プロローグ:日常に潜む異変
ありふれた朝だった。少なくとも、そう思おうと努めていた。
キッチンのトースターが軽快な音を立て、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂いがリビングに満ちる。母の鳴神咲子が、テレビの天気予報に合わせて口ずさむ鼻歌は、今日も完璧な音程だった。窓から差し込む初夏の柔らかな光が、テーブルに並んだガラスのコップに乱反射し、小さな虹のかけらを壁に散らしている。
ありふれていて、平和で、そして、かけがえのない時間。
「悠真、また夜更かししたでしょ。目が覚めてないわよ。ほら、最近なんだか体調崩す人が多いっていうから、ちゃんと寝なさいって言ってるのに」
「ん……ああ、おはよう、母さん」
階段を下りながら、俺はわざと大きな欠伸を噛み殺した。心配性の母さんの小言はいつものことだ。俺は「大丈夫だって」と曖昧に返事をしながら席に着く。目の前には、完璧な半熟の目玉焼きが乗った皿。これも、いつもの光景。
向かいの席では、父の大和が静かに新聞に目を通している。まるで彫像のように微動だにしない父と、陽気に動き回る母。この対比も、我が家の日常の一部だった。
「父さんも、おはよう」
「ああ、おはよう、悠真」
父は新聞から顔を上げない。だが、その声には無視できない重さがあった。
「昨日の剣道の練習、少し熱が入りすぎていたんじゃないか? 物を壊すのは感心しないぞ」
その一言に、俺は喉に詰まった味噌汁を必死に飲み下した。
「げほっ……な、なんでそれを……」
「家の道場だからな。柱の傷を見ればわかる。あれは竹刀でつけられる傷ではない」
平坦な口調。だが、その言葉は俺の心臓を鷲掴みにする。見られている。いや、見透かされている。この人には、何もかもお見通しなのだ。
「……ごめんなさい」
小さく謝罪の言葉を口にすると、俺は逃げるようにトーストに噛みついた。味なんて、ほとんどしなかった。
脳裏に、昨日の光景がフラッシュバックする。
自主練習の最中、道着に着替えるのも億劫で、ただ無心に竹刀を振っていた。その時だった。体の中から奔流のように溢れ出した、あの得体の知れない力。踏み込んだ足が家の道場の床板を踏み割り、振り下ろした竹刀が空気を切り裂く音が、まるで生き物の咆哮のように聞こえた。俺は咄嗟に手首の向きを変えたが、勢いを殺しきれなかった竹刀は、道場の太い柱に深々と食い込み、ミシリ、と木材の断末魔のような悲鳴を上げさせたのだ。
道場には俺一人。誰かに見られたわけではない。だが、だからこそ、言い訳のできない絶対的な事実として、自分の異常性が目の前に突きつけられた。柱の傷が、俺が「普通」ではないことの動かぬ証拠となって、静かに俺を見下ろしていた。それが何よりも俺を傷つけた。
「普通」でありたい。
友達と馬鹿な話で笑い、部活に汗を流し、週末の約束に心を躍らせる。そんな、誰もが当たり前に享受しているであろう日常が、俺にとっては焦がれるほどに眩しい。この異常な力は、そんなささやかな願いすら、いともたやすく打ち砕いていく。
「ごちそうさま!」
重苦しい空気に耐えきれず、俺は食器を片付けるのもそこそこに玄関へ向かった。背後から「いってらっしゃい」という母の声と、新聞をめくる父の乾いた音だけが聞こえた。
リビングの隅の神棚に、父が毎朝供えている瑞々しい榊の葉が、エアコンの風も無いのに微かに、しかし確かに揺れたのを、俺は気づかないふりをした。
逃げるように家を飛び出すと、むわりとした夏の空気が肌にまとわりついた。通学路の角で、幼馴染の橘美琴が待っていた。苔むした古い地蔵が祀られた、いつもの待ち合わせ場所だ。
栗色のショートヘアを揺らし、俺を見つけるとパッと笑顔を向ける。だが、その笑顔は一瞬で心配そうな色に変わった。
「おはよ、悠真。……って、うわ、すごい顔。また寝坊助さん?」
「うるさい。美琴こそ、なんか今日、顔色悪くないか? 目の下にクマできてるぞ」
「え? あー、うん、ちょっとね。変な夢見ちゃって」
美琴はそう言って力なく笑うが、誤魔化しきれていない。彼女は、俺の家からほど近い響淵神社の一人娘。そして最近では、その占いの的中率から、一部では「翠窪の巫女姫」なんて呼ばれているらしい。本人は「占星術の統計と、ちょっとした直感よ」と謙遜するが、その「直感」が常軌を逸していることを、俺は誰よりも知っていた。
「どんな夢だよ」
「うーん……なんて言ったらいいのかな。すごく高い塔が、黒い霧みたいなのに飲み込まれて、ガラガラって崩れていくの。たくさんの人が叫んでて……。すごく、リアルだった」
彼女はそう呟くと、左腕につけた古めかしい銀のブレスレットを無意識に、しかし強く握りしめた。橘家に代々伝わるという、精巧な模様が刻まれたお守りだ。その手が、かすかに震えているのを俺は見逃さなかった。
彼女の悪夢の話は、なぜか俺の胸をざわつかせた。黒い霧。叫び声。まるで、俺自身の内に潜む破壊衝動と共鳴しているかのようだった。
「なあ、この街って、やっぱり少しおかしいよな」
二人で歩きながら、俺はぽつりと呟いた。
俺たちが住む翠窪市は、かつてこの国の首都だった場所で、直径20kmの巨大なクレーターの盆地に築かれた都市だ。切り立った崖のような外輪山に四方を囲まれ、外界とはいくつかのトンネルで繋がっているだけ。まるで巨大な鉢の底にいるような、独特の閉塞感と一体感がある。街のどこからでも、中心部に小高くそびえる響淵神社の森を望むことができた。
近代的な高層ビルやショッピングモールが立ち並ぶ一方で、路地裏に入れば古びた石碑や祠が当たり前のように残っている。最先端と古代が、奇妙なバランスで同居する街。それが、俺たちの故郷の姿だ。
「昨日の夜さ、やっぱり変な霧が出てたと思うんだよね」
美琴が、俺の言葉を引き取るように言った。
「ただの霧じゃないの。重くて、じっとりしてて……街の音が、全部それに吸い込まれていくみたいな……。なんだか、すごく嫌な感じがしたんだよね」
彼女の言葉に、俺は通りの人々へと目を向けた。言われてみれば、皆どこかイライラしているように見える。クラクションを無駄に鳴らす車、すれ違いざまに舌打ちをするサラリーマン。街全体が、低い熱を帯びているようだ。
その時だった。
駅前の広場に設置された、壁のような巨大ビジョンが、けたたましい警告音と共に、華やかなアイドルのCMから緊急ニュースへと切り替わった。広場を行き交う何百という人々の足が、一斉に止まる。雑踏のざわめきが、嘘のように静寂へと変わった。
画面には、緊張した面持ちの女性アナウンサーが映し出される。
『翠窪市より緊急ニュースです。本日未明から、市内の一部地域で原因不明の集団的な体調不良を訴える住民が続出しています。現場からの中継です』
画面が切り替わり、見慣れた住宅街が映る。何台もの救急車が赤色灯を回し、その無機質な光が、周囲の家の窓ガラスに反射して明滅している。マイクを握ったリポーターの背後で、まるでSF映画に出てくるような白い防護服を着た職員たちが、慌ただしく動き回っていた。
現場にいた医師へのインタビュー映像が流れる。
『原因は全く分かりません。ウイルス性の疾患ではない。それなのに、患者さんたちは皆、激しい頭痛と倦怠感、そして……奇妙なことに、深い絶望感を口にしているんです。まるで、生きる気力そのものを奪われたかのように……』
深い、絶望感。
その言葉が、俺と美琴の間に重く落ちた。
広場の空気が、一瞬にして冷えた気がした。夏の日差しは変わらず降り注いでいるのに、肌を撫でる風がぞっとするほど冷たい。
俺の中に渦巻く、制御できない力。
美琴が見た、崩壊の悪夢。彼女のブレスレットの微かな反応。
街を覆ったという、不気味な霧。
そして、人々の気力を奪う、謎の集団疾患。
点と点が、線で結ばれていく。それは、俺たちが目を逸らしてきた、ありえない可能性の輪郭を、残酷なまでにはっきりと描き出していた。
俺と美琴は、言葉もなく顔を見合わせた。
美琴の「嫌な感じ」が、ただの気のせいではないことを。
そして、俺たちの平穏な日常に走った見えない亀裂はもう、二度と元には戻らないであろうことを、この時の俺たちは、確かな予感として理解していた。
これは、終わりであり、そして何かの始まりだった。
これから何が起ころうとしているのか、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、俺たちはもう、ただの高校生ではいられないということ。
この街に渦巻く謎の中心へ、否応なく引きずり込まれていく。
俺は、美琴の震える手を、強く握りしめた。
その温もりだけが、これから始まる物語の中で、唯一の道しるべになるような気がした。