第70話 フリーソウ侯爵領都ハトマを目指す旅
星の丘の誓い ―旅立ちの朝―
王都ルメリアの北街区。穏やかな陽光が差し込むその一角に、ひときわ静かな朝が訪れていた。街の喧騒から少し離れた場所にある、一軒の屋敷。その広い庭に、三人と一匹が集っていた。
カール=キリト、セリア=ルゼリア=ノルド、リーリアン=フリーソウ――そして、小さなフェンリルのルゥ。
旅支度を終えた三人は、朝露に濡れた芝生の上に立ち、言葉少なに空を見上げていた。
「……いよいよ出発ね。実感が湧かないけど」
セリアがそうつぶやいた。銀白の髪が朝の光を受けて淡く輝き、まるで空の一部のように透き通っていた。彼女の瞳は静かに揺れ、けれどその奥には、決意の光が宿っていた。
「まずはハトマまで馬車で三日。そこからは徒歩で〈グレイリーフの森〉を抜けて……十日くらいだったよな?」
カールが背負った荷物を軽く持ち直しながら、隣に立つリーリアンへ問いかけた。銀髪の剣聖と呼ばれる彼の右手の甲には、ウロボロスとの契約紋が淡く光を放っている。
「うん、そう。街道沿いは安全だけど、森の中は……そう簡単じゃない」
ピンク色の髪を風になびかせながら、リーリアンは小さく頷いた。前髪の間からのぞく角が、朝日にきらりと光る。
「グレイリーフの森は、魔族領との境界にある場所。昔は盗賊や魔獣も出たし、今でも変異種が残ってるって言われてる。油断しないほうがいい」
「魔物か……久しぶりに剣を振るうことになるかもな」
カールは腰に下げた剣の柄に手を添える。その仕草には、剣士としての覚悟と、自らの力への自信がにじんでいた。
「でも、大丈夫よ。わたしも……あなたの隣で戦うつもりだから」
セリアの声は優しかったが、その言葉には白銀の聖女としての強い意志が込められていた。彼女の使う守護術〈プロテクティア〉を思い出すたび、カールの心は穏やかになる。
「ふふっ、頼もしいな。ルゥ、準備はできてるか?」
「もちろんだ、カール! ボクはもう、ウズウズしてるぞ!」
ルゥは元気いっぱいに跳ね、ふさふさの尻尾をぶんぶん振った。その姿は頼もしくも、どこか和ませるものがあった。
こうして、三人と一匹はフリーソウ侯爵領の領都・ハトマを目指して、旅立った。
―――
王都を出て最初の三日間は、馬車での穏やかな旅だった。舗装された街道を走りながら、広がる草原や小さな村々を眺める。旅商人たちとすれ違えば手を振り合い、時折は道端で果物を売る子どもたちと笑顔を交わす。
夜は、街道沿いの宿に泊まった。ろうそくの灯りの下、温かい食事を囲んで過ごす時間は、どこか家族のようだった。
そして、二日目の夜。宿の中庭で、三人は星を見上げていた。
夜空には無数の星が瞬いていた。どこまでも広がる闇の中に、きらめく小さな光。まるで、それぞれの運命が空に刻まれているかのようだった。
「……この辺りにも、昔は魔族の村があったって記録があるの」
ふいに、リーリアンがつぶやいた。夜風に吹かれ、彼女のピンクの髪がそよぐ。
「でも、戦争の中で……すべて消えてしまった。今じゃ誰も、その存在を語らない」
セリアがそっとリーリアンを見つめた。
「あなた、本当にそういうことを大切にしてるのね。過去を忘れないって……簡単なことじゃない」
「だから、わたしは戦うの。言葉じゃ届かない想いを、魔法と力で伝えるために。あの舞台に立って、“魔族”としてだけじゃなく、“人間と共に生きる者”として叫びたい」
リーリアンの瞳には、燃えるような紅い光が宿っていた。それは、彼女が魔王の墓地〈ダラハル〉で目覚めた力――魔血の覚醒。その証として、彼女の背には紅い六枚の光翼が浮かび上がる。
「……わかった。オレも、隣に立つ。剣で、言葉で、君の背中を守る」
カールの言葉に、リーリアンはわずかに頬を赤らめて、小さく微笑んだ。
「ありがとう、カール……そう言ってくれるの、ずっと待ってた気がする」
その空気を、ルゥがふわっと割って入ってきた。
「ったく……相変わらず、甘い空気だなぁ!」
ふにゃっとした声で文句を言いながら、ルゥは二人の手の間にぽすんと座り込む。
「……む? あれ? あ、セリアも、手繋いでいいぞ?」
「なっ……もう、ルゥったら」
セリアは頬を染めながらも、ルゥの頭をそっとなでた。ふわふわの毛に触れながら、その目には温かい光が宿っていた。
―――
だが、次の日から始まる〈グレイリーフの森〉での十日間の徒歩移動は、彼らにとって新たな試練だった。
「ここから先は、魔族領との境界……」
リーリアンが呟いたように、森は深く、そして暗かった。
昼間でも光が届きにくく、枝葉の間から差す光が地面に影を作る。風の音に混じって聞こえる獣の唸り声。どこか遠くで、枝を踏みしめる音。すべてが、見えない何かの気配を感じさせた。
「……誰かに、見られてるような気がする」
セリアがつぶやくと、ルゥの毛がぴくりと逆立った。
「森の奥には“変異種”がいるって言ったよね?」
「うん……“完全な魔物”でも、“野生の獣”でもない……何かが混ざって、歪んでしまった存在。姿も、動きも、人間の常識じゃ測れない」
「だからこそ、気を抜かないで。セリアの結界、頼りにしてる」
「ええ、プロテクティアはいつでも発動できるようにしておくわ」
その足元に、淡い魔法陣が浮かび上がり、六芒星と花の紋様がそっときらめいた。空間に温かい波動が広がり、一行を優しく包み込む。
「オレたちなら、大丈夫だ。剣も、魔法も、信じられる仲間もいる」
カールの言葉に、リーリアンはうなずき、セリアはそっと目を閉じて息を整えた。
この森の先には、大伝統武術大会の舞台が待っている。己の想いをぶつける、運命の戦いが。
三人と一匹の旅は、静かに、しかし確かに、未来へと進み始めていた――。




