第58話 セリアのまなざし:その手がくれたもの
『闇を裂く剣』 ―セリアのまなざし:その手がくれたもの―
私は、王宮で育った。
豪奢な絨毯の上を歩き、食事は銀の器に盛られ、言葉一つにも作法が求められた。
何不自由のない暮らしだったと、多くの人は言うだろう。
けれど私は知っている。
そこには、笑い声がなかった。
誰も、心の底から「ただ一緒にいること」を喜んではいなかった。
だからこそ、今でもときどき――この家の風景が、夢のように思えることがある。
あの日、カールと共に王都ルメリアに家を持ち、
迎え入れた母娘――レーナとティナ。
彼女たちは、私の知らない「日常」を持っていた。
それは、まるで魔法のようだった。
レーナは、台所に立ちながら穏やかに微笑む。
火加減を気にしながら、ふと私の方を見て「セリアさん、これ味見してくださる?」と声をかける。
その言葉に、格式も命令もない。ただ、誰かを思う優しさだけがある。
最初、どう返せばいいかわからなかった。
王宮では、食事は給仕人が運ぶものだった。
誰かの手で温められ、誰かの心で作られた料理など、私は知らなかった。
「……美味しい。これ、なんていう料理?」
「ふふ、ただの家庭の煮込み料理ですよ。けど、喜んでもらえてよかった」
そのときのレーナの笑顔は、まるで春の陽だまりのようだった。
彼女の手はよく働く。朝早くから洗濯をし、掃除をし、ティナに声をかけ、私にも「お加減はどうですか?」と気づかってくれる。
誰かに仕えるのではなく、誰かを「想う」ために動く――そんな姿を、私は初めて見たのかもしれない。
そして、ティナ。
あの子は、本当に風みたい。
くるくる変わる表情。遠慮のない声。ちょこまかと動く足。
最初は少し、戸惑った。いや、正直に言えば、戸惑い以上だったかもしれない。
「セリアー! 一緒にお花見にいこっ!」
「セリア! ルゥと追いかけっこしたんだけど、私の勝ちだったのー!」
「セリア、髪さわっていい? きれいだから!」
あの子の言葉はまっすぐで、どこまでも自由だった。
私は、どう応えたらいいか分からず、ただ「……そうね」と笑うしかできなかった。
でも、ある日。私がベランダでぼんやりしていたときのこと。
ティナがそっと隣に来て、座った。
「セリア、なんだかさみしそう。なんで?」
その一言に、心がぐらりと揺れた。
王族として、ずっと隠してきたもの。誰にも見せてこなかった弱さ。
それを、幼い少女がたった一言で見抜いた。
「……そうね。ちょっとだけ、昔のことを思い出してたの」
「うん。でも、いまはここにいるよ? 私と、ルゥと、お母さんと、カールと」
その言葉に、私は初めて、あの子を「小さな太陽」のようだと思った。
ティナは、理屈ではなく、まっすぐに人の心を照らしてしまう。
無邪気で、でも時々とても鋭い。
何気ない言葉が、私の心の奥に、やさしく触れてくる。
レーナとティナ――
この母と娘は、私に「家族」というものの形を教えてくれた。
それは血のつながりではない。
身分でもない。言葉や作法でもない。
ただ「一緒に生きていくこと」。
誰かのために手を動かし、声をかけ、心を寄せること。
私はきっと、まだ不器用なまま。
でも、この家の空気の中で、
レーナのやさしさや、ティナの無邪気さに触れて、
少しずつ、私の中の「王族の檻」が、ゆっくり溶けていくのを感じている。
あの二人のようになれたら。
そんなふうに思う日が、来るなんて――あの頃の私には、きっと想像もできなかった。
それほどまでに、あの母娘はあたたかく、そして強い。
カールが信頼を寄せるのも、よくわかる。
私も、あの食卓に座りながら思うのだ。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そう、心から。




