嘘だろ
「超人ウイルス。」
大二郎は、トーストにマーガリンを塗る手を止めた。
テレビでは、どのチャンネルでもそのニュースをやっていた。同じ内容が、繰り返し繰り返し放送されていた。
―昨日より、急に超人的力のついてしまった人が増大しています。東大の岡崎教授によりますと、これはウイルスの仕業である可能性が高く、すでに今朝までに都内では9割の人が感染したとみられています。あまりに唐突な力のため、混乱が広がっておりー…
「世も末だな。」
と、父親がコーヒーをすすりながらコメントした。どんなニュースを見たってそう言うのだが。
がっしゃんと大きな音がして、大二郎は振り向いた。キッチンでは母親が、へし折れたフライパンを手に、しょぼくれた顔をしていた。
「またやっちゃった。どうしてもまだ慣れないわね。ちょーっと角にぶつけただけなのにね~」
大二郎が何も言わないうちに、リビングに高2の妹、桂子が顔を出した。
「お父さん、車、表に持ってきといたから。」
「ありがとう桂子。どこも壊さなかったか?お父さんは昨日、車ずらそうとしてドア凹ませちゃったんだよ」
桂子はちょっと楽しそうに答えた。
「たぶん大丈夫。ね、ほんとわくわくするよね。なんかマンガのヒーローみたいだもん。ほら」
ジャンプすると、らくらく天井に触ってみせた。
「やめなさいよ、桂子。はしたないでしょ。」
母親がたしなめた。が、桂子はちょっと唇を突き出してみせただけだった。
桂子がリビングから出ていくと、父親が新聞を畳みながら言った。
「さすがに子供は新しいものに慣れるのが早いね」
桂子が何をやっても、こう言うのだが。
大学につくと、大二郎はまず掲示板を見に行った。
掲示板には、思ったとおりの張り紙がしてあった。それを読んでいると、土屋がすぐそばに現れた。土屋は学科1番の秀才だった。
「おはよ、土屋」
「おはよう。せっかく君が遅刻しなかったってのに、実験は休講、とは残念だね?」
大二郎は、皮肉っぽい言い方に苦笑いしながら、
「まったく残念だ。うっかり顕微鏡叩き壊そうと思ってたのに」
と答えた。
土屋は、やや眉を動かして、大二郎の顔を見つめた。
「そうか…じゃあ、知ってるか?」
「何をだよ」
土屋は急に声を落とし、大二郎は耳を寄せた。
「この世界的な超人ウイルスの蔓延は、感染してないやつらの陰謀だってことをさ」
は?と大二郎が土屋の顔を見た。
土屋の目には、言葉の効果を楽しんでいる色が浮かんでいた。
そして聞いてもいないのに、べらべらと話し始めた。
「僕は反対組織を立ち上げるつもりなのさ。もう何人もが僕に賛同してくれてる。君の困惑も無理ないが…このウイルスの秘密を知ったら、僕に賛同してくれることだろう。」
そしてまた、大二郎の目を覘く。
「知りたいか?」
大二郎は気がついた。こいつは朝からここにいて、このお楽しみを、掲示板を見に来た学生一人一人に仕掛けているに違いない。大二郎が何か言おうと口を開きかけたとき、土屋がしっと言った。
誰かの足音が聞こえた。
「この話はまた今度な。」そう言って土屋はウインクし、足早に去って行った。
「あれ、大二郎じゃん」
ひょっこりと磯田が顔を出した。
「磯田…20歳にもなったオトコがオトコにウインクなんてするか?普通」
「え?されたの?お前好かれてるんじゃないの」
大二郎は寒気がした。
「冗談やめろ」
2人は、グラウンドの端の芝生に座って、パックの紅茶を飲んでいた。
「暇だな。」
大二郎がつぶやいた。
「ああ。だけどみんな自分の力で遊ぶことに夢中だよな。」
グラウンドには、大きな穴がいくつもあいていた。サッカーのゴールは小さく折りたたまれていたし、植木も何本か引っこ抜かれていた。
「磯田は、遊ばないのかよ?」
「おれ昨日さんざん試したから。おかげでだいたい何ができるかわかったし、力加減もつかんできた。」
なるほど、と思いながら、大二郎は何か違和感を感じていた。それが何かはわからなかった。
あーあ、と大二郎は伸びをした。
「なんで俺には感染しないんだろうな。素行が悪いからか?」
ははと自分で笑ったが、磯田は
「わからん」
とだけ答えた。なにか物思いにふけっているようだった。
場が白けたついでに、大二郎は何か食うもん買ってくる、といって立ち上がった。
磯田はまた、生返事を返しただけで、ぼーっとグラウンドを見ていた。
生協で総菜パンを買っていると、外の自販機をひっくり返している高校生たちが2,3人目に入った。近くの高校の制服だった。
パンを買って、外に出ると、同じ学科の美原が、高校生たちに注意しているのが見えた。
「ちょっと、やっていいことと悪いことがあるでしょ?子供じゃないんだから、そのくらい自分でわかりなさいよ!」
美原は少し気が強いことで有名な空手部副主将だった。
高校生たちは、注意を素直に受け止められなかったようで、美原に掴みかかった。
あっという間に、美原の鉄拳が飛ぶ。
ひとりが10mも吹っ飛ばされたが、タフなことに、起き上った。
そして、頭を使ったらしく、3人は美原を取り囲むように散らばった。
いくらウイルスに感染した美原でも、3人相手には分が悪いに違いない。
大二郎は考えた。
誰かいないかと見回すけど、休講となった大学の閑散としたこと、この上ない。
1人が美原に吹っ飛ばされてる間に、2人が美原の両腕をつかんだ。
動くしかない。ほんとはやだけど。…こういうのはヒーローがやるもんだ。
「おい、お前ら…女の子一人いじめて楽しいか?」
3人の顔が、一斉にこちらを向いた。
ああ、ほんとやだけど。
「そいつを離せ。」
ダメもとで、どこかのヒーローのセリフを口にした。
すると、意外なことに美原を捕まえていた2人はおとなしく美原を離した。
美原も、高校生も、ぽかんとして大二郎を見ている。
一番わけわかんなかったのは大二郎だったが、大二郎はこの機を逃さずにたたみかけた。
「行けよ。高校生はおとなしく受験勉強してろ」
高校生たちは、不思議そうな顔のまま、校門から出て見えなくなった。
わけがわからないが、不良から女の子を守ったのだ。当然お礼の一つもしてもらえるもの、と美原を振り返った大二郎は、まさか疑惑と不安のまなざしに会うとは思ってもみなかった。
「田代…くん。まさかあなた感染してないの?」
大二郎は、なんでそれがばれたのかはわからなかったが、気圧されて頷いた。
「なんかあっさりで助かった。おれ、そんな強そう?」
冗談のつもりだったが、美原はにこりともしてくれなかった。一層白くなりながら、大二郎をにらみつけている。
「じゃあ、土屋くんの言ってたこと、本当なのね?」
「陰謀がどうとかいうやつ?あんなばかばかしいこと…」
「ごまかさないでよ!!抗体を持ってる人の命令には、私たちが背けないようにしたんでしょ!」
きーん、と言葉が耳に響いた。
なんだって?
だからあいつらもおとなしく従ったってのか?
そんな馬鹿な。
完全にヒステリーを起こした美原が、きびすを返して走り始めた。
「待てよ美原!」
美原が止まった。
こっちを向かないが、泣いているのがわかった。
「ごめん、撤回。待たなくていい。よかったら教えてくれないか…」
大二郎が言い終えないうちに、美原は走り去っていた。
「うそだろ…。」