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如夢令 武林幻夢秘史

掲載日:2026/10/25

 そうして人類は永遠の眠りについた。

 物語はそういって終わるはずだった。

 ことの起こりは、大明帝国の永楽十九年。中原を一つの奇病が襲った。

 ──荒殭(こうきょう)。

 誰ともなくてそう呼びはじめた病は、首都・北京からはるか西に位置する崑崙(こんろん)山脈の奥地から発したとされる。一度罹れば壮健な大人であっても昏睡に陥り、三日後には殭屍(きょうし)に変じ、無作為に人を襲う。内功を極め、百毒不侵・刀槍不入の身を持つ武林江湖の高手たちですら、荒殭には抗うことができなかった。

 荒殭は燎原の火のごとく帝国全土を侵し、大越や朝鮮といった地続きの国のみならず、大提督・鄭和(ていわ)が切り開いた航路を通じて海の果てにまで広がっていった。

 荒殭が発見されてから凡そ半年。世界は混乱と絶望の淵にあった。

 無論、世界の各地には荒殭に抗う者もいる。

 発端である大明帝国では、天然の要害たる四川のみは陥落を免れていた。

 四川の人々は、毒と暗器で知られる四川唐家を中心に結束し、成都に近辺の武人たちを集めた。そして外界との接触を断ち、迷い入ってくる殭屍たちの群を退けてきたのだ。

 しかし、長く続いた抵抗の終わりは突然にやってくる。

「あっけないものだな」

 成都を守る金龍長城の城壁の上でそう呟いたのは、四川唐家の若き当主である唐紫薇(とうしび)であった。類い希なる武才で知られ、その美貌ゆえに四川第一花と称えられる彼女の顔には、深い疲労が浮かんでいた。

 彼女の眼下では、おぞましい叫びを上げる殭屍たち城門を打ち破り、味方の武人たちが飲み込まれていく。化け物たちはじきに武人たちを殺し尽くし、紫薇のもとへとやってくるだろう。さて何匹道連れにしてやれるか……紫薇がそう考えていると、しゃがれた笑い声が彼女の耳朶を打った。

「唐家の娘よ、ご機嫌いかがかな?」

「何者だ。姿を見せよ」

 鋭い誰何の声に応えて姿を現したのは、血を思わせる鮮やかな紅の服に身を包んだ蓬髪の老爺であった。

「我が名は魃瘋(ばつふう)。死天教の教主なり」

 魃瘋と名乗った老人の皺だらけの顔が、くしゃりと歪んだ。笑ったのかもしれない。

「汚らわしい魔教め」

 紫薇は眉根に皺を寄せ、魃瘋を睨みつけた。

 死天教は崑崙の奥地に拠点を構える宗教結社である。中原では知られぬ神を崇め、血腥い秘術を用いるという。謎に包まれたその結社は、中原武林ではただ「魔教」と呼ばれる。

「荒殭は貴様らの仕業であったか!」

 紫薇の問いかけに、魃瘋は「左様」と唇を歪めた。

「汝らが荒殭と呼びし厄災は、我が神がこの身に与えた力である。この力をもって、罪深き汝らの魂を浄化して下僕へと変じてくれよう」

 紫薇は柳眉を逆立て、腰帯に手を伸ばす。そして帯に隠された毒針を素早く抜き、魃瘋へと投げつけた。

 宙を舞う針の数は十本。いずれも目に見えぬほどの細さで、唐家秘伝の邪毒が塗られている。常人であればかすりでもすれば即死、たとえ武を極めた少林の高僧であっても、一刻ももたぬであろう。

 しかし、紫薇が放った必殺の一撃が魃瘋に届くことはなかった。魃瘋の両手の爪のから赤黒い内気が吹き出し、不可視の針を叩き落としたのだ。

「無駄なことよ。唐家の武術など我が前では児戯に過ぎぬ」

 魃瘋が笑う。彼が放った内気は奔流のごとく紫薇に迫り、たちまちのうちに紫薇の体に絡みつき、体の自由を奪う。

「さて、この美貌、殭屍どもに食わせるには惜しい」

 魃瘋は、言葉一つあげることができぬ紫薇に近づき、彼女の細い顎を指で押し上げた。

「汝の魂は夢幻の世界にて腐らせ、その身は生ける屍として我が神に捧げるとしよう」

 顎に添えられた魃瘋の指から、紫薇の体に何かが流れ込んできた。身をすりつぶすような悪寒、そしてただならぬ眠気。

「さらばだ、四川の美しき毒花よ。汝の魂に清らかな悪夢を」

 自分が荒殭に冒されようとしていることを悟った瞬間、紫薇の意識は闇に包まれた。


★


「魃瘋、貴様……!」

 紫薇が叫びとともに目を覚ますと、そこに見知った成都の町並みはなかった。

「なんだ、ここは……」

 彼女が横たわっていたのは峻厳な岩山だった。立ち上がり、周囲を見回しても草木一つない。見覚えがない場所だった。空には紫がかった暗雲が立ちこめ、雷鳴に似た不吉な音を轟かせている。

 さらに岩山の向こうから「オオオオ」と獣のような鳴き声が響いてくる。

 不意に紫薇は背後に何者かの気配を感じ、咄嗟に身を伏せた。直後、頭の上を重々しい何かが通り抜けていくのを感じる。

 紫薇は地面を転がるように動き、背後の襲撃者から素早く距離を取った。三丈ほどの距離を取り、体勢を立て直して目をやれば、さきほどまで彼女がいた場所に大きな人影が立っていた。

 それは異様な姿をしていた。八尺ほどの巨躯は、真っ黒な皮膚に覆われており、背中には蝙蝠のような羽と、長い尾がついている。何よりも不気味なのは、目も耳も鼻もない顔面であった。

 その怪物は腕を振り上げ、紫薇のほうへと向かってきた。

「面妖な……!」

 怖気をふるう光景であったが、唐家の当主たる紫薇が怯むことはない。彼女は両袖に隠した二本の短刀を抜き、怪物を迎え撃つ。

 怪物は丸太のような腕を振り回すが、紫薇は軽功を使って宙へと舞い上がり、怪物の首を切りつけた。そして怪物の体を蹴って、その背後に着地。人体の急所である脾臓のあたりに鋭い突きを入れた。

 怪物は振り向きながら手足を乱暴に振り回したが、紫薇は軽やかにかわし、一撃また一撃と急所に突きを入れていく。十発目の攻撃が入るころには、怪物の体から力が失われ、倒れるその場に膝を突き──そして、紫薇の目の前で、泥のように崩れ去った。

 脅威が去ったことを確認した紫薇は、短刀を仕舞い、軽く息を整えた。 

 その瞬間。

「やあやあ、まさかこのような場所で達人に出会おうとはね」

 不意に背後から声がした。飄々とした響きの、若い男の声だった。

 紫薇が振り向くと、にやけた男がひとり。身につけているのは黒い道服。両の袖には太極図が刺繍されている。黒目がちな大きな瞳と、少年のように柔らかな輪郭が印象的だった。

「ああ、警戒しなくていい。俺は味方だよ、たぶん」

 身構える紫薇に向かって、男が微笑を浮かべながら抱拳の礼をした。笑うと目が細くなり、まるで猫のようだと紫薇は思う。

「挨拶が遅れたな。俺の名は諸葛周天(しょかつしゅうてん)。見ての通り、しがない道士さ」

 道士──諸葛周天の言葉に、紫薇の眉が動いた。

「諸葛……諸葛世家か!」

 四川の人である紫薇にとって、諸葛という姓を聞いてまず思い浮かべるのは、三国時代に蜀の丞相として辣腕を振るった大軍師、諸葛亮だ。彼を輩出した山東の諸葛家は陣法と軍略に通じる一族である。明の時代に至っても神謀鬼略の名声は衰えず、家伝の秘技は運命すら枉(ま)げ、不可能を可能にすると言われている。武林を代表する名家だ。

 紫薇の反応を見た周天は、下を向いて「一応な」と呟くと、気まずそうに頭を掻いた。

「道家の思想と理論に入れ込みすぎちまって、実家からは与太者扱いだけどな。それはさておき、そっちは何者なんだい?」

 紫薇は自分の身の上や、これまでに降りかかってきた出来事を話した。話が終わると、周天は「なるほど、魔教か」と呟き、考え込む仕草をした。

「諸葛周天殿、尋ねたいことがある」

 黙り込んだ諸葛周天に、紫薇が問う。

「ここはどこだ? まるで地獄ではないか」

「周天でいい。ここは魃瘋があんたに言ったとおり、夢の世界さ。あんたは魃瘋に荒殭を植え付けられて眠りに落ち、夢を見ているんだ」

「私の夢だって? ここが私個人の夢であるなら、周天、君は私の心が生み出した幻か何かということか?」

 周天は「いや、違う」と首を振った。そして紫薇の目の前に右手を出し、人差し指立てる。

「二つ説明しておくことがある。まず一つ目、夢というのは一人の物ではないんだ。人間が見る夢はそれ同士が繋がっていて、一つの大きな世界を形作っている。普通に暮らしていると、なかなか気付かないがね」

 いきなり奇妙な話をされ、紫薇は面食らったが、周天は彼女が何かを言おうとするのを目で制し、中指を立てる。

「二つ目。なんで俺がそれを知っているか。それは俺が夢の専門家だからだ。『荘子』に〝胡蝶の夢〟って逸話があるだろう? 幼い頃にあれが気に入ってね」

 〝胡蝶の夢〟とは、道家の祖である荘子が夢の中で蝶となり、目覚めたのちに自分が夢のなかで胡蝶になったのか、それとも胡蝶が夢のなかで自分になっているのか、と不思議に思ったという逸話である。

「物心ついて以来、俺はずっと夢について調べ、夢の本質を知るための修行を続けてきた。まぁうちの親父からすると、昼間から寝てばかりのぐうたら息子にしか見えなかったらしいがね。よく叱られたもんさ。子曰く、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず、なんてね。いや、そんなこたぁどうでもいい」

 長広舌をまくし立てた周天は軽く唇を舐め、話を続けた。

「人と人の夢はゆるく繋がっていて、ときどき互いに交わる。普通はそんな簡単に夢同士が繋がることはないのだが、俺はつらい修行の成果があって、俺は夢の世界と現実とを自由に行き来し、人様の夢に自由に入り込る能力を手に入れたんだ。だからあんたの夢にも入り込めた。ここまで理解はOK?」

 急に話を振られ、紫薇は慌てて頷いた。正直なところ周天の話はほとんど意味が分からなかったし、おまけにまったく知らない言葉まで出てきたが、聞き直したところで理解が深まるとは思えなかったからだ。

「なんとなくは理解した……気がする。二つ聞きたいことがある」

「なんだい?」

「まず一つ。私たちが戦った化け物、あれは何だ? 二つ。君はこの夢の世界で、何をしていたのだ?」

 顔のない影のような化け物。あんなもの、山海経でも見たことはない。

「あれは夜鬼(やき)という。本来は夢の世界の奥深くに棲む者だ。普段なら特定の場所に近付かなければ襲ってこないんだが、夢の世界の乱れによって無作為に人を襲うようになっちまったのさ」

 乱れ。不穏な言葉が出てきた。

「夢の世界の乱れとはなんだ?」

「質問が三つに増えたが、まぁいい。二つ目の質問とも関係しているからな」

 周天がニヤリと笑う。

「本来、夢の世界というのは平和なものだ。夢の中ってのはよく妙なことが起こるが、それが現実の世界に影響を及ぼすことは少ないだろう? せいぜい悪夢を見て嫌な気分になるくらいだ。だが誰かが夢の世界に細工をしたせいで、その法則が乱れ、現実世界への影響力が強まっちまった」

 そこまで話を聞いた紫薇は、「あっ」と声を上げた。

「荒殭か」

「ご明察。あれこそが夢の世界の乱れを引き起こした元凶だ。半年前、荒殭の存在が判明して以来、俺は武当山の洞窟に身を横たえ、夢の世界で荒殭の正体と発生源を探ってきた」

「その首尾は?」

「荒殭がなぜ発生したのか、また何によって生み出されているのかは分かった。夢の世界で出会った中に、この事件の関係者がいてね。そいつが教えてくれたんだ」

「関係者とは誰だ」

「倫道夫(りんどうふ)」

 紫薇には聞き覚えがない名前だった。

「彼は西域の色目人だ。俺たちとは別の世界線の、未来からやってきた。彼が言うには、俺たちの時代の何者かが彼から〝銀の鍵〟なる道具を盗み出し、それを使って〝外なる神〟と手を結んで、世界に混沌を呼び込んだ」

 世界線? また聞き慣れない言葉が出てきた。それに「外なる神」とは何者だ? 西域でいう耶蘇のことだろうか……? 未知の言葉に翻弄された紫薇は困り果て、「未来とはどういうことだ?」と聞いた。

「夢の世界に時空の軛は存在しない。遠く離れた場所の夢や、過去の夢、未来の夢が紛れ込むことは珍しくない。夢で見たことが現実になった、なんて話は腐るほどあるだろう? あれは未来の夢が時を超えて紛れ込む現象なのさ」

「うむ、分かった。何も分からんが分かったから、話を元に戻して続けてくれ」

「俺には、〝外なる神〟と手を結んだのが誰かまでは分からなかったが、あんたの話で理解した。死天教教主、魃瘋。そいつが犯人だ。夢の世界で魃瘋を倒せば、荒殭を止められる」

 さきほどから何も分からず混乱しっぱなしの紫薇であったが、「荒殭を止められる」という言葉を聞き、ハッとした表情で周天を見た。

「可能なのか?」

「あんたが協力してくれるなら。あんたがいればやつの居場所が分かる」

 周天はニヤリと笑い、紫薇に歩み寄った。そして、彼女の頭へと手を伸ばす。

「な、何をする!」

 驚いた紫薇が身を引こうとし、周天は苦笑した。

「妙な勘違いをするんじゃない。あんたの記憶──あんたが覚えている魃瘋の特徴を、俺に共有してもらうだけだ。あいつの外見や魂の形が分かれば、夢の力が俺たちを導いてくれる。嫌な記憶かも知れないが、魃瘋の姿や、やつが吐いた言葉を思い浮かべてくれ」

 周天が紫薇の頭に手を置いた。紫薇は戸惑いながらも、目を閉じ、金龍長城での出来事を思い出そうとする。魃瘋の禍々しい姿と、忌々しい言動の数々を。

 そして待つこと数秒。

「……見つけた」

 周天が呟いた。

「さあ、行くぞ唐小姐」

「小姐と呼ぶな」

「ああ、分かったよ。それじゃあ行くぜ」

 と、唐紫薇が頷こうとしたその瞬間、彼女の足下から地面が消えた。


★


「のわあああああああ!」

 紫薇は悲鳴を上げた。

 なぜなら、彼女の体が突如として宙に投げ出されたからだ。

 眼下のはるか遠くに地面が見える。どうやら、彼女がいる場所は、地上から数百丈離れた空の上らしい。周囲には紫の雲が浮いている。

 彼女の体は、地面に向かって高速で落下していた。このままいけば、数秒後には紫薇は地面に叩きつけられ、無惨な肉塊と化すであろう。

 恐慌状態に陥った彼女は手足を振り回すが、落下速度に変化はない。

 もはやこれまでかと彼女が目を閉じようとした、その瞬間。

「俺につかまれ!」

 力強い声とともに、黒い人影がこちらに向かって急速に飛んでくるのを目の端で捕らえた。

 黒い道服に身を包んだその姿は、

「周天!」

 紛れもなく、あの男だった。しかしどこか様子が変だ──そう思ったところで、紫薇は「あっ」と声を漏らす。なんと、黒い道服の袖から伸びる周天の腕が、鳥の羽に変じていたのだ。

 紫薇は半人半鳥の姿で飛来する周天に抱きついた。

「悪いな、驚かせちまって。まさかこんな場所に出るなんて思いもしなかった」

「いや、助かった! それよりこの姿は?」

「夢の世界に慣れていて、意思と想像力さえあれば、この程度の変化は朝飯前さ。それより、右下の方を見ろよ」

 紫薇が見下ろした先には、大きな岩が空に浮いていた。中央には人影が横たわっているのが見える。魃瘋だろう。岩の周りには、馬のような頭部を持った怪鳥が数百羽飛んでいた。

「あれは夏塔克(シャンタク)鳥。〝外なる神〟の忠実な下僕だ。魃瘋の野郎を守っているらしい。俺たちはあの群れを蹴散らし、魃瘋を討たなければいけない」

 そうこうしているうちに、夏塔克鳥たちが空に浮かぶ岩へと突撃していく二人に気付いた。怪鳥の群れは、金属を引っ掻いたような不気味な声で二人を威嚇する。

「小姐」

「小姐はやめろ」

「悪いが一つ頼みがある」

「私に出来ることなら」

「夏塔克鳥は俺がなんとかするから、魃瘋へのトドメはあんたに任せたい。いけるか?」

「任された」

「へへ、実はいまさらな話で恐縮なんだが、俺は昔から争いごとが苦手でね。どんな嫌なやつが相手でも、人を傷つけるところを想像するのが苦手なんだ。だからこの世界じゃ、俺の攻撃はあいつには効かないんだ。じゃあ早速、奥の手いくぜ!」

 周天が声を張り上げると、彼の道服の袖から光の粒子が漏れ出す。それは宙を舞い、集まり、鋭い形状と鋼鉄の翼を持った機械へと姿を変えた。

「不良道士め、またぞろ妙なものを持ち出したな」

「ああ、こいつは戦闘機という! 雷を意味する名が冠されている。音より早く空を飛び、鋼鉄の弾で敵を斬り裂く未来の兵器さ。こんなこともあろうかと、未来の人々が見た夢の欠片から、役立ちそうなものを失敬しといたんだ。さあ俺の切り札、頑張ってこいよ!」

 周天の号令に従い、戦闘機が飛び立った。未来からやってきた鋼鉄の凶鳥は、雷撃のような轟音を上げながら火線を吐き出し、夏塔克鳥の群れを撃ち落としていく。

「さて、しっかりつかまってろよ!」

 夏塔克鳥の群れを抜け、紫薇と周天は飛ぶ。やがて、岩山の中央に横たわった魃瘋の姿がはっきりと見えてきた。現実世界の魃瘋が起きているからだろう、こちらは眠っていて隙だらけだ。

「やああっ!」

 気合いの声とともに、紫薇が周天の体から飛び降りた。

「お前の負けだ、魃瘋」

 空中で短刀を抜いた紫薇は一条の矢となり、空気を斬り裂き落下する。

 必殺の刃が魃瘋の胸を過たず貫くと、魃瘋は瞳をカッと開き、驚愕の表情を浮かべた。

「おのれ、毒虫め……!」

 魃瘋の唇が苦痛に歪み、呪詛の言葉を吐き、紫薇の首に腕を伸ばす。

 しかし魃瘋の抵抗はそこまでであった。

 悪夢の主は体を激しく痙攣させ、その体は泥のように崩れ去った。


★


 虚空から銀色に輝く鍵が現れ、音を立てて岩の上に落ちた。

 紫薇は鍵を拾い上げ、近寄ってきた周天へと手渡す。

「これが例の、倫道夫とかいう男が持っていたという銀の鍵か?」

「ああ、そうだ。これがあれば、夢の世界ではたいていのことが出来るそうだ。物騒なもんだ」

 周天は鍵を受け取り、道服の懐に押し込んだ。

「終わったのか」

「ああ。夢の世界で滅ぼされた魃瘋は、現実で生きてはいられない。鍵を取り返したから、荒殭も収まったに違いない」

 そのとき、紫薇の体が淡い光に包まれた。

「これは……?」

 光は蝋燭の炎のように揺れ、彼女の体の輪郭が徐々に曖昧になっていく。

「小姐の体が夢から覚めようとしているんだろう。魃瘋が滅び、荒殭の効果がなくなったからな。現実に帰る時間が来たのさ」

 周天は朗らかにそう言ったが、紫薇は沈んだ表情で「そうか」と呟いた。

「嬉しくは……なさそうだな」

「当たり前だ。たとえあの者を成敗したとはいえ、失われたものは戻ってこぬ。夢から覚めれば目を背けたくなる現実が待っているのだ。どうして喜んでいられようか」

 紫薇がこれから帰る場所、それは荒殭によって文明が滅んだ世界であり、殭屍によって滅ぼされた成都だ。愛すべき家族や仲間は、一人も残っていないであろう。

「現実に帰るくらいなら、ここで自害でもしたほうがましだ」

 だが、そう言ってみたものの、紫薇の体はすでに半分ほどが靄のように変化し、手足を自由に動かすことすら叶わない。

「……あー」

 しばしの沈黙の後、不意に周天が間の抜けた声を出した。

「それなら、たぶんなんとかなる。というか、なんとかする。元通りにはならないだろうが、まぁその、なんとかはなるんだ」

「まことか!?」

「実はな、俺は時間をかけて夢の世界に細工をした」

 周天は笑うと道服の袖を軽く振った。その拍子に、袖から光の欠片が溢れだす。

「これは俺が拾い集めてきた夢の欠片、記憶の断片だ。さっき戦闘機を見ただろう? あんな感じで、いろんな夢の欠片を集めてきたのさ」

「手癖が悪い」

「まあね」

「して、その欠片を使ってどうする?」

 紫薇の目の前で、光は止めどなく溢れ続けた。

「俺はあんたと出会う前に、夢の世界のあちこちに陣を築いていたんだ」

 諸葛周天は悪戯小僧のような笑みを浮かべた。

「そいつで作り直すのさ。世界を」

 男は事もなげに言ってのけた。その手には、さきほどの戦いで取り返した銀の鍵があった。

「俺がかき集めてきた過去、現在、未来の夢の欠片。それらを銀の鍵で一つにして、世界を再び語り直す。しかる後に、諸葛家の陣法で夢と現実をひっくり返す。あんたもよく知る諸葛世家のお家芸、天の理を知り地の理を用いて運命を枉げ、不可能を可能にする神秘の技さ。もっともいまからやるのは、ご先祖達の理論に俺が余計な手を加えた外法だがね」

 紫薇は彼が何を言っているのか理解出来ず、言葉を失った。

「さて観客が一人とはちと寂しいが、諸葛世家の鼻つまみ者、周天の一世一代の大外法、いってみようか」

 身動きが取れない紫薇の目の前で、諸葛周天はわざとらしく見栄を切り、口の中で何かを唱えはじめた。

「にゃる、しゅたん、 にゃる、がしゃんな」

 荒涼たる夢の世界に、不思議な青詞が静かに響く。

「無貌の神、這い寄る混沌よ。異邦の友、倫道夫──ランドルフ・カーターより預かりし銀の鍵を通じ、諸葛周天が奉る。夢の国にて我が集めし記憶、未来と過去に散らばりし人々の夢の断片をもって、ここに新たなる世界を語り直さん」

 青詞を唱えながら、諸葛周天は道服の袖を振るう。するとそこからは靄のような光の粒が溢れだし、天へと昇っていった。

「而して、陰陽と天地は反転す。死門は生門に。生門は死門に。夢は現に、現は夢に」

 そうしているうちに、天に昇った光──夢の欠片は、巨大な蝶へと形を変えた。

「奇門遁甲(きもんとんこう)、八門逆進の陣。さあ、蝶よ飛べ。世界を創りかえよ!」

 青詞に呼応して、光の蝶が羽ばたきを始めた。それを見届けた諸葛周天は紫薇に向き直り、柔らかい微笑を浮かべた。

「さて、目覚める時間だ、小姐。あんたが目を覚ましたとき、すべては夢になっている。新しい世界が始まるんだ。なにぶん、夢の欠片から作り出した世界だから、俺たちの世界とは少しばかり違っているだろう。もしかしたら新しい世界には武功なんて存在しないかもしれないし、あんたは四川唐家の当主ではないかもしれない。でも、なんとかなるさ、たぶん」

 紫薇は、周天が何を言っているのかよく分からなかった。しかし彼が浮かべている微笑に、何か不吉なものを感じた。武人の勘だ。

「待て、こんなことをしてお前は大丈夫なのか!?」

「さてね。異邦の神の力を借りて、天地をひっくり返す大外法だ。ただでは済むまい。太上老君から大きな拳骨の一つか二つはもらうだろうが」

 紫薇は何か言い返そうとしたが、上手く声が出せなかった。彼女の体はすでに消えかかっていたのだ。

「まぁなんとかなるだろ。世の中きっとそういうもんだ。じゃあな、唐小姐。いや、唐大侠。縁があったらまた会おう」


★


「うっ」

 四川の豪商唐家の女主人・唐紫薇は、小さな呻きとともに目を覚ました。

 寝台から身を起こし、寝着の裾で額に浮いた汗を拭った。よく覚えていないが、おかしな夢を見ていた気がする。夢の中の自分は毒と暗器の達人で、何か得体の知れない怖いものと戦っていた。あれは一体何だったのだろう。うまく思い出せない。

 まぁいい。所詮は夢の話だ。

 身支度を整え、庭に出た。

 手入れされた庭園。何も変わらない日常。よく手入れされた桃や季の木が、朝の日差しの中で輝いている。

 平和な日だ。何も問題はない。しかし、何か大切なものを忘れている気がする。名状しがたい居心地の悪さを感じ、唐紫薇はため息をついた。そのとき。

 がさり。

 草木をかき分ける音に振り向くと、そこには一匹の猫。白黒のまだら模様になった毛並みを見た紫薇は、出来損ないの太極図みたいだと思う。

 茂みから飛び出してきた猫は、春の陽気に舞う蝶を追いかけていた。ひらひらと呑気に飛ぶ蝶と、それに向けて前肢を伸ばす猫。以前にもそんな光景を見た気がする。

 やがて紫薇の視線に気付いた猫は、首をめぐらせて「にゃお?」と間の抜けた鳴き声を上げた。紫薇の唇からふっと笑い声が漏れる。

 紫薇が「おいで」と声をかけると、蝶に飽きた猫は彼女の足下に寄ってきた。

 紫薇はその場にしゃがみ込み、猫を抱き上げた。腕の中で足をばたつかせる猫を見ているうちに、紫薇はなぜか心が安らぐのを感じた。

 ふと遠くに目をやれば、さきほどまで猫が追っていた蝶の姿が見えた。

 暖かな春の日差しを受けて蝶は飛ぶ。

 蒼天の下にあるは、ただ平穏の二字のみであった。

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