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第20.5話 リリス視点:父の書斎にて、絶望の朝

◆リリス視点:父の書斎にて、絶望の朝◆


 翌朝。私は、すっかり冷え切った紅茶に口をつけることもできずにいた。


 眠れなかった。舞踏会のあの場面が、まるで呪いのように何度も脳裏をよぎる。カールの姿。あの魔法陣に映された私の顔。ざわめく会場の視線。──そして、誰一人として、私に手を差し伸べる者のいなかった事実。


 ……これは悪夢よ、きっとそう。目を覚ませば、私はまた“完璧な伯爵令嬢”でいられるはず。


 そう信じたかった。けれど、現実は残酷だった。


 「……リリス、お父様がお呼びです」


 控えのメイドが、冷ややかに告げた。いつもなら「お嬢様、どうぞお召し替えを」などと取り繕うくせに、今は目も合わせない。


 私は重い足取りで、ヴァレンタイン侯爵家の本館──父の書斎へ向かう。


 


 重厚な扉をノックし、返事を待たずに中へ入ると、父は書類に目を落としていた。その表情は、冷徹で、揺るがぬ権威そのものだった。


 「……失礼します、お父様」


 私は、床に膝をついて頭を下げる。そうせずにはいられなかった。昨夜の一件で、私は“令嬢リリス”としての信頼をすべて失ったのだから。


 「──立て、情けない」


 父の声は低く、刺すように冷たい。


 私は立ち上がったが、視線は合わせられない。震える唇を噛みしめ、沈黙する私を、父はじっと見据えていた。


 「リリス。お前は、カール=キリトとの婚約を、己の浅はかな判断で破棄したな?」


 「……はい」


 「その結果、昨夜の舞踏会で何が起きたかは、言わずとも分かるな」


 私は何も言えなかった。父がその気になれば、私は今ここで勘当されても文句は言えない立場だ。


 「無能だった、育ちが悪かった、家柄が劣っていた──貴族社会での“格”を理由に、あの男を見下し、お前は彼を切り捨てた。そして、それを公の場で嘲笑し、辱めた。……だがな、リリス。今となってはどうだ?」


 父の瞳が、鋭く私を貫いた。


 「キリト卿は、陛下の側近騎士候補になっている、軍務で戦功を重ね、“黒衣の剣士”剣聖の異名を取る実力者となった。しかも、貴族社会の表舞台においても、昨夜の一件で“真実の騎士”として名を轟かせた」


 私は奥歯を噛み、肩を震わせた。


 「……まさか、あんなに変わっているとは……。私には、分からなかった……」


 「分からなかったのではない。見る気がなかったのだ。──お前は“見下していた”だけだ。あの男の中に眠っていた才覚も、誇りも、未来も」


 「…………っ」


 「リース侯爵家も、ヴァレンタイン家も、今や王都では“先見の明を失った家”として囁かれている。あの男を見捨てた家として。王命に背き、私情で未来を潰した家として」


 父の口調には怒り以上に、諦めがにじんでいた。


 「貴族の価値とは、血筋や富ではない。“目利き”だ。見る目を持ち、有望な才を育て、正しく使う。それができぬ家は──没落する。リリス、お前はそれを分かっていない」


 私は、ようやく父の顔をまともに見た。


 「……私のせいで、ヴァレンタイン家が……?」


 「いや、まだ没落はしていない。だが、このままでは“そう遠くない未来”にそうなる。昨夜の一件で、これからのお前の縁談は難しくなるだろう。残るのは……年老いた未亡人の跡取りや、商人崩れの分家ばかりだ」


 言葉が出なかった。何もかも失っていたのだ。昨夜、あの会場で、私はただ辱められたわけではない──未来のすべても、粉々に打ち砕かれていた。


 「……お父様……私は、どうすれば……」


 「遅い。何を今さら」


 父は、机の上の文書をゆっくりと私の前に突き出した。


 「これは、キリト卿からの回答書だ。お前との件に関する誹謗中傷を控えるようにと、彼は自ら働きかけ、名指しでの批判は避けるよう尽力している」


 「……え?」


 「つまり、あの男は“恨みだけで動いたわけではない”。正義と責任に従って、あの場で“裁き”を下した。彼は貴族の中でもっとも恐るべき男だ。力を持ち、徳を備え、冷静で……復讐ではなく、“秩序の回復”としてお前を断罪した」


 私は頭を垂れた。


 「……そんな、彼が……」


 「リリス。あの男は、もうお前の知るカールではない。──だがな」


 父は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。


 「まだ、希望がないとは言わぬ。だが、これ以上はお前自身の行動でしか挽回できぬ。仮に赦しを乞うとしても、プライドだけは捨てろ。それができぬなら、貴族としても、娘としても──お前を見限る」


 私は、立ちすくんだまま、その場に膝をついた。


 「……わかりました。すべて、私の責任です……」


 


 扉を出たとき、廊下の空気は、冷たく澄んでいた。幼いころ、父に叱られたあと、泣きながらこの廊下を歩いた記憶がある。


 けれど──あの頃と違って、今の私は、誰にも手を引かれない。


 見下した相手に、見下ろされる側になる。


 ──それが、私の選んだ未来だったのだ。

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