12T型フォードは偉大だとつくづく実感
1907年、7歳になった私は尋常小学校に通いながら会社の為に健気に働いていた。
「お嬢様、早く起きて下さいませ。また遅刻しますわよ」
「あと五分、いや三分でいいから」
「駄目です!」
頬っぺたをこれでもかとつねられて茜に無理やり朝のまどろみを邪魔される。
「もう時間がございません。さっさと制服に着替えて、食事は食パンを咥えながら走って下さいませ」
「そんな~」
そう言って制服に着替えて登校の準備をする。ちなみに制服はセーラー服だったりする。この当時、西洋では子供服にセーラーが流行しており、うちの学校の制服はセーラーだった。
ちなみにデザインは私だったりする。令和のテイストを混ぜたかなりの自信作。
普通の白に青の大きな襟に赤いリボンというベタな色使いでは無く、落ち着いた薄い茶色とグレーにリボンは赤という配色。いやが上にも女子に人気の学校になった。
・・・ただ。茜のおかげでスカートの丈を無理やり織り込んで短くされてミニスカートにされた。
「良くお似合いですわ。お嬢様」
「茜の意地悪。もし、性犯罪に会ったら一生恨むからね」
「お嬢様に指一本でも触れたらわたくしが一刀両断に致しますのでご安心ください」
いや、高校生位の女の子に守られていても、あんまり安心感ないよ。
華族や有力な資産家が多く住む六本木あたりだから治安はすこぶるいい。変態のおじさんに出会う確率はほぼ無いと言えば無いけど・・・やっぱり恥ずかしい。
同級生の男の子なんか視線を逸らして顔を真っ赤にしている位だ。
女の子には好評なんだけど、マネする子はいない。
明治後半の今の時代じゃ当然だ。着物に袴位の時代にミニのセーラー服とか痴女レベルかもしれない。だって、ちょっと前にるろうに剣心いた時代なんだよ。
でも、茜に無理やり・・・その茜もミニスカートのメイド服で注目を集めていて、ようやく彼女の気持ちがわかった様な気がする。
・・・だからか。観念する。
学業は所詮小学生レベルなので、令和の三十路を生きた私にとっては無意味だけど、同年代の女の子とのおしゃべりはかなり安らぐ。
転生前の私は子供の頃から暗くておしゃべりなんてできなかったけど、華族の有力者ということもあって、あちらから話しかけてくれるので、自然に友達が出来た。
始めての友達が小学生の頃からなんて感激である。
そんな感じで、学業に抜かりは無いが、会社の方は毎日難題だらけだった。
電球が飛ぶように売れたので、生産設備の増設を行ったけど、この当時の工作技術は拙くて、中々図面通りの公差になっておらず、検査落ちする部品が多かった。
そもそも現在の日本の工作機械は古い物が多く、日々急成長している海外の工作技術と比べるのは酷な話だとも思えた。
幸い、電球や真空管の輸出でたっぷり外貨を稼いでいたので、アメリカやイギリス、ドイツから工作機械を購入して、スバルの子会社として、太田製作所を開業。おかげで工作精度は各段に向上した。
その後、国産化を図り、太田市に我が社の仕事にターゲットを絞った創業が相次ぐ中、涼宮銀行の融資で安価に工作機械を提供する事にした。将来の飛行機製造の布石にもなりそうだ。
その他、アメリカ流の生産管理体制を指導するなどを我が社の協力会社に行った。
説明用資料にはT型フォードの生産体制を例に出した。
製品・部品の標準化、製造工程の流れ作業化、ベルトコンベアシステムの導入など、熟練工なしで未熟練労働者でも効率的に大量生産を可能にし、徹底的な無駄の排除と低価格化を目指した。
この講習会は極めて好評で、東京からわざわざ来訪される方がいた程だ。ちなみに太田市には東武伊勢崎線が既に開通している。お父様の影響らしい。
私は更に旋盤やボール盤、フライス盤を電動化し、生産性の向上を目指した。もちろん、これらは太田製作所から全国に販売される。
現在研究中の二点式トランジスタの目途もたったし、将来は集積化、つまりICチップの製造も視野に入れている。
また、本来のスバルの創業者中島知久平氏を一樹兄様の友人、高木少尉つてで海軍から引き抜き、入社させた。
現在はアメリカに留学してもらっている。たっぷりお勉強してもらって、無理やり飛行機を作らせよう。
それに加えて、矢頭良一氏を招聘。史実で彼は助膜炎で亡くなるのだが、結核治療薬を投与して生き長らえる事になる。
私の囁きで一樹兄様はリファンピシン、イソニアジド、ピラジナミド、エタンブトールと次々に抗菌薬を完成させて・・・マジであの変人は天才なんじゃないかと思う。これらはあまり私も記憶してない。ただ、結核にペニシリンは効かないと囁いた事と、病原菌と戦う方法、無菌室や空気感染対策のための空調設備の概念を伝えただけだ。
矢頭氏は機械式計算機の生みの親で、ネームド級偉人と言える。令和出身の私にはピンとこないが、昭和の時代なら有名な人だったんじゃないかなと思った。
彼はその後、航空機用発動機を研究し、スバルは彼に航空機用発動機の開発を一任した。
そして、史実より早い1909年に国産星型エンジン NA0が完成する。
この八十馬力のエンジンは初期の中島の航空機設計に影響を与え、水上機開発を加速させた。
読んで頂きまして、ありがとうございます。
・面白かった!
・続きが読みたい! と思っていただけたら、
ブックマーク登録と、評価(【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に)して応援していただけると嬉しいです。
評価は、作者の最大のモチベーションです。
なにとぞ応援よろしくお願いします!




