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【01】おわりの始まり、昔のこと。

 ピアノの音が気持ちよかったので、冷たい木の床に耳を押しつけ、体を押しつけて、それを味わった。

 高い音が素足のゆびさきひとつひとつから伝わって、耳許まで駆け上がる。

 低い音は体を抱くように、辺り中からおおい被さってくる。

 也美はひどく幸福だった。

 音楽にはてんで疎かったので、泉が弾いている曲が何という名前なのかはわからなかった。CMで何度か耳にした音楽のような気がする。

 でも、そんなことを言えば「無粋だ」と泉が怒るのは目に見えていたので、言わないつもりだった。泉はひどく繊細で、也美にはわからないことで傷付いて、怒る。也美にわかるのは、泉が何を言われれば傷付くかということ。

その理由はわからない。

 でも、ただ、彼が傷付くことはよくないことだと自分の中に決まりがあったので、せめて自分だけはそうならないようにしようと、それはもうずっと子供の頃から思っていた。

 也美の世界は、ほんとうに泉ばかりが住んでいて、彼の色と音ばかりが蔓延している。病気のようだったし、実際「おまえは病気だ」と何人の人からも言われた。

(病気でいいわ)

 呼び方なんて何でも構わないと思った。

 也美は泉のことが大事だったし、大好きだったし、その気持ちが誰に何と呼ばれようと、知ったことじゃなかった。

 ピアノの音が止んでしまうと、とても残念な心地になって、也美は閉じていた瞼を開くと寝返りを打った。すぐそばの、ピアノの方を見上げる。

「もうやめちゃうの?」

「雨が降ってきた」

 泉は也美の問いには答えず、ひとりごとのように呟くと、椅子から立ち上がって窓辺の方へと近づいた。結露したガラスを指先で拭いて、目を凝らし、外の景色を眺める。

 また背が伸びたみたい。

 床の上から泉を見上げ、ぼんやりと、也美はそう思う。

 細い体は相変わらずに見えるのに、いつの間にか泉は自分の背を追い越して、肩幅もずっと広くなって、少年ではなくなろうとしている。

(十六だものね)

 もう高校生だ。

 壁にかけられた学生服の黒が、也美の目に痛かった。

 泉はまるで部屋に也美がいないかのようにふるまって、しばらく窓の外を眺めてから本棚の前に移動して、いくつか本を手に取って中身を眺め、また戻して、とやっていた。

 也美は飽きもせず、そんな弟の姿を眺める。

 長い指先が動くのを眺める。

 ひとさし指が、本のてっぺんを引き寄せて、本棚から取り出す。ページを繰る。目が文字を追う。欠伸をする。

(なんて綺麗な子だろう)

 馬鹿みたいに、也美は何度もそう思う。

 泉はとても綺麗な男の子だった。たまにがさつで、いい加減なところがあるのに、どうしてか也美の中でイメージはいつも「綺麗」だ。

 教室にいる、同い年の男の子たちとはまるで違う。

 ――梁瀬さんは、弟の方が大事なの?

 不意に、誰かの言葉を思い出して、也美はまた目を閉じた。誰か――クラスメイト。男の子。最近、自分のことをじっと見る不思議な人。手紙をもらった。好きだと言われた。怖いと思った。

『泉、泉って、弟の話ばっかり』

 怒られたわけじゃないのに、怒られた気分になって、也美はその時彼の前で身を竦ませた。そうすると、彼は苦笑して、困った顔になって、それから也美の方に手を伸ばした。

「……」

 スン、と也美は鼻をすすり、怖かった思い出を消してしまおうとさらに強く目を閉じた。手探りで、そばにあったクッションを引き寄せ、抱き締める。

(忘れちゃえ)

 言葉も、温度も、感触も。怖くて泣き出してしまった自分も。

(謝らなくちゃいけないわ)

 そう浮かぶ思いも消してしまう。今だけは。この場所にいる間は。

 泉がそばにいる時間だけは。

 でも、忘れたいのに忘れられなくて、也美はまた鼻をすすった。油断したら涙が出てきて、閉じたまなじりから零れだし、こめかみを伝って床に落ちた。

 刹那、バン、と大きな音が耳許で聞こえて、也美はびっくりして目を開けた。体がちょっと浮いてしまった気がする。

 頭のすぐそばに、何冊かぶあつい本が積まれていて、そのとなりに泉が腰を下ろしていた。

 ひどく不機嫌だった。

「……ごめんね」

 也美はすぐに謝った。泉はもっと不機嫌な顔になった。放り出して積み上げた本から一冊を取りだし、手にとって眺め出している。

「何、泣いてるの」

 理由を問いただすよりも、行動を責める語調で泉が言った。視線は本の文字を追ったまま。

「三野くんと、キスした」

 泉が、冷たい目で泣いている也美のことを見下ろす。

「キスしたわ、教室で」

「それで嬉しくて、泣いてるの」

 泉は意地悪だった。昔からそうだ。

「違うわ。悲しいの」

「なんで」

 也美は答えず、仰向けに寝たまま、クッションで顔を覆った。

 泉はそれを無視して、また本を読み始めた。

 間の抜けた時計の音が響いた。

(ピアノ、弾いてくれないかしら)

 思ったけれど、也美は泉にそれを頼むことはできなかった。泉のピアノは誰かが頼んで弾くものじゃない。そんなの泉のピアノじゃない。

 悲しい気分にまかせてしばらく泣いて、也美はようやくひとここちつくと、クッションに大きく息を吐き出した。

 その途中で、クッションが奪われた。あ、と思って見上げると、間近に泉の顔があった。

(綺麗な顔)

 それを眺めきらないうちに、視界が暗くなった。唇に、おもいのほか丁寧な動きで唇が合わさってくる。

 眩暈がした。

 泉の唇はすぐに離れて、でもまだ間近で、也美の目を覗き込んでいる。 也美が目を閉じると、もう一度唇が触れた。

「……裏切りもの」

 またすぐに離れた泉の唇が、そう呟いた。

 近すぎる泉の吐息が唇を撫でて、也美は体を震わせた。悲しくて、悲しくて、涙がもっと出てきた。

 泉は急に也美から興味を失くしたように、ふいと目を逸らすと起きあがり、また本のページを繰り始める。

 ――違うわ。

 言いたいのに、声にならなかった。

 泉がいちばん大好きよ。ずっとずっと昔から、最初から、泉のことだけが大好きよ。

 言いたいのに、声にならなかった。



 後になって、思う。

 この時もし泉に気持ちを伝えていたら。思っているだけではなくて、言葉にして、音にして泉に伝えていたら。

 この後だって、素直に好きだと言えることができたかも知れないのに。

 初めて泉とキスをしたこの時に、言えることができれば、もっとずっと違う形にできたかも知れないのに。

 ずっと後になって、也美は思う。

 ただその時は、悲しくて、悲しくて、声が出なかった。

 誰よりも泉が好きだと言いたかったのに、言葉にならなかった。

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