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【04】昼間のふたり

1・也美


 チャイムが鳴って、三限目の授業が終わる。教科書を閉じると、也美はちょっと溜息をついた。退屈だったわけでも眠かったわけでもない。たった今終わった古典の授業は也美の好きな単元で、つい、うっとりしてしまったのだ。

「梁瀬さん。……梁瀬さん?」

 綺麗に着飾った姫君や女房たちが、豪華な調度品に囲まれ、香合わせなどしている様子を空想していた也美は、名前を呼ばれてはっと我に返った。

 それから、自分を呼んだ相手に気づき、にわかに緊張する。

「はい」

 意味もなく教科書の表紙に触ったまま、也美はいつの間にか隣に立っていたクラスメイトに体を向けながら、その顔を見上げた。

 返事をした也美を見て、相手は少し笑っていた。

「相変わらず、礼儀正しいなあ」

 男子生徒の表情は、苦笑のようにも見えた。也美も困って、小さく笑い返した。

「悪い、今のとこのノート、見せてもらえる? 途中書き取れなくて」

 也美は、教科書の下になっている古典のノートを、視線だけで見下ろす。

「あの……今日、私も、ちゃんと書けなくて」

 相手と目が合わせられず、也美の口調はしどろもどろになった。

「ごめんなさい、他の人から、見せてもらってくれる?」

 本当は、ノートはちゃんと取ってあった。也美はノートに文字を書くのが好きで、板書だけではなく先生の言ったこともメモしている。授業はまじめに聞く方だ。好きな教科は特に。

 家に帰った後、メモ書きを書き直したり、ペンの色を分けて見やすく、わかりやすくするやり方で復習するから、それまではただの走り書きだけど、人に見せられないほどではなかった。

 それでもこのノートを人に見せられないのは、別の理由だ。

「でも梁瀬さん、今の授業、ちゃんとノート取ってたよね」

 喰い下がられ、也美は少し驚いた。男子生徒の席は、也美の席から二列離れた後ろの方だ。注意して見ていれば、也美の視線がきちんと黒板とノートを往復していたことはわかるだろう。

 でも、見られていたなんて、思ってもいなかった。

「三野ォ、梁瀬さん、泣かすなよ」

 困って俯いてしまった也美、笑顔を消してしまった男子生徒の様子を近くで見ていた別の生徒が、からかうようにそう言った。

「ちょっと、来て」

 苛立った様子で、三野は也美の手首を掴んだ。また驚いて、也美は伏せていた顔を上げる。相手の険しい横顔しか見えなかった。クラスのみんなが自分たちを見ている気がして、恥ずかしくなりながら、也美は三野の乱暴な仕種に従って、彼と一緒に教室を出た。

 掴まれた手首が痛かったけれど、也美は抗議することもできず、竦んだ気分で少し前を歩く三野の後をついて行く。

 三野は廊下の端まで也美を連れて行くと、正面から向き合った。

「あのさ」

 三野は怒ったような、困ったような、低い声でそう切り出した。

「梁瀬さん、俺にノート貸すのとか、嫌?」

 也美は怖くて三野の顔が見られず、やっぱりまた、俯いてしまう。小さく首を振った。

「そんなこと、ない」

 呟いた自分の声が言い訳のように聞こえてしまって、也美はさらに言葉を重ねた。

「ごめんなさい……あの、ノートね、らくがきしてあって、恥ずかしくて、見せられないの」

「いいよそんなの、気にしないから」

「でも、見られたら、やっぱり恥ずかしいから」

「俺に見せられないような内容?」

 詰問口調に、也美は怯えて口を噤んでしまう。

「……梁瀬さん、最近俺のこと避けてるよね。最近……っていうか、こないだの放課後から」

 力はゆるんだけれど、三野は也美の片手首を掴んだままだ。

「……無理矢理じゃ、なかったと思うんだけど」

 三野の声は、どんどん低くなっていく。

 怖い、と感じることは、いけないのだと也美は自分に言い聞かせた。

「俺たちつき合ってると思ってたんだけど、違うのかな」

 何も答えない自分に、三野が苛立っているのが也美にもわかる。身を竦める也美の耳に、大きな溜息が聞こえた。

「怖がるなよ、そんなに。悪いことしてる気分になる」

「……ごめんなさい……」

「謝るなよ」

 諦めたように溜息をついた後、三野の声音は苦笑じみたものになった。

「好きな人、いないって言っただろ。だったらつき合ってくれって言ったら、頷いただろ。嘘だったの、それ?」

「嘘じゃ、ないの。好きな人は、いないの」

「なら、俺のことも好きじゃないってだけか」

 也美の手首を掴んでいた三野の手が、やっと離れた。

「俺だけ浮かれてて、馬鹿みたいだ」

 それだけ言い捨てると、三野は也美の前からきびすを返し、教室の方へと戻っていった。

 廊下の片隅で、也美はひとり、ぽつんと取り残される。

 かすかに、女の子たちのささやく声が聞こえた。何気なく声のする方へ目を遣ると、同じ学年の、同じ制服を着た女の子たちが、四人くらいで集まって、也美の方を見ていた。

 也美と目が合うと、女の子たちはさっと視線をそらし、またささやき声を響かせながら去っていってしまう。

(また、だわ)

 何となく力が抜けて、也美は廊下の壁に背中で寄りかかった。

(どうしてうまくできないんだろう、私)

 三野のことを傷つけた。そんなことをするつもりじゃなかったのに。

 泣いちゃ駄目だ、と思うのに涙がにじんできて、也美は慌てて上を向いた。首をねじって、窓の外を見るふりで、涙を飲み込む。

「あれ、梁瀬さん、どうしたの? 授業始まるよ」

 また誰かに名前を呼ばれて、也美は急いで洟を啜った。反射的に笑顔を作る。すぐそばに、別のクラスの男の子ふたりがいた。

 ふたりとも、也美が必死に隠そうとしていた涙に簡単に気づいて、表情を曇らせる。

「マジでどうした? 誰かに何か言われたのか?」

 どうやら、自分がときどき女の子たちから面と向かって、影で聞こえよがしに、さまざまな悪口を言われているのは、みんな知っているんだろう。

 それがわかって、也美はますます悲しくなった。

 悲しいのに、ちょっとおかしくなった。

「何でもないの。教室、戻るね」

 声をかけてくれたふたり、その人たちの名前も、也美は知らない。

 でもこんな場面を見かけた他の生徒たちは、噂をするのだ。也美が、男の子の気を惹こうとして、振り回す、我儘な女の子だと。




2・泉


「あれ、おまえの姉ちゃんじゃねえ?」

 クラスメイトの言葉に、階段の踊り場から次の階段へ移ろうとしていた泉は、目を上げた。

「堂々としてんなあ」

 クラスメイトは感心した声を上げている。泉はちょっと冷たい目になって、廊下の隅で俯く也美と、その前に立ちはだかっている男子生徒を見遣った。

 興味津々と踊り場で足を止め、廊下の方を見ているクラスメイトを置いて、泉は次の授業がある音楽室へ向かおうとした。

「っていうか……ひょっとして、揉めてるのと違うか」

 だが、その言葉で足を止める。振り返って也美たちの方を見ると、たしかに、男子生徒が也美に詰めより、也美は首を竦めて身を固くして、俯いてしまっている。

 とても仲のいい恋人同士が短い休み時間を惜しんで逢瀬しているようには見えなかった。

 泉はしっかりと也美の手首を掴んでいる相手の手を見てから、再び歩き出した。

「おい、梁瀬、いいのか?」

「いいも何も。関係ないだろ」

「冷たいなあ」

 くだらない、とクラスメイトの呆れた声を聞きながら泉は思った。

「姉弟でわざわざ同じ高校に来るほど仲がいいと思ってたのに、おまえら学校で全然口聞かないし、顔も合わせないのな」

 階段を昇る泉の隣に、クラスメイトが並んだ。泉は移動教室の時に友達とわざわざ肩を並べて歩くようなことをするつもりはなかったのに、このクラスメイトはいつもなぜか勝手に泉の横をついて回る。

 以前に、何なんだ、と理由を訊ねたら、「梁瀬のことが気に入ったから」と、はなはだ不可解な返答が帰ってきた。

「朝は一緒に来てるみたいなのにさ」

「同じ学校になったのは、家から歩いて通える一番近いところだから。始業ぎりぎりに家を出て、同じ目的地だから一緒になるだけ」

「クールだね、おまえ」

 冷たいとかクールだとか、言いたい放題だ。

「俺だったら、あんなかわいい姉ちゃんがいたら、自慢しまくるのにな」

「あいつを姉だなんて思ったこと一度もない」

「またまたほんと、クールな弟だね」

 茶化すようなクラスメイトの軽い口調に、泉はかすかに笑みを浮かべた。クラスメイトはもう見えもしないだろう也美たちを気にして、ちらちら後ろを振り返っていたから、その表情に気づかない。気づいていたら、きっと「おっかない笑顔だなあ」と首を竦めただろう。

 本当のことを言った。泉が生まれてこの方、也美を姉だなんて思ったことは一度もない。

 昔から、今まで、ただの一度も。




3・再び也美


 授業をさぼってしまった。

 也美は四限開始を知らせるチャイムの数分後に、保健室のドアを叩いた。

「あら梁瀬さん、またなの」

 自分の母親よりも少し若い養護教諭に、也美は両手でおなかを押さえて見せた。

「おなか、痛いの」

 本当は痛いのは胸だった。

「生理痛? 毎月ひどいのねえ」

 手招きされて、也美はスチールデスクの前に座る養護教諭の方まで近づいた。小柄で、ふっくらした、美人ではないけどかわいい雰囲気の養護教諭は、厳しい顔で也美の様子をじろじろ見遣る。

「薬、飲んだけど、治まらなくて……」

「朝ご飯ちゃんと食べた? 顔色悪いわよ、仕方ない、ちょっと寝ていきなさい」

 ほっとして、也美は頷くと、ベッドの方へ向かった。三つ並んだベッド、真ん中のカーテンが閉まっている。先客がいるようだ。

「午後になっても直らないようだったら、帰りなさい」

「はい」

 ベッドに潜り込みながら、也美はすなおに頷いた。養護教諭が、也美の回りのカーテンも引いてくれる。

「お母様も働いてらっしゃるのよね」

「おうち、近いから大丈夫です」

 そう、と頷いて養護教諭が也美の横たわるベッドから離れていく。

 真っ白なカーテンに囲まれた真っ白なベッドの中で、也美は真っ白な天井を見上げた。

(こんなことくらいで授業を休んだら、駄目なのに)

 先刻の三野のことを思い出したら、こらえていた涙が急に零れてしまった。啜り上げたら、思いの外その音が大きく部屋の中に響いて、慌てる。

(もう、すぐ泣く)

 手の甲で目許を拭って、也美はぎゅっと目を閉じた。

 保健室の上は一年生の教室で、椅子や机が床を擦る音がかすかに落ちてくる。授業を休んでこうして保健室にいる時、そんな音を聞くのは、也美を心許ない気分にさせた。

(学校に来ないで、まるっきりさぼった時は、不安になんて全然ならなかったのに)

 学校の中にいる方が落ち着かないなんて、変な話だと也美は思った。

(でもあの時は、泉がいたから)

 泉のことを思い出すと、不安と後悔ばかりだった也美の胸に、不意に灯りがともるような感触が沸き上がる。

 泉と一緒に学校を休んで、遠くに行った。遠くと行っても、電車で一本。でも全然見知らぬ土地に向かった。それでも全然怖くなかった。泉がいたから。

(そう、泉)

 もう一度、今度はあまり音を立てないよう気をつけて啜り上げてから、也美はひとりでちょっと笑った。

 先刻の授業、古典の物語を教師の声に合わせてひもときながら、空想していたのだ。

 もし自分が、この時代に生まれていたら。

(焚きしめる香を選んだり、着るものを選んだり、歌を考えたりして、きっと飽きずに毎日暮らしていたわ)

 自分が姫君になれるなんて思えなかったので、それに仕える女房がいい。もしくは――

(泉だったら、きっと殿上に昇る公達)

 その若君に仕える女房。

 そんな想像をしながら、ノートの隅に絵を描いた。とても泉になんて見えなかったけど、袍に、指貫、檜扇に、垂纓冠、思いつくまま線を足していって、ひとりでこっそり笑っていた。

 それを誰かに――三野に見られていたのだ、と思うと、恥ずかしくて、逃げ出したい心地になった。

 その絵を実際三野に見られるなんて、とても考えられることじゃなかった。

 だからノートは貸せなかったし、だから三野は気を悪くした。

(馬鹿みたい、恥ずかしい)

 ひとりいたたまれない気分になって、也美がまた小さく啜り上げると、不意に間近のカーテンが勢いよく開いた。

「ちょっと。さっきからくずぐずぐずぐず、うるさいよ」

 隣のベッドに寝ていたらしい女子生徒が、半身を起こしてカーテンを開き、也美のことを睨みつけている。

「ご……ごめんなさい」

 驚いて、也美は急いで指先で濡れた目許を押さえた。隣に人がいることを失念していた。

「……ああ、あんた」

 短い髪をした、美人だけどきつい顔立ちの女子生徒は、也美を見遣ると、どことなく皮肉げな様子でそう呟いて、笑う。

「四組のお姫様か」

 言葉の内容よりも、その口調の嘲笑う感じに、也美はどきりとした。

 也美が何か答えるより先に、彼女はさっさとカーテンを閉めて、その向こうで再びベッドに横たわる気配が伝わってくる。

(びっくりした……)

 何となく、也美は彼女のいるベッドに背を向けて、寝返りを打った。

 きっと彼女も自分を嫌う女子生徒のひとりだろう。そんな感じの声音と、まなざしだった。

 嫌われるのは昔から慣れっこだったので、今さらいちいち傷つかない。そう自分に言い聞かせながら、也美はそういう自分が少し悲しくなる。

 人の気を惹きたいなんて、今まで一度も思ったことがなかった。好きな人はいない。嫌いな人もいない。誰とでも平等に穏やかに、誰にでも平等に優しくつき合いたいのに、勝手な憶測はいつでも也美について回る。

(お姫様なんかじゃ、ない)

 自分がひとつのことに関してはとても我儘で貪欲だということは、也美も知っている。

 それ以外のことで我儘だと言われるのは、何だか腑に落ちない感じだった。

 そんなことを考え続けるのは気が重かったので、也美はもう一度、無理に目を閉じた。

 背中の彼女が気になってしまって、しばらく緊張していたが、いつの間にかうとうととまどろみ始めていく。

「梁瀬さん。梁瀬さん、授業、終わったわよ」

 そうして気づいた時には、そばに養護教諭がいて、自分の名前を呼んでいた。

「はい……起きます」

 眠たい目を擦りながら体を起こすと、養護教諭が吹き出す声がする。

「あなた、本当に可愛いわねえ」

 くすくす笑いに恥じ入りながら、也美は制服と髪を整えて、ベッドを降りた。

「具合はどう?」

「眠ったら、落ち着きました。教室に戻ります」

 答えながら振り返ると、隣のベッドはもう空だった。

 保健室を出て教室に戻ると、すでにクラスメイトたちはそれぞれ弁当を開いたり、学食に向かったり、昼休みを始めている。

 也美はそっと中に入ると、自分の席に座った。ちらちらと視線はやってくるが、声をかけてくる者はいない。

 最近一緒に弁当を広げていた三野は、友達の男子生徒ともう食事を始めている。

 一緒に食事をしたがったのは三野だけれど、男の子とふたりでそうしていると、またひそひそ話が聞こえてくるから、也美は正直なところほっとしている。

 それを三野に申し訳ないと思った。

 本当はひとりで充分なのだ。人から疎まれるのは嫌だけれど、誰かと特別仲よくしたり、お手洗いまで誰かと連れ立つようなことは必要ない。

(できれば、ああいう輪に、入っていけたらいいんだけど)

 近くで女の子数人が机を向け合い、弁当を囲み、楽しげにはしゃいでいる。ああいうふうにできたらいいのにと思うけれど、気後れしてしまって自分から彼女たちの中に入っていくことはできないし、彼女たちが也美を誘ってくれることもない。

(でも、大丈夫)

 ひとりでも大丈夫だと思うのは、根本的なところで、自分がひとりじゃないと『知っている』からだ。

 だからどこにいても、誰といても、誰がいなくても、也美が寂しいと思ったことは、生まれてから一度もない。

 なるべく目立たないように、そっと弁当箱を机の上に取り出しながら、也美は不意に気づいた。

(今日、火曜日だわ)

 大事なことを忘れていた。也美はハンカチで包んだ小さな弁当箱を手に取ると、急いで、椅子から立ち上がる。そのまま教室を出て、小走りに廊下を進んだ。

 階段をひとつ昇って、向かったのは第二音楽室。

 そっとドアを開けた時、ピアノの旋律が聞こえたから、間に合った、と也美は胸を撫で下ろした。

 この学校には音楽室がふたつある。たぶん合唱部とブラスバンド部の活動が熱心なせいだろう。その片方、第二音楽室は、火曜日のお昼休みの少しの間、ピアノの音が途切れず聞こえる。

 グランドピアノの前で、何でもない顔をしながら難しそうな曲を弾いている制服の後ろ姿を確認すると、也美はその視界に入らないよう注意しながら、近くの壁際を選んで座った。

 綺麗な音楽に聴き入りながら、膝の上で弁当を開く。しばらくそうしていると、不意にピアノの音が消えた。

 ピアノの前から立ち上がった泉が、也美の方へ歩いてくる。

「もう、おしまい?」

「腹減った」

 泉は也美の隣へ無造作に腰を下ろし、無造作に也美の弁当の唐揚げを横取りした。

 ここに来るのが遅れたから、今日はあまり泉のピアノを聴けなかった。家に帰ればいつでもその音色を聴くことができるのに、それでも也美はひどくがっかりした。

「お弁当、食べる?」

 也美が自分の弁当箱を示すと、泉はさっさと箸ごとそれを奪って、食べ始めた。本当は特別教室の中は飲食厳禁だったけれど、第二音楽室は授業では滅多に使われないし、人目につくこともない。

 音楽科の先生と仲よくなった泉は特別に鍵を借りていて、四限に授業のある火曜日だけ、こっそりとここにいる。それを知っているのは、音楽教師の他はきっと也美しかいない。

「痕ついてる」

 弁当の半分を食べてしまってから、泉が也美の顔を見て、そう言った。弁当箱を受け取りながら、也美は片手で自分の頬に触れる。布団か枕の痕がついてしまったらしい。

「やだ、顔、洗ってくればよかった」

「格好悪ィ」

 小馬鹿にするように嗤った弟の顔に、也美は間近で見とれた。その顔が近づいて、自分の頬に唇で触れられるまで、じっと身じろぎもせずにいる。心臓が壊れそうなほどに鳴っているのを、泉に気づかれたくなかった。気づかれたらきっともっと笑う。

「眠い。十五分寝るから、起こして」

 也美から離れると、泉はそう言って、壁に凭れた。

「保健室に行ったら?」

 こんなところで眠っては、体が辛いのではと心配した也美の提案を、泉は目を閉じて無視した。

 泉が瞼を下ろしてしまったので、也美はその姿に心おきなくみとれる。ひとつ離れた弟の姿を、也美が見飽きたことはない。いつまでも眺めていたかったし、いつまでもそばにいたかった。

 泉さえいれば教室でひとりでも大丈夫だと、そう思う自分の心が間違っているのか、正しいことなのか、也美にはわからない。

 たとえ間違っていたとしても、心は変わることがないから、考えないようにしている。

 好きな人はいない。嫌いな人もいない。そんな言葉で簡単にくくることができるのなら、きっともっとずいぶん楽だった。

 好きな『他人』はいない。それが也美の真実だ。

 細くて長い足を床に投げ出し、腕組みで目を閉じる弟に、也美はそっと向かい合った。どうか泉が起きませんように、と願いながら身を寄せる。

 空気すら動かさないように慎重に、慎重に唇を近づけた也美は、泉の唇と触れあう寸前、その目がうっすら開いていることに気づいた。

 反射的に身を引こうとした也美の片手を、泉が掴む。

 それだけでもう也美は身動きが取れない。

「するんじゃないの?」

 問う泉の声音は意地悪だ。

「しない。姉弟だもの」

 也美の答えに、泉がまた笑った。今度の笑顔は優しくて、泉の得意な皮肉っぽい笑顔よりも、最高に意地悪だと也美は思った。

 そのまま泉は何も言わず、ただ也美の腕を軽く引いた。

 誘われるように、也美はもう一度泉の方へ顔を近づけた。目を閉じて泉の唇に唇で触れる。

 触れあった刹那、いろいろなことが頭を巡った。二週間前の放課後、教室で三野にそうされたこと。同じ日に泉にもそうされたこと。触れあうことに一切の罪悪感がなかった自分。幸福感だけが胸を占めることに後ろめたさを覚えた。そして今も。

「……」

 しばらくの間、泉の乾いた唇の感触を覚えて、それから也美はゆっくり体を離した。泉の隣に座りなおし、泉と同じように体重を壁に預ける。

「十五分」

「うん」

 念を押した泉に頷いて、也美は床に置いた弁当箱をまた膝に置き直した。

 あと十五分、倖せな時間が続く。

 ここには自分と泉以外誰もいない。誰にも見られていない。誰も知らない。

 蜜月を自分から手放すことなんて、この時の也美には、ほんの少しだって考えることができなかった。

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