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大失敗 (1/22 1706改変)

 きいちゃんはいつでも『わたしをみて』だった。

 寂しがり屋のかまってちゃん。


 家族でテレビを見ていると画面のど真ん中に座り、父が畳に新聞を広げて読むとその視線の先に横たわる。

 母が料理をしていると足に絡みついて鳴き、私が宿題をしていると鉛筆を持つ手にじゃれてきた。

 そんなきいちゃんの行動を楽しんでいたけれど、気持ちに余裕がないと状況が変わる。


 むかし。

 きいちゃんにイライラをぶつけてしまったことがある。

 あの時のきいちゃんの顔が今でも忘れられない。



 小学生の頃、習字が苦手だった。


 筆の先っぽを墨汁に付けて、半紙まで運ぶ。

 たっぷりつけ過ぎたら、途中で墨汁がぽたりと落ち、少な過ぎたら線がかすれてしまう。

 うまく書こうとすればするほど、自分の手と筆が言う事を聞かなくて、字の形もどんどん変になっていって、失敗の山がどんどんできていく。

 最初が上手くいったと思ったら途中で雲行きが怪しくなり、最後は早く終わってしまえという気持ちになる。

 鉛筆で書いた文字は消しゴムで消せるのに、毛筆は一発勝負だ。

 そんなところもすごく嫌で、頭の中もぐちゃぐちゃになる。

 授業中、いつまでもうまく書けなくて恥ずかしかった。

 みんなはすいすいと書き上げて、さっさと先生に出していく。

 ますます焦って、わけがわからなくなって、結局お手本からはほどとおい字を渡す羽目になる。


 習字なんか大嫌い。

 なくなっちゃえばいいのに。

 習字の授業がある日は朝から憂鬱だ。



 そんな私の冬休みの宿題の一つが『書初め』だった。


 明日が始業式の午後に、私はキッチン横の大きなテーブルに道具を広げて深呼吸を繰り返す。

 きいちゃんは父が寝室へ連れて行って隔離中。

 私と、筆と、墨汁と、半紙。

 よつどもえの真剣勝負の最中に事件が起きた。


 ガタン!

 

 後で何か音がしたのはわかっていたけれど、振り返らなかった。


 あともう少し。

 あと一つ。


 何度も何度も書き直して、ようやくお手本に近い形の字が書けているときだった。

 もうちょっとで終わる。

 息を止めて最後のはらいに取り組んでいたその瞬間だった。


「え……」


 ぱしんと手に何かが当たって、筆が離れてしまった。


「にゃあ……」


 気が付いたらきいちゃんのシマシマの胴体が目と鼻の先にある。


 そして、彼女は前足を持ち上げ、ふるふると振った。

 すると、黒い液体がピピピと飛んだ。

 ぺたんと。

 猫の足の跡が半紙について。

 さらには、前足の裏から放たれた黒い液体があちらこちらに散らばって……。


「な……」


 頭が真っ白になった。


「な、なにしてるのよ、きいちゃん!」


 叫ぶと、びくっと飛び跳ね、タン! と床に降りた。


「ひ……」


「わたしの、かきぞめ!」


 上手に出来たと思っていた。

 これを提出しようと思っていた。

 何度も何度も墨汁足して、紙をとりかえて。

 これでようやく終わりだとほっとしていた。


 なのに、最後のはねはあらぬ方向へ向いて、盛大な失敗作になってしまった。


「ひどい……。ひどいよ、きいちゃん」


 いつの間にかリビングの扉を開けて侵入してきたきいちゃんは、テーブルに飛び乗った瞬間、硯の墨汁が溜められているところに前足を突っ込んでしまったのだ。


「ぴゃ……」


 背中を丸めてととと……と後ずさりすると、絨毯の上にも黒い足跡がついた。

 年末に両親が買い替えたばかりの新しい絨毯。


 そんなことよりも、私は猛烈に腹が立っていた。

 だって、わたしの一生懸命をきいちゃんはだいなしにしたのだ。 


「ひどい! きいちゃんのバカ! どうしてくれるのよ、何もかもめちゃくちゃにして!」


 こんな大声が出るんだと、自分でもびっくりしていた。


「ばかばか、ばか猫! あんたなんか、だいっきらい!」


 でも、きいちゃんが許せなかった。


 腹が立って、腹が立って、どうしたらいいのかわからない。


「もう、いや。きいちゃんなんか、もう見たくない! どっか行って!」


 金切り声を挙げて、地団駄踏んだ。

 すると。



 きいちゃんは、とても怖かったのだろう。

 全身の毛を逆立てて、背中を丸め、長い尻尾は下を向き、耳は後ろに反っていて、目は大きく見開かれていた。


 そんな姿、初めて見た。

 まるで、化け物を見るみたいな、顔。


「あ……」


 そこで急に私の中の怒りが萎み、跡形もなくなった。


 残ったのは、やってしまった、という後悔と。

 やり場のない気持ち。


「どうしたの!」


 両親が慌てて駆け付け、驚きの声を上げた。


「あらあら、まあ……」


 母のどこかのんびりした物言いに力が抜けて、ぺたんと床に座った。


「きいちゃんが、ひどいの。私の、わたしの……せっかくの……がんばったのに……でも」


 母はそのまま黙って傍にきてくれた。


「ああ……ずいぶん盛大にやられたね。こりゃ、お姉ちゃんも、きいちゃんも、びっくりだね」


 父はそういうと、きいちゃんを抱き上げた。

 すると、小さく「……み、み、みゅう……」と微かな鳴き声が耳に届いた。


「うん、そうだね。びっくりしたね。怖かったね。だけど、きいちゃんも悪いよ。行っちゃダメってお父さん言っただろう」


 父がきいちゃんを抱きしめて、慰めて、優しく諭す声が聞こえた。

 


 良かった。

 きいちゃん。

 ごめん、きいちゃん。

 怖い思いさせてごめん。

 でも。

 怒りたい。

 怒っちゃだめ。


 なんだか、もう、何もかもいや。

 我慢できない。


「おかーさあんーーーー」


 母の膝にしがみついて、わんわん泣いた。

 




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