第2話 リリス=ヴァレンタイン視点:告別の決意
春の陽光が、まるで何もかもが平穏であるかのように降り注いでいた。
風に揺れる花々、祝福に満ちた空気、学院の中庭には卒業の余韻が漂っている。けれど、私の心はそれとは裏腹に、重たい沈黙で満たされていた。
目の前に立つ彼——カール=キリト。その顔には、今日という日を誇るような自信がにじんでいた。私がかつて、幼い頃から隣にいた少年。真面目で、ひたむきで……だけど、どこまでも不器用な彼。
「カール、少し話があるの」
私の声が、いつもより冷たく響いたのを自覚していた。だが、それは必要な冷たさだった。私の覚悟が揺らがないようにするための、最後の壁。
彼は、いつものように笑った。きっと、これから未来の話でもすると思ったのだろう。ふたりの夢を語る、そんな時間になると。けれど——
「——私たちの婚約は、ここで解消するわ」
口にした瞬間、私の胸にも痛みが走った。けれど、表情には出さない。そうしなければ、決意が崩れてしまう。
「……な、何を言ってるんだ、リリス?」
その声。驚き、混乱、否定。どれも私が予想していたとおり。でも、それでも心が揺れるのは、どうしてだろう。
「理由は簡単よ。あなたは、私の求める将来にふさわしくない。半分平民上がりの苦学生、それがあなたの限界」
突き刺すような言葉。私の中の冷たい仮面が、それを躊躇なく言わせた。ざわめく周囲の声も、どこか遠くに聞こえる。
「私はダンガー子爵家と新たに婚約することにしたの。あちらの方が、ずっと将来性があるわ。何より……あなたよりもずっと“上”の人間よ」
——本心だったのか?
問いかけたくなる自分がいた。確かに、家柄も将来性も違う。私が家を背負う身である以上、感情だけでは選べない。恋愛と政略、その境界線はいつだって残酷で、正しさと幸福が一致するとは限らない。
だけど、彼を見下ろしたとき、私は確かに自分が“優位に立っている”と感じた。力を持つ者として、選び取る者として——
「……上、だと?」
カールが呟いたその瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。いや、何かが、変わった。
まるで、目の前の少年が知らぬ間に何かを思い出したかのように——
私は、無意識に息を飲んだ。
そこにいたのは、かつて私が知っていた彼ではなかった。あの努力家の少年でも、身分を気にしていた卑屈な青年でもない。静かに、けれど確かに、何かを燃やしはじめた目をしていた。
「……こんなところで終わってたまるかよ」
聞こえたその言葉の意味が、理解できなかった。ただ、肌に感じる空気が変わったのは確かだった。私の心に一瞬、氷のひび割れのようなものが走る。
けれど、それでも私は背を向けた。
迷いは、ある。情も、未練も、あったのかもしれない。
でも、私はヴァレンタイン侯爵家の娘。未来を選び取るためには、過去を断ち切らなければならない。愛情や情けで揺らぐほど、甘くはない世界で生きているのだから。
「せいぜい、平民として頑張りなさい」
ドレスの裾を翻す。冷たい風が髪を揺らす。ダンガー子爵がすぐ隣で微笑みを浮かべていた。
それでも、私の耳には——
最後まで、誰の声も届かなかった。
背中越しに感じる、彼の沈黙。
あの炎のような視線だけが、ずっと私の胸を焼いていた。