第60話 「氷の王、揺らぐ」――ユリウス5世=ノルド視点
「氷の王、揺らぐ」――ユリウス5世=ノルド視点
白銀の塔――シルヴァ=カテドラ。
全ての音が雪に吸われるような静寂の中、ユリウス5世=ノルドは王座に身を沈めていた。蒼白な長衣に身を包み、指先には常に冷気の魔素が渦巻いている。かつて齢わずか二十にして王座を奪った魔導の王。その瞳は今、何よりも深い氷のように冷ややかだった。
「……“魔導災害”の収束……だと?」
側近の報告を聞いた瞬間、王の目が僅かに揺れた。
「はい。北部ヴァルティナ鉱山、東の水脈都市セレイン、そして黒森の周辺……ここ一月の間に、魔物の出現が激減。精神障害を起こした者の数も明確に減少しています」
報告を告げるのは、老いた魔導官エルベルト。その声にはわずかに安堵が混じっていたが、ユリウスの前ではそれすら無礼に響く。
「その理由は?」
「……は。複数の目撃証言、ならびに大国リューゲンへの密偵の報告によれば……」
エルベルトはわずかに言いよどみ、だが王の沈黙に押されるように言葉を続けた。
「“黒衣の剣士と、銀髪の氷の魔女”によるものと……」
その瞬間、玉座の空気がぴん、と張り詰めた。
ユリウス5世の細い指が、肘掛けを小さく叩いた。
「……黒衣の剣士。まさか、カール=キリトか?」
「彼らはある古代遺跡を攻略したという連絡が」
「そして、氷の魔女……セリア=ノルド」
その名を口にした瞬間、王の表情が僅かに変わった。
冷静さの中に、微かに滲む憤怒と苛立ち。そして、言いようのない不安。
「……あの娘が再び、ノルドの地に舞い戻るのか、復讐か」
セリア=ノルド。王族の血が流れる者。王弟の娘、ユリウス5世からは伯父と姪の関係。かつてアリシア=ノルドと同じく“魔導因子の逸脱”を理由に王家から疎まれ、追放された存在。だがその潜在能力は王族随一と評されていた。ユリウス5世自身も、彼女の資質には一目を置いていた。だから、息子の婚約候補にしていたのだ。
――あの娘が、アリシアの息子カールと共に?
「……皮肉なものだな。俺が管理しきれなかった混沌を、追放された者たちが鎮めて回っているとは」
王の声には、嘲笑とも自己嫌悪ともつかぬ色が混じっていた。
玉座の間に沈黙が落ちる。長い、凍てつくような沈黙。
その静寂を破ったのは、ユリウス5世の低く抑えた声だった。
「……カール=キリトに会ってみるか……」
エルベルトが目を見開いた。
「王よ、彼は“アリシア様の血を継ぐ者”――今、下手に呼び戻せば、貴族派閥が……」
「わかっている」
ユリウス五世は遮った。氷のような声だった。
「だが、今のノルドには“制御された力”が必要だ。記憶の書庫を開き、俺たちは禁を犯した。その代償は大きい。……だが、もし彼が“その力”を扱えるなら――」
その言葉の続きを口にすることはなかった。
だが、彼の内にある“焦り”は確かに存在していた。
自らの決断によって開かれた禁書庫は、確かに失われし力を呼び覚ました。
だが同時に、その力はノルドの秩序すらも侵しかけている。
今や〈白き咎人ペイル・シン〉が各地で不穏な動きを見せ始めているという報告もある。
王自らが望んだ“完全なる魔導国家”は、制御不能の領域へと足を踏み入れつつあるのだ。
「奴の力が必要だ。……そして、俺の目で確かめたい」
ユリウス5世の瞳に、一瞬だけ感情が灯った。
それは――嫉妬か、畏怖か、あるいは自分が置き去りにしてきた“何か”への憧れか。
「……失われた姫の血筋が、本当にこの国の希望となるのか」
玉座の背後、氷で出来た巨大な窓から差し込む光が、淡く彼の肩を照らした。
ノルドは、まだ冷たい。
だが、遠く。
氷原の向こう、雪を越えて吹き込む風は、かすかに変化の匂いを含んでいた。
セリアとカール、かつて追放された者たちとその息子。
彼らこそが、今のノルドに必要な“異物”であり、“救済”であるのかもしれない――
ユリウス五世=ノルドは、もう一度だけ小さく呟いた。
「……カール=キリト。ノルドにこい。すべてを終わらせるために。そして、始めるために」
北の空に、淡く光る極光が揺れていた。
その光は、かつてアリシアが愛した魔導都市の上空を、静かに照らしていた。
そして運命の歯車は、確かに再び動き出していた。
『追放された公爵令嬢アリシア〜咎なき者の追憶〜』
それは、雪解け間近の早春のことだった。
北の魔導王国ノルド。その中心にそびえる漆黒の魔導塔には、代々の王族が積み上げてきた叡智と魔術の粋が集められていた。その地に生まれ、王弟の娘として育てられたアリシア=ノルドは、優雅でありながら聡明、そして慈愛深くもあった。
十六歳のその日、彼女は宮廷魔導院の卒業パーティーに臨んでいた。紅玉のドレスを纏い、母から受け継いだ白金の髪を美しく編み込み、エメラルドの瞳には未来への希望が宿っていた。――その夜、第一王子ウィリアム=ノルドが彼女に婚約破棄を告げるまでは。
「アリシア=ノルド。お前との婚約を、ここに破棄する」
会場が静まり返った。
貴族たちのざわめきが、波のように広がっていく。
「理由は……」
アリシアが口を開こうとした瞬間、ウィリアムはひとりの少女を伴って壇上に立った。彼女は平民の出でありながら、ウィリアムと魔導学院で関係を深めていたという少女――マルゲリート。
「アリシアはマルゲリートをいじめていた。それも陰湿なやり方でな。これは、王家の婚約者としてあるまじき行為だ」
嘘だった。そんなことはしていない。だが、その場にいた者たちの表情は冷たかった。
それは、用意された舞台だったのだ。
アリシアの伯父である――ユリウス4世=ノルドが、世界会議で南の大国との交渉に外遊している隙を突き、王太子派と反王弟派の貴族たちが結託して仕組んだ陰謀。その裏では、ウィリアムの即位を早めたい者たちが蠢き、アリシアを排除することで、王太子の婚約者の座と王弟とその一族を断つ計画が進行していた。
誤解や噂はすぐに真実として広まり、翌日には、王弟の邸宅に対して「魔導不正使用の疑い」という名目の強制捜査が行われた。証拠もなければ、まともな裁判もない。王都の騎士団が邸宅を包囲し、家臣たちも次々と拘束された。
父・ユリウス四世は帰還途中でその報を受けたが、戻った時にはすべてが終わっていた。
そして、アリシアには「王命による追放」が下される。
その行き先は、魔物の巣食う南方の魔境・黒樹の森。生きて戻った者はいないと言われる、死の森だった。
「お前には、咎がある。王族であるにも関わらず、他者を虐げ、民の声を無視したその罪……この国に居場所はない」
そう言い渡したのは、王国審議会の長であり、王太子派の重鎮・アーデルバート公爵だった。
アリシアは反論しなかった。いや、できなかった。
愛していた人に裏切られ、国民に憎まれ、父母、幼い弟、妹が連座で処刑された。すべてが、あまりにも急すぎた。
そうして、彼女もひとり、処刑同然の追放に処された。
だが、希望は絶えていなかった。
彼女が追放される直前――その情報を密かに聞きつけた者がいた。王家の次男、第二王子ヘンリー。後のユリウス五世である。
「……このままでは義姉上は殺される」
彼はそう呟き、己の命令権すら危うい立場でありながら、忠義厚い従者に命じた。
「護衛を一人つけていい。ただし、それが見つかれば、私も終わる。それでもいいなら、フリューゲンの商隊に紛れ込ませて逃がす手はある。選ぶのは……アリシア殿下ご自身だ」
アリシアはそれを聞き、微笑んだ。泣きながら。
追われるように、彼女は南の森の縁を越えて、さらに南方の商国フリューゲンへと逃れた。
痩せこけ、傷だらけになりながら、それでも生きて。
そして誓ったのだ。
いつかこの冤罪を晴らし、真実を世界に知らしめると――
(私は……私は、まだ終わっていない)
凍てついた国を後にし、少女は新たな運命へと踏み出した。
その名を、アリシア=ノルドという。フリューゲン商隊の伝手でキリト伯爵家のメイドになるのは、のちの話である。
かつて王妃となるはずだった少女が、今はただ、追放された一人の咎なき者として歩む。
だが、運命は彼女を見捨てない。
いつか、王国に嵐が吹き荒れる時――その中心には、アリシアの姿があることだろう。




