第79.5話 帰郷を願う王子の祈り
『帰郷を願う王子の祈り』
王城の高塔、書斎の窓から差し込む陽光が、磨き上げられた机の上に細く影を落としていた。
ノルド王国第六王子、ユリウス=ノルドは、椅子に深く腰掛けながら、手にした手紙をじっと見つめていた。文面は短い。だが、その文字の一つ一つが、彼の胸に深く沈んでいく。
――セリア=ルゼリア=ノルド、及び、カール=キリトの帰国の意思なし。
公式の返答でも、外交的な拒絶でもない。ただ、彼らの友人を通じて届いた、柔らかだが確固たる意思表示だった。
強引に、無理やりにでも連れ戻そうとした自分が、愚かだったのかもしれない。
ユリウスは小さく息を吐き、机に手を乗せた。表面に残るわずかな傷――それは幼い頃、セリアと戯れた際についたもので、今ではただの記憶の痕跡となっていた。
「……昔と同じやり方では、もう動かないか」
呟いた声に、誰も応えない。
あの頃のセリアは、王族としての役割を果たそうと懸命で、義務に忠実だった。だが今の彼女は、自らの意思で生きる術を知り、強く、そして美しくなった。
過去のように、「帰ってこい」と命じるだけでは、彼女の心には届かないのだ。
ユリウスは立ち上がり、窓の外に目を向けた。
春の風に揺れる庭の花々、その先には、城下町の人々の暮らしがあった。彼らの平穏の裏に、どれほど多くの犠牲と悲しみがあったかを、彼は誰より知っている。
そしてその中に、ルゼリア家の滅びも、セリアの追放も含まれている。
「……待つしかない」
強制は、二人の心を遠ざけるだけだ。
ならば、来たくなる理由を与えることこそが、自分にできる唯一の贖罪かもしれない。
彼女には知人がいる。幼き頃に共に学び、笑い合った友人たち。今も王都に住まう者も多い。ひとり、またひとりと、彼女を想い、静かに日々を過ごしている。
ユリウスは、彼女の親しい人物の中でも特に信頼の厚い一人――元侍女長のエルミナに宛てて、手紙を出すことに決めた。
手紙の文面は丁寧で、押しつけがましくならないように言葉を選んだ。
――「もし、セリア殿が一度でも王都を訪れてくださればと願っております。私からの言葉としてはおこがましいかもしれませんが、彼女の父上……ルゼリア公爵の墓も、王都にございます。どうか、一度お参りだけでもとお伝えいただければ幸いです」
自分から迎えに行くのではない。
ただ、門を開けておく。
心が向いたときに、戻れるように。
ユリウスは手紙を封じると、蝋で印を押し、そっと机に置いた。
ふと、父・ユリウス五世の姿が脳裏に浮かんだ。
かつてのあの怒り。その裏にあった悔しさと喪失の苦しみ。
そして、母アリステリアの沈黙――
彼女が再び王宮に足を踏み入れる日は、いつ訪れるのだろう。いや、セリアが帰らなければ、きっとその日は来ない。
母の心を救うのも、父の悔恨を癒すのも。
セリアの存在が、鍵だった。
「カール=キリト……君にすべてを背負わせるつもりはない。だが、願わくば……」
彼女の傍にいる君だからこそ、導ける未来がある。
ユリウスは再び窓の外を見た。
いつか、あの門の向こうに、あの凛とした横顔が現れる日を想像する。
淡く、静かに、だが確かな願いを込めて。
「セリア。君がこの国を嫌いになっていなければ――どうか、一度だけでも。王都へ」
それは祈りだった。
声に出さずとも、届くと信じて。




