9ペニシリンと海軍工廠
「じゃ、僕は行くね。一樹はあまり鷹尾を困らせるなよ」
「お坊ちゃん、それ位わかってる。子供をあてにする程落ちぶれていないさ」
いや、めっちゃあてにしてんじゃん! あてにする気満々じゃん! いい大人が当てにしようと近づいているじゃん!
それにお兄様、見捨てて逃げないで? 気が付いているでしょ? この問題児が困った事言い出すに決まっているって事に、ね?
「青かびの学術名ですか? 鷹尾わかんないなぁ。何かの勘違いじゃないですか? 一樹兄様様。5歳の幼女にそんな知識がある訳ないじゃないですかぁー」
「いえ、お嬢様は頭おかしいレベルの頭脳をお持ちなので、おそらくご存じです」
茜ぇー! あなたどっちの味方? この悪人顔で迫って来る怖いおじさんから早く逃げだしたい気持ち察してよ! 焚きつけてどうするの? この人、なんか思いつめた顔で、目の上には隈が出来ているし、目つきがヤバい。
「なあ、頼む。お前は俺の母が怪我と肺炎の合併症で鬼籍に入ったと聞いた時、ペニシリンがあったら、と、そう言っていた。ペニシリン、青かびは人を救う術になりうるのか?」
「・・・それで学会に復讐したいんですか? 一樹従兄」
「違う。本当は学会なんてどうでもいい。俺は俺を庇って死んだ母に贖罪をしたいだけなんだ。俺はあの日誓ったんだ。母と同じ様な人を救う事が俺を庇って死んだ母への罪滅ぼしなんだと」
そう言えば蒼一郎兄様が言っていた。一樹兄様は母親を亡くしてから医学にのめり込んだって。
「お願いだ。俺はお前の為ならなんでもする。俺にお前の知っている事を教えてくれ! どうすれば肺炎の合併症を治す薬が開発出来るんだ? 頼む!」
・・・そう言って、土下座した。
「教えてくれたら、何でもする・・・頼む!」
悪人顔のブラックジャックは・・・意外とピュアの心の持ち主だったのか。この人、損しているわ。容姿は悪くないけど、顔の傷や目つき、ぶっきらぼうな話し方、嫌味ったらしい物言いで台無しになっている。
「私は電気は得意だけど、医学の方は少ししか。簡単に完成するだけの知識を教える事は出来ないのですわ。おそらく研究は数年がかりになります。それに必ず完成する程の知識は私も持っていません。それでもいいですか? 一樹兄様?」
「構わない。一縷の望みにかける。その為になら何でもする。教えてくれたら、今日から俺はお前のモノだ」
いや、一樹兄様はいらないかな・・・でも、そこまで思いつめているなら。
「ぶどう球菌の培養液に青かびを落して見てください。青かびの周囲のぶどう球菌は死滅する筈です。それを成した物質を抽出できれば薬は完成します」
「培養液?」
しまった。この時代には未だ培養液はなかったのか?
「リンゲル液の事か?」
「それは良くわかりませんが、ぶどう球菌がシャーレの中で活動を維持できる媒材の事です」
「それ位なら何とかなる」
良かった。培養液は何とかなるんだ。
「こ、こんなに簡単な事でいいのか?」
「そんな簡単な事ではないですわ。青かびなら何でもいいと言う訳ではありません。試行錯誤で色々な種類の青かび試す必要があります。それに抽出にはかなり研究を重ねないと難しい。ましてや効率的な薬品製造には確か・・・培地に何か浸透液を加える必要があった様な」
土下座していた一樹兄様は私を上目遣いで見て、目には涙を浮かべていた。
流石に母性が刺激される。
「やった! やったぞ! これで学会に復讐できる! はっ! はっ! わっはっは、はぁ!」
一樹兄様は突然立ち上がって狂った様に笑い始める。さながら狂気のマッドサイエンティスト。
私、ヤバいヤツにヤバい事教えちゃったかな?
「ですから・・・殿方にあざとさで負けてどうなされるおつもりですか?」
茜の止めの一撃に私のHPは0になった。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
まだいたのかこのマッドサイエンティスト。早くどっか行ってよ。血走った目で狂った様に笑う狂気の科学者は幼女じゃなくても怖すぎるから早くどっか行って欲しい、マジで。
「い、いや、別にもうどうでもいいかな?」
「そうはいかん。俺は誓約した、教えてくれたら何でもすると。誓約を果たさなければ俺の矜持に反する」
ちょっと困ったが、せっかくなので、何か私に必要な事はと思案する。
そうか、今の私に必要なのは海軍との接点だ。我が家は長州派の華族なので、陸軍よりで海軍とはパイプが無い。先程お兄様が数少ない海軍との接点を持って来てくれたけど、出来るだけ多くパイプが欲しい。
一樹兄様はこれでも一応東京大学出てるし、旧制中学も優秀なとこを卒業している。知り合いに海軍関係の人がいれば接触したい。作って欲しい物があるのよね。電気技術者の私には出来ないけど、基礎概念だけ伝えれば作ってくれそうな人が必要なの。
「なら海軍の関係者に知り合いがいいかな? 私、会社を経営しているでしょ? だから海軍の人に人脈作りたいの。出来れば海軍工廠の人とかだと最高かな」
「それなら俺の唯一の親友が海軍工廠で働いている。そいつなら紹介できる」
やった! 思わぬ処で繋がった。それも海軍工廠なんて最高じゃん!
「私の方も助かったわ。だから、今回の事はお互い様ってこと「俺はお前に一生忠誠を誓う。どんな事があっても俺はお前の味方だし、何でも俺を頼ってくれ」」
出来ればこれっきりの割り切りの関係にしたかったのだけど、忠誠まで誓われてしまった。
一樹兄様は私の手を取って手の甲に軽くキスする。
ひぇ。思わず心の中で悲鳴が出る。こんなヤツだけど、近くで見ると意外と顔はいい。
手の甲にキスするのは西洋の騎士の忠誠の証だけど、自分がされると思わず顔が赤くなる。
「お嬢様、顔が赤いです」
「う、煩いわね、茜のいぢわる!」
一樹兄様が去った後に茜が揶揄する。
「ですが、中々良い事をなされましたね。一樹様は真剣に医学に打ち込んでおられましたが、一昨年、脚気と栄養の問題の論文を提出したものの、学会で見向きもされなかったそうです。華族の遊びと決めつけられてしまい。照れ隠しで変な事を言われますが、本当は学会なんて興味が無い、ただ研究を認めてもらえないと先に進めないからと察します」
「・・・そっか」
私は一樹兄様を少し見直していた。生き方下手だけど、性根は真っすぐな人なのだな、と。
「ただ、これで一生お嬢様の恩恵にあずかるつもりらしいですね。お嬢様、男性は女性の涙に弱いと聞き及んでおりますが、男性の涙に弱い女なんてチョロ過ぎませんか?」
あのクソ野郎。私は心の中で毒づいた。
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