第138話 輝きの目覚め──母の祈り、娘の光
輝きの目覚め──母の祈り、娘の光
魔王国の首都、その奥まった一角にある王城の特別室。石造りの廊下の先にあるその扉の向こうで、私は十年もの間、ただ娘の名を呼び続けてきました。
ニーアン――あの子は、十年前に呪いに倒れ、深い眠りについたままです。
私の、最愛の娘。やさしくて、笑顔が似合って、小さな頃から水精霊に愛されていた「水の姫」。
その小さな手が、ある日ふいに落ちた日のことを、私は忘れることができません。
「レナリア様……」
側仕えの女性に呼ばれ、私はハッとして顔を上げました。
長い時を過ごしてきたこの扉の前。けれど今日は違います。王子アレクサンダー殿下が、再び儀式を行うと告げたのです。セリア様、カール様、リーリアン様――信頼のおける若き戦士たちが、娘を救おうとしてくださっている。
私はドアノブに手をかけました。震えていました。希望を持ちたいのに、それを信じるのが怖い。そんな気持ちが、胸の奥でぐるぐる渦巻いていたのです。
「ニーアン……」
扉の向こうには、ベッドに横たわるあの子の姿。そしてその傍には、殿下が膝をつき、あの子の手を握っていました。
銀髪の少女・セリア様が魔法陣を描き、光が部屋に広がっていくのがわかります。彼女の額には汗がにじみ、カール様とリーリアン様が支えている。
――どうか、間に合って。
私は近づいて、ニーアンの顔をそっと覗き込みました。
その肌は透き通るように白く、まつげが少しだけ震えていました。
「この子を……もう一度、抱きしめたい……!」
心の奥から湧き上がる叫びに、声が震えました。
夫――ディオスも、静かに隣に立っています。厳格で無口な人だけれど、誰よりも娘を想っているのを私は知っていました。
「俺の魔力も使ってくれ」
その時、アレク殿下の声が響きました。
私は驚いて彼を見つめました。
あの事故の後、夫は殿下を遠ざけようとした。責任を負わせ、断絶を選びかけた。けれどこの十年、彼は一日も欠かさずこの部屋を訪れ、娘の手を取り続けていたのです。
「……許したわけじゃない。でも、あなたの想いは……届いてた」
ディオスが呟き、殿下は深く頭を下げました。
「必ず……ニーアンを目覚めさせます」
殿下が娘の額に手を添えると、金と青の魔力が優しく広がっていきました。
それは、かつてのあの激しい煌獄の力ではなく、まるで祈りのように、穏やかな光。
「……あぁ……」
セリア様が涙を浮かべたその時――
まばゆい光が、魔法陣の中央からはじけました。
空間が静まり返る中――
かすかに、ひとつの息遣いが聞こえました。
私は思わず息を呑みました。ニーアンの指が……ほんの少し、ぴくりと動いたのです。
「ニーアン……?」
私は思わず叫びそうになって、けれど夫がそっと私の肩に手を置きました。
ゆっくりと――まぶたが震え、開かれていく。
そして、小さな、でも確かな声が聞こえました。
「……アレク……さま……?」
あの子の瞳が、あの人を見つめていた。
もう、言葉なんていらなかった。
私は駆け寄って、娘をぎゅっと抱きしめました。
「ニーアン……! ああ……!」
この十年、どれだけこの日を夢見たか。
娘の体温を感じる。それだけで、涙が止まりませんでした。
「母上……? ……泣かないで……?」
あの子の手が、私の背中にそっと回ってきました。
「うん……うん……いいの……泣かせて……」
「……夢を見てた気がします。ずっと……暗い場所で、でも誰かの声が……」
「殿下が、ずっと呼んでくださっていたのよ……!」
娘は殿下を見て、やわらかく微笑みました。
「……聞こえてました。あの声。優しくて……強くて……。約束、守れた、かな……?」
殿下の瞳に、また涙が浮かびました。
「守れたさ。戻ってきてくれて……ありがとう」
私は、その光景を見ながら、心の底から思いました。
ああ……この日が、来たんだ。
「……おかえり、ニーアン」
夫の声が震えていました。私も、もう何度目かわからないほど、娘の名前を呼びました。
「おかえり……!」
そのとき、白い毛並みの子犬――カール様の相棒、ルゥが「ワン!」と元気よく吠えました。
みんな、笑って、泣いて、抱きしめあって……。
この十年が報われた瞬間でした。
あの子は、もう一度立ち上がるでしょう。
アレク様と共に、新たな未来を選ぶのでしょう。
でも、母として願うことは、ただ一つです。
どうか、もう二度と、つらい思いをしないで。
どうか、この世界が、あの子に優しいものであってほしい。
帰り道、私はふと空を見上げました。
今夜は満月。空には、澄んだ星がひとつ、きらりと輝いていました。
それはまるで、ニーアンの瞳のようで――
私は、そっと目を閉じました。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
愛しい娘よ。あなたが帰ってきてくれただけで、私はもう、それだけで十分です。




