65一九三六年の世界情勢
一九三六年、二月二十六日。 史実であれば、雪の帝都がクーデターの恐怖に包まれていたはずだった。私はリビングのソファーに身を預け、旦那様との穏やかなティータイムを嗜んでいた。
窓の外には、騒乱の影も、くすぶる硝煙の匂いもない。でも、私の心には、拭い去れない一片の苦い後悔が沈殿していた。
「・・・あれは、私のミスですわ。命の恩人に報いることができなかった」
私はカップの縁をなぞりながら、唇を噛みしめた。 昨年、史実通りに発生してしまった相沢事件。だけど、凶弾に倒れたのは・・・永田鉄山ではなく、西田悦だった。
この世界線の西田さんは、かつての皇道派の教祖という思想を捨て、軍と政府の役割を説くシビリアンコントロールの先駆者・・・いわば官民を繋ぐ思想的プランナーへと転向していた。軍部はあくまで政治を支える剣であり、主役は国民と政治家である——。令和の時代なら当たり前の、けれどこの時代には半世紀以上も先取りした輝かしい思想。彼はそのカリスマ性をもって、陸軍の暴走に力強い楔を打ち込んでくれた。
・・・が、それゆえに。 変質してしまった時代の歯車は、永田鉄山ではなく、最も目障りな正論を吐く西田さんを標的に選んでしまった。
「あまり自分を責めるな。前にも言ったろ、鷹尾。お前は神様じゃないんだ。全ての人を救うことなんて、誰にもできやしないさ」
一樹が、静かな声で私を諭す。
「それは分かっていますわ。けれど、私は傲慢なの。一人でも多くの人を救いたいし、できればアメリカとの戦争だって回避したい。・・・欲張りなんですのよ」
「はは・・・そういう傲慢な鷹尾は、嫌いじゃないよ」
「あら。一樹だって、医術で救えない命があると本気で悔しがる、傲慢な性格じゃない。私も、そんな傲慢な旦那様が好きよ」
私たちは、お互いの傲慢さに苦笑いを浮かべ、二人で紅茶の香りで癒されていた。
思えば、私の見通しは甘かったのかもしれない。西田さんの思想転換によって皇道派は激減し、東北の貧困対策や、相次ぐ不祥事による軍部の権威失墜で、彼らは完全に壊滅したと信じ込んでいた。永田鉄山様に警護をつけるよう蒼一郎兄様に手配して、それで安心していた。
「・・・でも、あの事件をメディアが徹底的に報じたのは、怪我の功名でしたわ」
相沢事件が発生した際、メディアは皇道派と統制派双方の主張を公平に載せた上で、暴力による解決を強く糾弾した。かつては憂国の至情と持て囃された青年将校の暴挙が、今や国民の生活を脅かすテロとして冷ややかに突き放された。
「ああ、そうだな。おかげで陸軍の軍人も悟ったのさ。皇道派の理屈は、もはや誰からも支持されない。・・・その結果が、この静かな二月二十六日・・・そして今日というわけだ」
一樹の言う通り、窓の外に広がる帝都の街並みは、どこまでも平和な空気に満ちていた。史実の悲劇は、火の気すら見当たらないまま、歴史の闇へと葬り去られようとしている。
けれど、私は知っている。 この静寂は、西田悦という尊い犠牲の上に積み上げられた、脆くも美しい砂の城かもしれないということを。
・・・それは海外の関税問題。
「海外に目を向けると・・・決して平和とは言えない。諸悪の根源は一九三〇年のアメリカ、スムート・ホーレイ関税法。保護主義という名の殻に閉じこもり、世界を分断の深淵へと突き落としているわ」
私は溜息まじりに、カップの中の琥珀色の液体を揺らした。その分断に強烈な楔を打ち込むべく、涼宮財閥の全面支援を受けた犬養首相が開催したのが東京経済互助会議。
「あの時の犬養首相のプレゼンは凄かったな。世界初のカラー放送ってだけでも衝撃なのに、まさかジーンズに黒のTシャツ姿で登壇するとは。俺も度肝を抜かれたぜ」
「ふふ、私の未来知識だけど、インパクトは絶大だったでしょ?」
「ああ。聴衆の心をグイグイ引き寄せていたよ。内容は・・・ブロック経済の行き着く先は対立と第二次世界大戦であるという警告。そして、隠し玉だった帝政東ロシアの巨大な市場データの開示・・・」
内政を立て直した東ロシアは、今や日本に匹敵する購買力を持つ黄金のマーケット。あのプレゼンに、イギリス、フランス、ドイツは即座に食いついた。結果、日英仏独は互いに関税強化を見送り、自由貿易圏を確立。・・・もちろん、ソ連は呼んでいない。東ロシアを承認し、ソ連を無視するわが国の立場を鮮明にする、私の入れ知恵。
「けれど、アメリカだけは相変わらずね。満州の門戸開放ばかり叫んで、勝手に独走しているわ」
「原因は日米貿易摩擦か。日本車がアメリカでバカ売れして、逆に向こうの自動車が日本で売れない。アメリカ国民は怒り狂っているらしいな」
「メディアが世界恐慌の原因は日本だ、なんて根拠のないデマを流すから、意地になって六〇%もの高関税を堅持しているのよね。そのくせ、東ロシアの市場には参入させろ、アメリカだけ関税を撤廃しろなんて・・・あまりに自分勝手な言い分だわ」
これには欧州各国も呆れ果てて抗議したが、アメリカの選択は決定的な悪手。今の日本製品は安価で高性能。そこに六〇%もの関税をかければ、アメリカ国内でインフレが起きるのは自明の理。
「関税を盛っても、日本車の魅力は落ちなかったようね。高性能、低燃費、そして洗練されたデザイン。アメリカ政府に不満を漏らすアメリカ人が増えているそうよ」
「欧州でも日本車は人気だが、あちらはデザインの方向性が違うから、互恵関係が築けている。高度経済成長期に入ったわが国の国民も、欧州の小型車を買えるくらいには豊かになっているしね」
アメリカ車が売れるのは、もはや自国と、慈悲で参入を許された東ロシアくらい。それも、東ロシアの民衆は日本車や欧州車を熱望しており、アメ車は大幅値引きでもしなければ見向きもされない有様。
「それにしても、チャーチルさんに恩を売っておいて正解だったわ」
私は紅茶を一口含み、不敵に微笑みました。
「これだけ嫌がらせをされるなら、輸出の自主規制や現地生産なんて協力、してあげる謂れはございませんこと。ルーズベルト氏も焼きが回ったようですわね」
「だが、あちらは関税を一〇〇%に引き上げるという噂もあるぞ?」
「受けて立ちますわ。スバルは年内にスバル1000を投入します。価格据え置きで性能は三倍。アメリカ人はダブルスタンダードですから、日本をこき下ろしながら、ちゃっかりスバルを購入するはずですわ。トヨタや日産も、わが社の技術を供与した電子制御式直列六気筒エンジンを開発済。・・・アメリカの牙城である大型車のシェアすら、奪い取って差し上げますわ」
ナンセンスだ、というポーズを取る一樹。けれど、私の心には一つの不安が影を落としていました。
「・・・これで史実のABCD包囲網は回避できたわ。むしろA抜き包囲網の完成ね。・・・けれど」
ドイツでは、史実通りヒトラーが総統に就任。 植民地を持たず、膨大な負債を抱えたドイツが、開戦という狂気へ突き進むのは火を見るより明らか。
「次の大戦・・・わが国も再び、欧州戦線に参加することになりそうですわ」
そう告げて息を呑む旦那様の、憂いを帯びた顔に思わず見惚れてしまいました。・・・自分の言っていることの深刻さを、一瞬だけ失念してしまうほどに。
読んで頂きまして、ありがとうございます。
・面白かった!
・続きが読みたい! と思っていただけたら、
ブックマーク登録と、評価(【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に)して応援していただけると嬉しいです。
評価は、作者の最大のモチベーションです。
なにとぞ応援よろしくお願いします!




