第一話
「――あなたを、解放してあげましょうか?」
生まれて初めて味わった、完膚なきまでの徹底的な敗北。
地面に剣を突き立て、膝をつき、荒い息を吐いていた勇者――フィルス・アルべインの心へと、その言葉は何の抵抗もなくするりと入り込んできた。
「……なに?」
何も考えることができず、ただ目の前に映る青い絨毯だけを見つめていたフィルスは、耳に届いてきたそんな言葉に、一瞬だけ呼吸を忘れていた。
「聞こえませんでしたか? あなたを、解放してあげましょうか、って言ってるんです」
再びフィルスの意識に入り込んでくる、どこか陽気ささえ感じさせるような、魔王、というよりは少女の声。
今度こそ自分の置かれた状況を完全に忘れ、フィルスはゆっくりと声の主のほうにその目を向けた。
腰の辺りにまで届く流れるような銀の髪に、純粋なヒスイのような色合いをした、碧色の澄んだ瞳。
全体的にすらりとしたシルエットをしているが、身にまとう黒いローブの上からでも、女性らしいふくらみやくびれが目で見てわかる。ローブから少しだけ覗く肌は雪の色を抜き出したようで、フィルスが全力で攻撃したにもかかわらず、そのどちらにも傷の一つさえついていない。
丸みを帯びた目を人懐っこく細めながら、魔王はゆっくりとフィルスに向かって歩み寄ってくる。
「……俺を、解放する?」
「はい。さっきから、そう言ってるじゃないですか」
さっきまで命を狙ってきていた相手に対して、魔王はまるで親しい友人に向けるような明るい笑みを浮かべている。
敗者を見下しているわけでも、計略を考えているわけでもない、まっすぐで澄んだ純粋な表情。
人に恐れられ、畏れられている魔王が浮かべている表情だというのに、フィルスの目は不思議とその顔に引き寄せられてしまう。
「どういう、意味だ? 死をもって解放するとでも言うつもりか?」
「まさか。死ぬことが救済だなんて、そんなくだらないことは言いませんよ。何も感じなくなるのが一番の幸せだなんて、ばかばかしいにもほどがあるじゃないですか」
「……そういう、ものなのか。俺には、よくわからないが」
「私にもわかりませんよ。でも、少なくとも私はそう思うってだけです」
そんなよくわからない会話をしているうちに、フィルスの息は徐々に整い始め、なくしかけていた握力や脚力も少しずつ回復し始める。
魔王であるはずの少女は、特に身構えることもなくフィルスの近くで立ち止まっている。
いま、目の前の少女に襲いかかれば、あるいは彼女を傷つけるくらいはできるかもしれない。
頭の隅でそんなことを考えはするものの、不思議とそれを実行する気にはならなかった。
「だが、だったら俺を何から解放すると言う? 俺が一体何にとらわれていると言うんだ?」
「すべてですよ。勇者としてここにある、あなたという存在のすべて。あなたが解き放たれるべきはまずそこからです」
にこやかな笑顔を絶やさないまま、魔王という名の少女はゆっくりと目を閉じ、包み込むようにしてその両手をいっぱいに広げる。
「疑問に思ったことはないですか? 自分は、どうしてこんな存在としてこの世にいるのだろう、って。どうして、自分がこんな存在じゃなきゃいけなかったんだろう、って」
「……っ」
魔王が語ったそんな言葉に、フィルスは思わず息をのむ。
それはかつて、いつの間にか封印していた自問だった。どうして自分が勇者であるのか。どうして自分が勇者でなければならなかったのか。
その答えはついに見つけられず、わけも分からないままここまで来て、こうして魔王の前に膝をついている。
「あなたはどうして戦ってきたんですか? 人間のため? 正義のため? 魔王が世界に害をなすっていう、又聞きにも劣る伝聞を信じて、命を懸けてまで戦う理由が本当にあるんですか?」
「それ、は……」
緑の瞳で見透かすように見つめてくる魔王の言葉に、フィルスは何も言い返せない。
特別な能力を持った人間の一人が勇者となり、世界に仇なす魔王を討つ。能力という言葉に心当たりはあったものの、そんな伝承なんて益体もない噂話程度にしか思っていなかった。
だが結局、自分の身に降りかかってみればこの様だ。連行され、十年近くもの間気が狂うような鍛錬と処置とを繰り返され、戦えと言われたから何も考えずに戦ってきた。
一体俺は何のために戦ってきた? それに値するだけの理由がどこかにあったのか?
「理由が、ほしいとは思いませんか?」
「……え?」
フィルスが考え込んでいたところへの、狙い澄ましたようなその言葉。思わず、目の前で語りかけてくる魔王の顔を穴が開くほどに見つめてしまう。
魔王と言われ、魔王の力をふるいながらも、人と全く変わらない顔をした、一人の少女。
「いまここで、自分がこうして生きている意味。それが、ほしいとは思いませんか?」
「生きている、意味……」
「はい。勇者だとか魔王だとかに関係なく、自分が心からそれに誇りを持てる。そんな生き方です」
「誇り、か……」
空虚な柱を揺さぶられているフィルスの心に、その言葉は奇妙なほどに重みを伴って入り込んできた。
誇り。そう、誇り。誰に強制されるわけでもない、自分自身がそれに限りなく納得して生きられる、そんな生き方。
それこそ、勇者だとか魔王だとかなんて関係ない。本当に、そんな絵空事のようなことができるというのなら。
「一緒に、行きませんか? 自分自身に偽りなく正面から向かい合える、そんな世界に――」
彼女とであれば、本当にそんな世界に行けるというのなら。
目の前に差し出された魔王の小さな手を、フィルスは初めて自らの意志で選択して、確かな力を込めて掴んでいた。