第82話 リーリアン、森を越えて、故郷へ
紅翼の帰還 ―森を越えて、故郷へ―
グレイリーフの森。
霧が薄く漂うその古の森は、魔族の領土と人間の領土を隔てる自然の境界線として、古来より厳しく管理されてきた。
だが今、その森を越え、三つの影が進んでいた。
カール=キリト、セリア=ルゼリア=ノルド、そして――リーリアン=フリーソウ。
「もうすぐだ。この森を抜ければ、父の領地“ハトマ”の外縁……見張り塔が見えるはず」
紅い髪を風に揺らしながら、リーリアンが呟く。その声には懐かしさと、わずかな緊張が滲んでいた。
「……緊張してるのか?」
カールが静かに尋ねる。
「うん、少しだけ。でも、それよりも……胸の奥が、ずっと熱いの。懐かしくて、怖くて、嬉しくて、誇らしくて。感情がぜんぶ混ざってる感じ」
リーリアンは笑ってみせたが、その目の奥には確かに揺れる光があった。
かつて自分が追放された地。自分の存在を拒絶された場所――そこへ、己の意思で戻るのだ。
「私がここを出たのは、たしか初夏の頃だった。だけど、あのとき見た森より、ずっと色が濃い……気がする」
「きっと、お前が変わったからだ」
カールの言葉に、セリアが小さく頷いた。
「リーリアン。あなたは、あの頃のままではないわ。だから見える景色も、感じる風も、すべて違うものになる。……きっと、良い意味でね」
「ありがとう。ふたりとも、ほんとうに……」
リーリアンは言葉を切り、空を仰いだ。
蒼い空に、木々の合間から光が差し込んでいる。
「――私、もう逃げないよ」
**
森を抜ける頃、陽はすでに傾きはじめていた。
視界の先に、石造りの見張り塔が姿を現す。あれがフリーソウ侯爵領の外郭警備拠点であり、通行管理の要所だった。
「見張りがいるわ。気をつけて」
セリアが警戒を促すと、カールが軽く手を上げる。
「オレが話してみる」
三人が塔へ近づくと、塔の上部にいた衛兵たちが動きを見せ、すぐに数人の魔族兵が地上へ降りてきた。彼らの目に、警戒と敵意の色が浮かぶ。
「待て、名を名乗れ。ここは侯爵領境界、許可なき通行者は――」
「お久しぶりです。私は、リーリアン=フリーソウ。フリーソウ侯爵の娘です」
毅然とした声で名乗りを上げた瞬間、兵士たちは動きを止めた。
「……っ!? リ、リーリアン様……? まさか……!」
「帰還は突然のこと、ご迷惑をかけるかもしれません。でも、正当な理由があり、客人を連れて帰郷しています。父上に、謁見の申し入れを」
動揺を押し隠せないまま、兵士たちは一斉に敬礼した。
「す、すぐに伝令を飛ばします! お迎えの馬車を――」
「いいえ、徒歩で構いません。故郷の風を、この足で確かめたいから」
リーリアンはそう告げると、まっすぐに道を見つめた。
その後ろで、セリアとカールが無言のまま微笑んだ。
**
城塞都市ハトマ。
そこは魔王国南部の軍事・文化の要衝であり、フリーソウ家の本拠地でもある。
高く聳える石の城壁、空を巡る飛竜の影、活気ある市場と警備の厳しい城門。
そのどれもが、リーリアンにとって懐かしい記憶の断片だった。
「……変わってない」
彼女は呟く。城門が開き、ゆっくりと三人が歩を進める。
その動きを、門兵たちや通行人が注視していた。
誰もが、まさかあの“追放された令嬢”が帰ってくるとは思っていなかったのだ。
「リーリアン様が……?」
「本物か? あの紅翼の……」
「見ろ、背中の魔具……六翼を抑える拘束装置だ」
「一緒にいるのは人間か? フリューゲンの騎士だって噂が……」
噂は瞬く間に広がり、視線が一層鋭さを増す。だが、リーリアンは一切怯まず、堂々と歩を進めた。
「父上にお会いする前に、ひとつ寄り道していい?」
リーリアンがそう言って向かったのは、侯爵家の騎士団訓練所。
かつて彼女が剣を学び、紅翼を宿すきっかけとなった場所だった。
「……懐かしいな。まだ覚えてるか、この練習場」
カールが周囲を見回しながら言うと、リーリアンは軽く頷いた。
「もちろん。ここで私は、何度も倒れて、泣いて……それでも剣を握った。誇りを守るために」
彼女の指先が、壁の一角に刻まれた傷痕に触れる。
「この傷は、私が初めて魔血を暴走させたときのもの……騎士たちは怖れて離れていったけど、父は何も言わなかった。ただ“己を知れ”とだけ」
「だからこそ、今があるのね」
セリアの声に、リーリアンは小さく微笑む。
「……うん。そして今なら、ようやく“己を知った”と言える。だから、胸を張って帰れる」
**
騎士団詰所を後にし、ついに三人は侯爵邸の正門前へとたどり着いた。
門番の一人が、顔を青ざめさせながら叫ぶ。
「し、執事ゼルフィス様を! 至急お呼びをっ!」
しばらくして、邸内から現れたのは、白髪の老執事――ゼルフィスだった。
彼は一目見るなり、目を大きく見開く。
「……まさか、リーリアン様。……いえ、もはや“様”などでは呼べぬほどに、凛々しくなられて」
「お久しぶりです、ゼルフィス。私は帰ってきました。父上に、お目通りを願えますか?」
執事は深く頷き、膝をついて言った。
「ご案内いたします。……お嬢様」
門が開く。
その奥に広がる、懐かしくも決別を告げられた場所。
紅翼の娘は、今こそ誇りを胸に――故郷へ帰還する。
このとき、まだ誰も知らなかった。
この再会が、魔族と人間の未来を左右する大きな転機となることを――。
 




