第4話 地下牢の女の警告どおり、親友が俺を売っていた
「……相変わらず、生きた人間の気配がしないな」
廊下を進むカシムが、独り言のように零した。
「そうだな。俺と……あの狂女以外には」
セイルは歩みを止めず、無機質に応える。
その視線は常に、目の前の虚空に描かれた魔導数式だけを追っていた。
「ははは、君らしい。だがセイル、君は時々、自分がどれだけ恵まれているか忘れているんじゃないか?」
カシムの足が止まった。
いつも通りの柔和な微笑み。けれど、その奥にある瞳が、今は湿った熱を帯びてセイルを射抜いている。
「君は、僕が欲しくてたまらないものを最初から全て持っている。……歴史ある爵位も、その天才的な才能も。……なのに、君はそれらを投げ打って、死者という過去に執着し、こんな澱んだ塔に引きこもっている」
カシムの剥き出しの本音。
だが、セイルは視線すら合わせず、淡々と返した。
「俺にとっては、そんなに価値のあるものではない」
一瞬、カシムの頬が引きつったのを、セイルは見逃さなかった。
「そうか、なら……。……いや、なんでもない。今日は君の研究に役立ちそうなものを持ってきたんだ。禁書の写しだよ。先へ行こう」
カシムはすぐに「親友の顔」に戻り、足早に歩き出す。
本来のセイルなら、今の言葉の断片など興味すら持たなかっただろう。他人の感情など、魔導の整合性に比べれば、道端の石ころ以下の価値しかないからだ。
(……だが)
脳裏に、地下牢のあの女――遥の声が、ノイズのように割り込んできた。
『セイル様、このままではあなた、死にます。……私、あなたを助けたいんです』
(……助けたい、だと?)
没落し、禁忌に触れた自分に向けられる言葉としては、あまりに非論理的で、あまりに不快なノイズだった。そもそも、そんなことを口にする人間など、今の彼の人生には存在しない。
かつて愛し、今は「禁忌の蘇生」の対象となってしまった婚約者。
そして、没落した自分に唯一寄り添ってくれた親友、カシム。
セイルの世界はその二人だけで完結していた。それ以外は、自分を蔑むか、利用しようとする「その他」でしかない。
だが今、カシムが漏らした「なら……」という言葉。
その欠落した続きが、地下牢の女の吐いたノイズと奇妙に共鳴し、セイルの脳内でひとつの巨大な違和感へと膨れ上がる。
(信じる、か。……そんな不確かな変数を、私の魔術式に組み込んだ覚えはない。……だが、カシム。お前の今の言葉は、あまりに「美しくない」)
セイルは歩調を一切変えずに指先をわずかに動かした。
空間の位相をミリ単位でズらす、彼独自の精密転送術。カシムの意識が「禁書」という餌に集中しているその一瞬。
(置換……完了)
カシムの懐にある「封筒」と、セイルが袖口に用意した「白紙の束」が入れ替わる。
セイルは袖の中で、指先の感触だけでその紙面を解析した。
(……!!)
指先に伝わってきたのは、昨日届いたという「白紙の手紙」などではなかった。
そこに刻まれていたのは、冷徹な圧力を放つ「聖教会の公式紋章」のエンボス加工。そして、今朝書き上げられたばかりの、熱を持った魔導インクの振動。
(……10月15日。……『身柄引渡し』。……カシムへの『男爵位授与』)
それは「偽物」などではない。
カシムが教会と密約を交わし、今日、この手でセイルを売り払うことを誓った、血のように生々しい「本物の契約書」だった。
(……なら、という言葉)
セイルは冷たく思考を巡らせる。
(なら、俺が持つものを奪っても構わないと? 爵位も、才能も――命さえも)
唯一の味方だと思っていたカシムの正体が、事務的な冷徹さで暴かれていく。
セイルは解析を終えた封筒を再び空間をずらしてカシムの懐へ戻した。
「……カシム。先に研究室へ行って、禁書の準備をしていてくれ。
……忘れたものがある」
「忘れ物? 珍しいね。……例の狂女のところかい?」
「……ああ、そうだ。あのノイズを、今のうちに完全に消し去っておきたくなった」
カシムは「君がそこまで固執するなんて」と笑い、意気揚々と去っていった。
セイルは一人になると、迷うことなく地下牢へと踵を返した。
感情で動いているのではない。
未来を口にし、あろうことか自分を「助けたい」などと抜かしたあの未知の変数が、一体どれほどの正解を握っているのか――それを、論理的に突き止めるためだ。
ガチャン、と重い足音が響く。
鉄格子の向こう。そこには、先ほどまで死を突きつけられていたはずの女がいた。
彼女は絶望に打ちひしがれているどころか、むしろ待ち人を迎えるような、不敵で、どこか確信に満ちた面構えで壁に寄りかかっていた。
セイルが戻ってくることを、最初から当然の帰結として理解していたかのような、異様な落ち着き。
「……お前に、聞きたいことがある」
鉄格子の隙間から、冷徹だが、どこか焦燥の混じった瞳が遥を射抜いた。
セイルの脳裏には、先ほど「解析」したあの忌まわしい紋章と、カシムの空虚な笑顔がまだ焼き付いている。
「おかえりなさい、セイル様。……思ったより早かったですね」
遥はゆっくりと顔を上げ、口角をわずかに釣り上げた。その表情は、セイルの目に、自分の世界の崩壊を嘲笑っているようにも、あるいは唯一の出口を示しているようにも見えた。




