68日米開戦
一九四一年、十一月。アメリカ国務長官よりハルノートが通告された。
私はティーカップの縁から立ち昇る湯気の向こうで、戦略研究所から届いたばかりの機密レポートを凝視していた。
「・・・この世界線でも、やはり通告されるのね」
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
背後に控える茜が、私の微かな震えを察して声をかけた。
「アメリカ国務長官、コーデル・ハルから最後通牒――ハル・ノートが叩きつけられたわ」
史実と違うのは、今の日本には焦る必要が無い事。石油という資源をアメリカに依存していた過去とは異なり、今の私たちは満州やシベリアの資源ルートを確保している。依存しているのは貿易の利益のみ。タイムリミットのない日本は、粘り強くアメリカが妥協するまで交渉のテーブルに居座り続ければいいだけ。
「日米開戦があるとするなら、欧州の始末をつけてから。今はその時ではないわ」
「おっしゃる通りです。平和が一番ですものね。それに英国にとっても」
英国向けのリバティ船――一万トン級の輸送船が、月に三十隻という驚異的なペースで日本のドックで建造されている。第一次世界大戦を上回る未曾有の特需。日本は今、札束で空が曇るほどの景気拡大の只中にあった。
しかし、突然、蒼一郎兄様が絶叫を伴って踏み込んできた。
「鷹尾! 大変だぞ! アメリカが・・・アメリカの機動部隊が、トラック島を奇襲攻撃した!」
その瞬間、思考が真っ白に染まった。
「なんですって? ・・・どういうことですの。日本はまだ、ハル・ノートに回答すら出していないはずでしょう?」
「それが・・・外務省のミスで、アメリカへ逆に最後通牒を送りつけてしまったらしいんだ!」
「・・・内容を言って!」
「ハワイを含め、一九〇〇年以前の状態に戻せ。つまり、アメリカは太平洋から一切の手を引けという、正気の沙汰とは思えない通達だ」
背筋に氷を流し込まれたような感覚が走った。そんな言葉、今の大統領のプライドを粉砕し、全米を激怒させるための暴言でしかない。
「首相の判断もなく、そんな回答が出せるはずがないわ! ・・・外務大臣はどうしたの!?」
「・・・自殺したそうだ。だが、警察は他殺の線で動いている。・・・スパイだ。どこかの国のスパイが暗躍したんだ!」
ゾルゲ・・・。私の脳裏に、史実の日本で暗躍したソ連のスパイの名が浮かんだ。史実ではアメリカのハル・ノート作成にソ連のスパイが関与していたことが、後のヴェノナ文書で暴かれている。ならば、その逆がこの日本で起きていたというの?
この世界線では、日本はドイツと同盟を結んでおらず、むしろ英仏と共にドイツへ宣戦布告した。ドイツ人のゾルゲが暗躍する余地などないはず。
「・・・まさか、英国人に成りすました、ソ連のスパイ・・・!?」
歴史という名の猛獣が、私の知らない場所で、より狡猾な牙を剥いていた。
二週間前、ホワイトハウス――。重厚な執務室の空気は緊張感に支配されていた。
「大統領。国民の怒りは、もはや限界です」
冷徹な声が、暖炉の爆ぜる音を切り裂いた。
「貧困層の不満は日本という標的へ誘導していますが、知的階級は現政府の不甲斐ない結果に、憤りを感じている様です」
椅子に深く沈み込んでいた大統領――希代の極右政治家、アンドリュー・フォークは、絞り出すような声で応じた。
「・・・そのために、日本と開戦しろと? そう言うのか」
「アジアを再び白人の手に取り戻す、崇高な使命でございます。大統領、あなたが掲げた旗印そのものではありませんか」
「し、しかし・・・私はこれまでモンロー主義を貫いてきた。今さら日本と戦火を交えるなど、論理が支離滅裂ではないか!」
「我々は、下等なアジア人によって不当に経済を圧迫されているのです。この歪みを正すのは、選ばれし白人、そしてその頂点に立つあなたの使命・・・」
「その考えに疑問を抱く者も多い! 何より、兵士に多大な犠牲が出るではないか」
フォーク大統領の必死の抗弁を、側近は冷笑で一蹴した。
「大義を理解せぬ市民の利己主義に迎合する必要などありません。犠牲なくして大事業が成し遂げられた例など、歴史上、ただの一度も存在しないのですから」
「・・・その犠牲が、あまりに大きすぎるのではないかと言っているんだ! 私とて、そんな安易なヒロイズムで引き金は引けぬ!」
激昂する大統領。しかし、側近は懐から一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。
「大統領、冷静にこちらを。各州の最新支持率データです。我が共和党の地盤であるカンザス、ネブラスカ、サウスダコタ、ノースダコタ、アイオワ・・・そのすべてで、支持率がかつてないほど低迷している。これが何を意味するか、お分かりですね?」
「・・・まさか、再選が危ういというのか」
「ええ。ですが、我が党の研究機関が弾き出した予測によれば――百日以内に日本に対して圧倒的な軍事的勝利を挙げれば、支持率は最低でも10ポイントは回復します」
「・・・大統領選のために、戦争をしろというのか?」
「そうです。たかがアジアの猿如き、我がアメリカ軍の敵ではありません。政治とは最小限の犠牲で、大多数の富を確保するゲーム。・・・ご決断を、大統領」
フォークは沈黙した。流石の独裁者も、この一線を超えることには躊躇いがあった。だが、その沈黙を破るように、扉が激しく叩かれた。
「大統領! 国務長官より、至急の伝達事項です!」
「入れ・・・!」
飛び込んできた使いの男は、息を切らしながら書類を差し出した。
「日本が我が国に対し、最後通告を送ってまいりました! 内容は・・・アメリカは満州、フィリピン、さらにはハワイからも即刻撤退し、太平洋のすべてを返還せよとの事です!」
「ば、馬鹿な・・・! 日本人は狂ったのか!?」
フォークが驚愕に目を見開いたその時、それまで傍観していた国務長官次官補・ヒスが、主の言葉を遮るように低い笑い声を漏らした。
「――ちょうどいいのではないですか?」
ヒスの瞳には、冷酷な計算が宿っていた。
「これを国民に公開し、日本の艦隊を叩き潰せば、すべて解決します。あちらから恰好の口実を与えてくれたのですから」
大統領は一瞬、苦渋に満ちた顔を歪めた。しかし、次に彼が顔を上げた時――その表情には、すべてを焼き尽くす独裁者の光が宿っていた。
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