第63話 夜の帳(とばり)が下りる、ふたりきり
『夜の帳が下りる、ふたりきり』
夜が深まる王都ルメリア。
北街区にあるカール=キリトの屋敷は、外の喧噪とは別世界のように静まり返っていた。セリアは今日、王城からの呼び出しでそのまま宿泊することになり、今夜は彼とリーリアン、ふたりきり。
「……ティナはもう寝たの?」
「うん、レーナさんが読み聞かせしてたら、すぐにすーって。尻尾までぐっすりだよ」
リーリアンは微笑みながら言ったが、その笑顔にはどこか翳りがあった。
カールはそんな彼女を、黙って見つめる。
暖炉の火が静かに揺れ、部屋の影を揺らしていた。二人きりになったリビング。お茶の香りがまだ漂っているのに、言葉だけが、少し遠い。
「……なあ、リーリアン」
カールが声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らした。
「……どうして、そんなふうに見るの?」
「おまえが、何か言いたそうにしてるから」
リーリアンは、ゆっくりと目を伏せた。
そして、口を開く――けれど、その声は、どこか震えていた。
「ねえ、カール。……わたし、少し……怖いの」
「……」
「魔王の墓地で……新しい力が目覚めた時、あの感覚が、今でも身体の奥に残ってる。羽根の一枚一枚が、血と一緒に脈打って、周りの空気すら赤く染まっていく……」
言葉にすればするほど、彼女の表情は曇っていった。
「もし、もしあの時……あの力で、誰かを傷つけてたら? わたし、ティナに触れただけで、何かを流し込んでしまうかもしれない……」
「……」
「セリアにも……あなたにも」
カールは静かに立ち上がると、リーリアンの隣に腰を下ろした。何も言わず、ただそっと、彼女の手を取る。
彼女の手は少し冷たく、でも指先に力がこもっていた。
「……そんな顔するなよ」
「でも、カール……!」
「大丈夫だ」
彼の言葉は、深く、そしてまっすぐだった。
「万が一、おまえが暴走しても……オレが止める。絶対に、おまえを一人にはさせない」
リーリアンの瞳が、揺れた。
「……そんなこと、言って……本気で止められると思ってるの?」
「思ってるさ。剣でも、魔法でも、何より――」
カールはそっと、彼女の頬に触れた。
「おまえを信じるこの心で、止めてみせる」
リーリアンの喉が、震えた。
まるで何かが、長い時間の中で張りつめていたものが、ようやく解けたように。
「……ほんとうに……わたしを、怖くないの?」
「おまえが“リーリアン”である限りな」
その言葉に、彼女の目から一筋の涙がこぼれた。
それは弱さではなく、強く在ろうとした者がようやく見せた「素顔」だった。
彼女は震える声で言った。
「……ありがとう、カール。わたし、ずっと……この力に呑まれたら、誰にも戻れなくなると思ってた。だけど、あなたの言葉で……少しだけ、帰る場所を思い出せた」
「オレが帰る場所を守るんだ。だから――」
カールは彼女を引き寄せ、そっと抱きしめた。
そのぬくもりに、リーリアンは身を預ける。血の力でも、魔法でもない、ただの“人”としての自分を、彼に受け止めてもらえたことが、何よりも救いだった。
ふたりは、しばらく黙って寄り添っていた。
暖炉の火がやわらかく揺れ、静寂の中に心の音だけが響いていた。
やがて――。
リーリアンが、そっと顔を上げる。
「ねえ、カール……今夜だけ、そばにいてもいい?」
「……今夜“だけ”なんて、言うなよ」
その言葉に、彼女は涙のにじんだ笑顔を見せた。
そして、夜の帳の中で、ふたりの影はひとつになった。
言葉はもういらない。
ただ、互いの存在が確かであることを、確かめ合うように。
激しくもなく、淡くもなく――。
けれど、深く、心の奥底で繋がるような、静かな夜だった。




