第66話 魔族領、フリーソウ侯爵、魔王様からの手紙
フリーソウ侯爵邸・執務室
分厚い帳簿を閉じたとき、ノックの音が静寂を破った。
「入れ」
低く通る声に従い、老執事ゼルフィスが一歩踏み出す。その手には、封蝋された王家の文書が握られていた。
「――侯爵様。魔王様より、急ぎの伝令にございます」
「魔王様から?」
フリーソウ侯爵は、紅茶の入ったカップを置き、重々しく身を起こした。年のわりにしっかりとした体格。だが、鋭い眼光の奥に宿る感情は――疲労でも怒りでもない。かすかな困惑と戸惑いだった。
「……まさかな」
受け取った文書を開封する。中には、整った文字で記された王家の印章と、魔王ガンダーン直筆の署名。
――婚約破棄の件における謝罪、および国外追放の撤回。ならびに、リーリアン=フリーソウ嬢に対する帰国要請。
「……遅い」
侯爵は苦々しげに呟いた。
「遅すぎるのだ……」
数か月前の、あの日を思い出す。
王子シュナイダー殿下の気まぐれとも言える一言で、愛娘は婚約破棄とともに国外追放を言い渡された。貴族の娘としての名誉、家門の誇り、すべてを踏みにじられ――それでも、侯爵は抗議できなかった。
なぜなら――あのとき、リーリアンの魔力は暴走の寸前だった。理性を保つのがやっと。王族が恐れるのも、理解できた。いや、理解“してしまった”のだ。だからこそ、抗えなかった。
「ゼルフィス。……あの子は、今どこにいる?」
「はっ。王都ルメリアにございます。フリューゲン王国の“銀の剣聖”カール=キリト殿の邸宅にて」
「……あの男のところか」
侯爵の声が、ほんの一瞬だけ低くなった。
カール=キリト。噂では聞いていた。ウロボロスと契約した異能の剣士。王都を救い、数々の功績を上げた青年。だが、それよりも何よりも――リーリアンの婚約者である、という一点が、父として複雑な心境を呼び起こす。
「それで……あの子は、どうしている?」
「はい。魔血の覚醒を経て、今や六翼を自在に操り、その力を完全に制御しているとの報告が」
「……そうか」
侯爵は、静かに目を閉じた。
思い出すのは、まだ幼い頃のリーリアンの姿。庭園で魔力の練習をしながら、花を咲かせてはしゃいでいた、無邪気な少女。
――なのに、あの子は一人で“墓地”に行った。
魔族の始祖たちが眠る、死と力の象徴。すべてを変える覚悟を持って。あれは――父としては、止めるべきだったのか。だが今となっては、もうその問いに意味はない。
娘は、自分の力で、自分の運命を切り開いたのだから。
「ゼルフィス」
「はっ」
「……正式に通達を出せ。“リーリアン=フリーソウ嬢に対し、魔族国への帰還命令を下す”とな」
執事は一瞬だけ表情を動かしたが、すぐに厳かに頭を垂れた。
「……承知しました」
「ただし」
侯爵は、まるで剣の刃先を突きつけるかのように、冷ややかな声で続ける。
「強制ではない。王の命令だろうと、父として従わせる気はない」
「……と、申しますと」
「この命令はあくまで“要請”だ。戻るかどうかは――あの子自身が決めればいい」
「……かしこまりました」
父としての誇りと、政治家としての責務。その狭間で、揺れるような決断。だが、侯爵の瞳には、どこか安堵に似たものが宿っていた。
――あの子は、力を手に入れた。
――そして、自分で未来を選びとる資格も得た。
ならば、自分の役目はただ一つ。
その選択を、見守ることだけ。
「ゼルフィス、最後にもう一つだ」
「何なりと」
「……手紙を添えてくれ。“私は、いつでもお前の帰りを待っている”と」
それは、公の命令ではない。父から娘への、ただ一通の私信。
だが、侯爵にとっては何よりも重い言葉だった。
執事は無言で一礼し、部屋を後にした。
広い執務室に、静けさが戻る。
書棚に並ぶ本の列。窓の外に広がる魔都の光景。すべてが変わらぬままそこにあるのに、侯爵の心には、確かな風が吹いていた。
――あの子が戻るかどうかは分からない。
――だが、もう心配はいらない。
リーリアンは、すでに“魔族の誇り”として生きている。
その事実だけで、胸は十分に満たされていた。
(リーリアン……お前は、よくやった)
侯爵は静かに目を閉じ、その名を心の中で呟いた。
娘は、もう守られるだけの存在ではない。
彼女こそが、新たな時代を導く者となったのだ――。




