも人魚の歌を聞きたいものですわ。」
きっと私が人魚に憧れているのを知っての御言葉でしょう。
ーですが、あなたはご存じないのでしょうね。
私だけでなく貴方も、とうに人魚と出会っているのかもしれないということを。
私が初めて会ったのは、まだ幼い頃でした。
その頃、お城の近くの川にたまに人魚が泳ぎにきているという噂がありました。
私はそれを聞くなりどうしてもお会いしたいと考え、ある日こっそりと城を抜け出し噂の川の元へ行ったのです。
そして私は人魚さまにお会いしました。
人魚さまは、私と同じ黒い髪をふわふわと風に遊ばせて葡萄畑や遠くで遊ぶ子供たちをとても楽しげに眺めておられました。
その姿はとても美しく、清らかで、そして気高くて、ついつい見惚れてしまいました。
すると、あまりにじっと見ていたせいか、私に気がついた人魚さまは私に向き直りました。
「あなたは私が怖くないの?」
「はい。」
言葉は不思議と口から出てきました。
自分自身少しだけ驚いたけれども、他に何にも考えられずただまっすぐ人魚さまを見つめました。
そんな私を人魚さまは「変わっているのね。」と微笑んでくれました。
「人魚さまは、どうしてここに来たの?」
「地上がどんなところか知りたかったの。」
「それなら、私が教えてあげますわ!」
私はお城でのことやお花のことなど、たくさんたくさん話しました。
話すのに夢中で、人魚さまに言われてはじめて空が赤く染まり掛けていることに気がつきました。
「そろそろ帰らないと。
お父様たちに怒られてしまうわ。」
「……また、会える?」
人魚さまはそれを聞くと、にっこり笑って言いました。
「きっと、ね。
…………そんな顔しないで、人間の娘さん。願えば、いつか神様がお導きくださるわ。
…それに、明日もここに来るから。」
私は嬉しくなって、来る日も来る日も城を抜け出して人魚さまに会いに行ったのです。
ある日は海のお城のことを。ある日は優雅に泳ぐ魚たちのことを。
またある日は家族のことを。
そして、ある日は人魚の歌を教えてもらいました。
「ねぇ人魚さま。
どうして人魚さまはそんなにもお歌が上手なの?」
「そうねぇ。どうしてかしら。
……もしかしたらあなたの為に歌っているからかしらね。」
「!じゃあ、私も人魚さまのために歌えばもっと上手になれる?」
「どうかしら。……でも、誰かの為に歌う歌はきっと自分を高めてくれるわ。」
人魚さまは、ときどき難しいことを言います。
だけどいつも私はわかったフリをしていました。
「人魚さま!一緒に歌いましょう?」
「えぇ、いいわよ。歌いましょうか。」
私は人魚さまと歌う歌が好きでした。
いつまでもずっと一緒に歌っていたいと願ったこともありました。
けれども、それも長くは続きませんでした。
私が会いたいがために毎日人魚さまが川に訪れるので、それを知った村の狩人たちが武器を持ってやって来たのです。
「いたぞ!本当に人魚だ!!」
「捕まえろ!」
大きな男たちは人魚さまを見るなり武器を構えました。
市で売って儲けるのだと、卑しい笑い声を上げて人魚さまを追い詰めていきます。
どんなにやめてと叫んでも、誰も止めてくれません。
すると、人魚さまはスッと顔を引き締めて言いました。
「愚かな人間たち。
私を捕らえると言うのならば、やってみればいいわ。
神様がお許しになるはずがないもの。
それでも止めないならば、天の罰をお受けなさい。」
男たちはニヤリと笑っていました。
けれども、すぐに呆然とした顔になりました。
人魚さまが歌を歌いだしたのです。
人魚さまの歌はとても美しく、冷たい歌でした。
はじめて人魚さまの歌を恐ろしいと思いました。
男たちは残酷なほどの美しさと冷徹さを目の当たりにして、みるみる内にがくんと膝をつきました。
人魚さまは男たちがへたりこんだのを見届けるとすぐに背中を向けました。
それに気がついた私はとっさに叫びました。
「人魚さま!」
「さようなら、人間の娘さん。
あなたとの時間はとても楽しかったわ。ありがとう。
……けれど。もう二度と、会える日はないでしょう。」
人魚さまは振り返りません。
そのまま、優雅に海に向かいます。
その姿を見届け、私は泣きました。
涙が出なくなるくらいに、大泣きしました。
泣きながら城に帰ると、お父様とお母様が待っていました。
父である王様は城を抜け出して人魚さまと会っていたと知ると、私を怒りました。
そして、教会で教養をつけてきなさいとおっしゃいました。
私はこれが人魚さまの言っていた罰なのだろうと考え、従いました。
その教会は海の近くだったので、私は教会のお祈りのあとに必ず浜辺に降りて歌を歌いました。人魚さまの歌です。
またお会いできますようにと願いながら歌いました。
そうすれば、きっと神様がお導きくださると信じて。
そして次は王子様との再会のとき。
隣の国の王子様は、なんと私が教会にいた頃に助けた方でした。
私たちは驚きとても喜びました。
そんな王子様が傍においていたのが彼女でした。
私は一目見て、思わず彼女に目を奪われました。
美しい黒髪に、赤い唇。そしてうつむきがちの儚い表情。
彼女は今にもどこかに消えてしまいそうな女性でした。
……………そして、本当にいなくなってしまった彼女。
ーーーあぁ、神様。
私は、知っていたのです。
彼女は人魚なのではないか、と。
あの 人間とは思えぬ程の美貌。
、、
おしであるにも関わらず人を惹き付けて止まない存在感。
あれらはまるで……かつて、友人と呼んだ人魚さまのよう。
そこまで来ると、自ずと分かってしまったのです。
あの時、海に投げ出された夫を助けたのは彼女だと。
彼女が、偶然私がお世話になっていた教会の近くの浜辺に運んでさしあげたのだと。
それを偶然、海辺に降りた私が見つけて介抱したに過ぎないのだ、と。
彼女の気持ちは分かっていました。
夫に向ける視線が、表情が、それを如実に語っていたのですから。
けれども、私はなにもしてやりませんでした。
私も彼女に負けない位夫をどうしようもないほどにお慕いしていたのです。
卑怯だと、愚か者であると自覚しております。
それでも私は夫を手放したくなかった。
「姫よ。
すまないが、いつものように歌ってはくれぬか。」
「………はい。もちろんでございます。」
きっと、夫は彼女が海に落ちて死んだのだと考えていらっしゃるのでしょう。
実際、それが船の者たち皆の見解なのですから。
ですが私は、私だけはこう考えているのです。
彼女は、海にかえっていったのではと。
ですから私は歌うのです。
かつて、教えてもらったこの歌を。
友人のために。 彼女のために。
ーーーー嗚呼、神様。
もしお聴きくださるならば。
どうか 彼女らが幸せでありますように。